玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*アメリカの今

2024年12月19日 | 捨て猫の独り言

 11月5日トランプが大統領に当選した。派手な装丁の Saku Yanagawa 著の「どうなってるの、アメリカ!」を読んだ。トランプに決まる直前の10月20日の出版だ。著者は13年前に渡米し、シカゴに住む現在32歳でスタンダップコメディアンの柳川朔という。略歴を見ると国立市にある桐朋中学・高校で野球部の主将を務め、大阪大学の文学部を卒業している。一人でステージに立ちマイク1本で笑いを取るのは簡単なことではない。

  

 その彼がこの本で紹介したトピックの中で私にとって目新しいもの3つを取り上げる。まずは「オピオイド」で、これは非常に強い鎮静剤だ。国内のオピオイド中毒者は200万人を越えると言われておりCDC(アメリカ疾病予防管理センター)の発表したデータによると昨年アメリカで8万人がオピオイド中毒により命を落とした。これは交通事故で亡くなる人の2倍にのぼる。また現在アメリカの成人の5人にひとりがメンタルヘルスに問題を抱えているというデータも出ている。

 ベトナム反戦や公民権運動が盛んな頃の1969年の6月に、ニューヨークのゲイバーで警官との乱闘の暴動が一週間続いた。この一件を経て各地でLGBTQの権利獲得に向けたデモや運動が起こった。シカゴ市は1997年ボーイズタウンをアメリカで初となる公式なゲイタウンとして承認。1999年クリントンは就任演説の際に「アメリカでは6月はプライド月間だ」と宣言した。シカゴでは毎年プライド月間の最終日曜日にプライド・パレードが行われる。街の道路は前夜から封鎖され沿道はレインボーの旗を振る人々で溢れる。スピーカーからは爆音で音楽が流され、曲に合わせて参加者が豪華な山車とともに行進すると人々は大歓声をあげて応える。

 「批判的人種理論」とは、社会の差別や不平等は人の心の問題ではなく、制度や法律、政策が生み出しているという考え方である。この理論の提唱者は黒人弁護士で法学者でもあるデリック・ベル。大きな注目を集めるようになったひとつの要因は2019年ニューヨークタイムズが行った連載「1619プロジェクト」だろう。この連載はアメリカの建国を1619年、つまり最初の黒人奴隷がバージニア州の海岸に降りたった日と定め、黒人の歴史にスポットを当てながらアメリカの歴史を見つめ直そうとする企画だった。この理論が学校現場で教材化されてゆくと、保守派は「白人の子どもたちに無意味な罪悪感を与えかねない」「分断を煽る」とその導入に反対した。 

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*未来への歴史

2024年12月16日 | 捨て猫の独り言

 朝日12月7日からの数回の記事「百年・未来への歴史」におけるテーマは「核の呪縛」だった。日本被団協のノーベル平和賞受賞式のタイミングに合わせた。ここではその中から「核抑止」の項を取り上げる。1962年のキューバ危機はよく知られているが、1983年にも核戦争の瀬戸際という事態があったという。ソ連の早期警戒衛星が雲の先端で反射した日光に幻惑されてシグナルを発した。ミサイル監視の任についていたソ連の中佐スタニスラフ・ペトロフは「たった5発で戦争を始めるはずはない」と、とっさに誤警報と判断した。ペトロフは後に「世界を救った男」と呼ばれるようになった。

 核抑止に頼る姿は、お互いのこめかみに拳銃を突きつけ合い、引き金に指をかけている状態に似ている。まさに狂った考えだ。被爆国・日本も核の呪縛にとらわれている。50年前首相在任時に「非核三原則」を表明した佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞したが、佐藤は有事の際は核持ち込みを認める密約を米国と結んでいたことが後に判明する。原爆を落とした国である米国の核戦力に安全保障を依存する態度は今も不変だ。

