>> <<引き続き、尾高からのノート
— review (@myenzyklo) 2017年12月6日 - 23:48
近世哲学思潮の最高峰として聳えるドイツ観念論哲学は、一方では国際政治の理念を表明するカントの永久平和論を生んだと同時に、他方ではかような戦争不可避論もしくは戦争肯定論の典型を提供するにも事欠かなかった。ヘエゲルの実力国家の思想がそれである。
ちろん、へエゲルの国家哲学は決して理念を否定しない。理念を否定しないどころか、理念を絶対化する。それは最高の飽和点にまで達した理念論である。しかし、すべてを理念の現れと見る絶対理念論は、あらゆる現実を理念の顕現として肯定する。戦争が国際政治の現実の極限に位するとすれば、
— review (@myenzyklo) 2017年12月6日 - 23:49
戦争を肯定する理論は、極限にまで達した国際政治の現実主義である。ヘエゲルの最も徹底した理念主義は、実は、裏がえせば、国際政治の動きを解剖する最も徹底した現実主義に外ならない。理念論としてへエゲルの国家哲学は、近世啓蒙主義の自然法論やカントの道徳哲学と同じように、
— review (@myenzyklo) 2017年12月6日 - 23:49
「自由」の理念から出発する。しかし、啓蒙的自然法論は個人の現実の自由をば政治の達成すべき目的として掲げる。これに対して、カントの道徳哲学は、慾望によって支配された現実の人間の意志は、意志ではなくして恣意であるとして、その自由を否定し、
— review (@myenzyklo) 2017年12月6日 - 23:51
むしろ道徳によって恣意を拘束するところにこそ真の意志の自由があると説く。すなわちカントは現実の自由を否定して、道徳上の当為としての自由を主張したのである。ところが、ヘエゲルになると、自由は再び当為の世界から現実の世界に引きもどされる。しかも、現実の世界において自由であるのは、
— review (@myenzyklo) 2017年12月6日 - 23:52
個人ではなくて超個人的な共同体である。なぜならば、意志の自由とは意志の普遍性である。故に、自由なる意志は普遍意志でなければならぬ。したがって個別意志の主体たる人間は、いかなる意味でも自由ではあり得ない。それと同時に、意志が現実的な自由意志となるためには、
— review (@myenzyklo) 2017年12月6日 - 23:52
その意志は漠然たる普遍意志ではなくて、限定された主体の意志とならなければならない。さように、限定された普遍的意志の主体は、共同体でのみあり得る。故に、ヘエゲルは、個人の自由を否定する点で啓蒙的な自然法論に反対し、現実の自由を肯定する点でカントの道徳哲学に反対する。
— review (@myenzyklo) 2017年12月6日 - 23:52
そして、共同体⎯ヘエゲルはこれを「道義態(Sittlichkeit)」と名づける⎯⎯の普遍的意志のみが現実的に自由であると主張する。さような自由意志の主体としての道義態の最高段階に位するものは、国家である。したがって、自由なる意志の理念は、国家においてはじめて完全に現実的となる。
— review (@myenzyklo) 2017年12月6日 - 23:53
しかるに、現実的に自由な意志は法である。故に、法は「国家の法」(Staatsrecht)としてはじめて、理性的であると同時に現実的となる。最高の道義態としての国家は、法の理念たる自由の自己実現の極致である。
— review (@myenzyklo) 2017年12月6日 - 23:54
故に、ヘエゲルの哲学は、国家絶対主義の政治哲学であり国家法至上主義の法哲学に帰着する。
— review (@myenzyklo) 2017年12月6日 - 23:56
(s.261)
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尾高のヘーゲル哲学に対するこれらの批判は、追って検証して見たい。
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