セザンヌのりんご 拡大図
人間はなぜ絵を描くのか。絵や景色などは、ただ楽しめばよいものを、こうした不粋な問いでしらけさせてしまうのも、哲学愛好者の悪い癖なのかもしれない。
それにしても、なぜ人間は絵を描くのだろう。いや、単に絵だけではなく、音楽を作曲し、詩や小説などの文学を創作する。芸術を創作し、楽しむ。猿などの動物たちがそんなことを楽しんでいるとは考えられないから、それは人間だけの特性であり、特権であると言える。
人間はなぜ芸術にかかわるのか。それは根源的な問いでもある。この問いには、さまざまな答えが用意されるだろう。そこに、回答者の数だけの人間観が現われる。あなたならどのように答えられるだろう。
それは人間が神の子であるからだ。あるいは少なくとも、人間が精神的に神に似せられて造られたからだ。神が世界を創造したように、人間も神に似て、神のように世界のなかに自分の創造物を刻もうとする。それが芸術行為にほかならない。神が創造の御技を楽しむように、人間も芸術作品の製作と鑑賞を楽しむ。神も人間も精神的な存在だからである。そこに祈りも会話も成り立つ。
人間が人間として世界に登場して以来、歴史的にも芸術においてさまざまの創作に従事してきた。その中でもとくに近代絵画の扉を開いた画家としてセザンヌは知られている。なぜ、セザンヌの芸術が近代のとば口に立つのか。それは画家セザンヌの精神がもっとも近代人のそれだったからである。
近代人の精神とはどのようなものか。それは二人の人物に、ルターとデカルトの精神にそれを見ることができる。ルターは信仰における個人の自立を果たした人間である。そしてデカルトは、思考に存在の根拠を見出した人間である。彼らはそのような精神をもって神に、世界に、そして自然に絶対的に対峙した。(ここではその歴史的な由来は問いません。)
セザンヌもまた近代人として、自然を光と色彩の感覚で捉えようとした印象派の画家たちの跡を受けて、美術の世界に登場した。しかし、セザンヌは世界を単に感覚で捉えるだけでは満足できなかった。もちろんセザンヌは画家としてなによりも視覚の人である。モネたちの印象派のあとを受けて、光と色彩の価値は十分に知り尽くしていた。しかし、セザンヌが印象派に感じた不満は何か。印象派に欠けていたのは何か。それは堅固な構想力である。
印象派は世界を自然を光と色彩に分析しただけである。そして、外からの自然の美を、自分たちの感覚にただ感受するままにキャンバスに映したに過ぎない。それではまだ自然の真実を捉えきったことにはならない。光と色彩にあふれた自然の奥行きにはさらに何があるか。それは何をもって構成されているのか。それをセザンヌは追及した。そして、そこで彼が発見したのは、色彩の光学的な原理と自然の空間が球と円筒と円錐からなるという単純な原理の発見だった。
セザンヌは、絵画の世界ではじめて立体を、三次元を、空間を発見した画家であった。もちろん、ダビンチもレンブラントもかねて対象を物体を物体として描いてはいたが、対象を三次元の空間として分析してとらえたことはなかった。そこにセザンヌの近代人として知性が、その精神が明確に見て取れる。
しかし、セザンヌは単に分析に終始するのではなく、それを自我の意識において再構成しなおし、それを第二の自然として、みずからの自我の生産物として、自然から独立したセザンヌの独自の世界として、それを自然のなかに打ち立てるのである。それはあたかも近代世界で科学的な工業製品を芸術の世界で実現するようなものである。
セザンヌの絵画の世界では、一度は分析され分解された色彩と空間が、セザンヌが理想とする色彩と立体によってさらにふたたび再構成されて世界に置かれる。それは自然から感受した美を、印象派のように単に写し取るだけではなく、セザンヌみずからの自我によって分析され構想されて、人間の精神によって新たに創造された美として、より深い真実の美として主張されているのである。
セザンヌの絵画は次のサイトでも楽しめます。
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