 1986年の4月にチェルノブイリ原発事故が起きる。その年の10月レーガンとゴルバチョフはアイスランドの首都レイキャビックで会談し、ICBMなどの戦略兵器や中距離ミサイルの消滅で合意する。2人の思いは87年の中距離核戦力全廃条約に結実し、89年の冷戦終結につながり、91年の戦略兵器削減条約の署名にまで至る。今年の広島平和宣言は今はなき2人の核大国リーダーの対話が冷戦の終結に導いたことにふれ「為政者が断固とした決意で対話するならば危機的な状況を打破できることを示しています」と訴えた。

  

 長引くウクライナ戦争ではプーチンが核の威嚇を躊躇しない。法政大・下斗米名誉教授はその要因を、冷戦時代の疑心暗鬼の復活とみる。「冷戦終結をロシア側は東西の共同作業と見ていたが、西側は自らの勝利とみなした」と指摘。東側の軍事同盟が解散する一方、西側はポーランド、バルト三国がNATOに加盟するなど拡大を続けロシア領に近づいた。「ロシア側はそれを信義違反と捉え、対決姿勢を強めてきた」それがウクライナ戦争につながっているという。

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*帰省②

2024年12月09日 | 捨て猫の独り言

 同窓会の翌日、甲突川河畔を散策した。母の住むザビエル公園近くのマンションを出て、千石馬場通りを鹿児島中央駅の方へ歩いてゆくと甲突川にかかる西田橋がある。橋のたもとに甲突川ウオーキングマップという案内板があった。西田橋から下流に向かって高見、南洲、高麗、甲突、親高、武之橋とあり、橋と橋の間の所要時間は2~4分と書きこまれていた。

  

 土手から降りて川底に近い遊歩道を初めて歩いてみた。ぬかるみもありここを歩く人は皆無だ。まず市電が通る高見橋の下をくぐりぬける。そのうち雑草に阻まれて土手に上がる。両岸のウオーキングコースは公園としてみごとに整備されている。まずは左岸を歩き、武之橋をすぎて河口近くの天保山橋まで行き、右岸に渡り再び上流へ向かう。武之橋の近くの左岸に乃木静子、右岸に松方正義の像を発見した。

  

 江戸末期に甲突川に五大石橋をかけたのは肥後の石工・岩永三五郎という。西郷どんが18歳ぐらいのときの話だ。そのうちの一つが西田橋だ。西田橋は鶴丸城から九州街道へ至る島津家参勤交代の道沿いにあり、城下の玄関口として「西田橋番所」があった。1993年の 8・6水害で新上(しんかん)、武之橋の2つの石橋が流失した際に五大石橋はすべて「石橋記念公園」に移築保存されることになる。西田橋は1996年に解体され1999年に新西田橋が完成した。

  

 この日は久しぶりに兄妹4人がそろい、母を囲んで総勢7名で会食となった。私の帰鹿に合わせての集まりなのだが、ありがたいことだ。痩せ細って小さくなった母が、食べ終えるごとに手をたたいて称えたりした。寝たきり状態を回避し、ピンピンコロリを目指して長女は母を叱咤激励している。翌朝私が帰京することを告げると、母はうつむきながら「もう会えないね」と涙声になった。これまでにはなかったことだ。

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*帰省①

2024年12月05日 | 捨て猫の独り言

 私が鹿児島に帰省するときは羽田から飛行機だ。西宮に住む同郷の友人の帰省はユニークだ。夜の7時に神戸三宮フェリーターミナルを出港し、四国沖を進み、船中泊で宮崎港に朝9時着の旅程である。JRの宮崎・鹿児島間の連絡がスムーズでないのが難点という。

 今年2度目の帰省をした。母は来年1月末で101歳になる。その長女である私の妹の介護のもとで在宅で暮らす。いまだに週3回はデイケアに行く。中学の同窓会が11月29日にあり、それの参加に合わせての帰省になった。地元開催の中学同窓会には初めて参加する。誰が参加するのか、総勢何名かは事前には知らされていない。

 鉄路沿いにあったかつての中学の校舎は、高台に移転している。同窓会当日に、移転した母校を訪ねることにした。鹿児島近郊の小高い丘や山は、こんなに開発して大丈夫かと思うぐらい宅地化されている。下の道路から坂道を登り、マンション敷地に迷いこみながら20分ほどしてたどり着いた。雨が降ったり止んだりで熱帯のスコールを思い出させるお天気である。

  

 参加者は30名だった。中学校は私の出た小学校と、もう一つの小学校の卒業生が合流して構成される。私は小学6年の2学期という、中途半端な時期に離島から鹿児島市内に転入した。親戚の家に単身寄宿して小学校に通った。内気な転向生である私に親身になって声をかけてくれた友人は忘れられない。しかし中学ではなぜか全く交流がなかったわけで、あまりにも遅いけれども彼または彼女たちに感謝の思いを伝えたかった。今回は小学生時代のそんな半年ぐらいの交流だった友人のうち2人に会えて話すことができた。この傘寿の同窓会に参加できてよかったと思う

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*Awichとは?

2024年12月01日 | 捨て猫の独り言

 素朴なツワブキの花が咲いている。ネリネも咲き出している。碁仇の義弟が2泊3日で伊勢原市から出かけてきた。剪定技術はプロ並みで毎年のようにやって来て、庭木を整えてくれる。今回はチェーンソーを使ってかなりの数の庭木を20㎝ほど切り落とした。切り口の保護のためクリームを塗るのは私の役割だ。

 朝日新聞には随時掲載されるテーマごとの「季評」がある。歌人の穂村弘は「言葉季評」、作家の安藤量子は「福島季評」、琉球大准教授の山本章子は「沖縄季評」などである。これらは4カ月に一度だから、練り上げられて読み応えある文章だと思う。今回の沖縄季評の小見出しには「琉球独立万歳」とあって驚く。

 この季評で1986年生まれで沖縄出身の女性歌手・ラッパーのAwich(エーウィッチ)の存在を初めて知った。本名の浦崎亜希子を英語に直して、Asia wish childそれを縮めてAwichだ。《彼女が出演するミュージックビデオ「ロンギネス リミックス」が中国で若者を中心に人気を集めている。「ザ・リューキュー ザ・オキナワ098」の「琉球教訓伝承分かる奴らが変えてくネイション」などのラップに合わせて中国語に翻訳された歌詞が表示されると、「琉球独立万歳」といったコメントが次々と流れてくる。この曲にそのような主張は皆無で、示唆する歌詞や映像もないのにだ。

 歌詞と無関係に「これが琉球独立だ!」と中国の若者が熱狂する理由は、ビデオにあふれる沖縄の日常的風景が中国人に強い親近感を抱かせるからではないかと、中国に1年間留学した琉球大学の学生は言う。おばあの数え年97歳の長寿祝いで数世代にわたる親戚が集まり、オリオンビールで乾杯してごちそうを食べる映像。南国の木々が揺れ、琉球王国時代の女性の髪形を結ったAwichが琉装で舞う。沖縄の人々が沖縄アイデンティティーを表現することが、中国への帰属意識の発露と読み替えられてしまう現象が中国の中で起きている》

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*再びの九州旅行②

2024年11月25日 | 捨て猫の独り言

 2日目の大分県の中津市と玖珠町にある山国川流域に広がる耶馬溪は、中国の山水画のような風景だろうと思い描いていた。60年も前に宮崎の高千穂峡を訪ねたことがある。それに比べると今回目にした耶馬渓はどこかインパクトに欠けた。紅葉の時期は、訪れる車で大渋滞が発生するという。耶馬渓の見せ場はこの短い期間だけだが、高千穂峡は年間通して人気を集めていると聞いた。

   

 昼食は日出町(ひじまち)にある的山荘だった。これは杵築市山香町の金鉱石の山を的てた富豪が建てた邸宅という。料亭として営業を始め、これまで皇族も食事に立ち寄ることがあったという。2010年に所有は日出町に移り、管理されるようになった。高崎山を築山に、別府湾を池に見立てた庭園を散策した。この散策で別府湾がより身近に感じられるようになった。

 昼食に時間がかかり宇佐神宮参拝が中止となる。旅程変更はめずらしいことだ。宿泊は別府市内の高台にある「杉乃井ホテル」だった。全国的に名の知られたホテルで、別府市民の間にも人気が高いという。ホテルの広い敷地に8つのコンテンツが終結し、巡回バスが走り回っていた。高台にあるので宙館4階の部屋からでも別府湾や市街が眼下に見渡せる。出歩かず、もっぱら宙館13階の展望露天風呂を利用した。

 入浴ではなく観覧を主な目的とした温泉は地獄と呼ばれ、別府観光の目玉の一つだ。最終日はホテルを10時に出発して「海地獄」を見学する。地獄はいろいろあるが最初に開設されたのが「海地獄」だという。4月のときはホテルが別府駅のすぐ近くで、展望は楽しめなかった。しかし今回は高台のホテル、それに「海地獄」も見学することができた。そこで私の中に「別府温泉」という一枚の絵が完成した。

 

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*喃語

2024年11月21日 | 捨て猫の独り言

 辞書には、喃語とは乳児が発するアーアーとかブブブというような繰り返し音。言語の習得に先立って生理的に発せられる音声とある。朝日新聞は11月19日の夕刊と翌日の朝刊で、谷川俊太郎さんの死去をどちらも一面トップで報じた。20日の朝刊には詩人の佐々木幹郎氏のつぎの寄稿文があった。

 「文化面に毎月一回掲載された〈どこからか言葉が〉と題した谷川さんの詩の欄は、谷川さんが13日に亡くなった後、17日に〈感謝〉と題した詩で締めくくられた。いつ書かれたのかわからないが、おそらく意識が遠のいていた時期に、側近の方が手配したのであろう。もし谷川さんが生きていたら、そういう死の直後の自分の詩の発表の仕方をおもいっきりからかったかもしれない」

 また佐々木氏は、谷川さんのつぎの言葉を紹介している。「人の年齢を私は樹木の年輪の喩で語るようにしているのですが、老齢にはその年齢の中心に向かう動きもあるようです。意味ある言葉とともに、喃語のような脳とともに身体から生じる言葉、意味よりも存在そのものに触れる言葉を今の私は夢みています」

 それと関連する谷川語録を拾ってみた。「何歳になっても子どもの視点で詩を書く。言葉上だけで子供になるってことはないんですよ。こどもの気持ちになるのとも違う。言語はもともと古い歴史を持っているでしょう。言語そのものが持つ古さって体が知っているんじゃないかと思っているんですよね」

 

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*再びの九州旅行①

2024年11月18日 | 捨て猫の独り言

 4月は個人で選択して九州旅行(4日間)に参加した。宿泊地は嬉野、雲仙、別府の温泉地だった。長崎の平和公園やグラバー邸、阿蘇の大観峰、柳川の北原白秋記念館などを初めて訪れた。今回の11月は年に一度の自由参加の会員旅行で、総勢40人での九州旅行(3日間)だ。宿泊地は博多と別府である。

 九州は空港が整備された地域だという。4月は羽田と佐賀空港の往復で、今回は行きは羽田から佐賀空港、帰りは大分空港から羽田だった。初日の午後から雨となり柳川では、頭からすっぽりと雨合羽を着用しての川下りとなった。4月は白秋記念館を選択して見学したので、これで柳川観光は完結したことになる。

  

 初日の宿泊ホテルは「グランドハイアット福岡」で、10階の窓から川の流れと、夕暮れのネオンが眺められた。ワインをたくさんいただいた夕食後は、隣接するショピングモールに出かけた。そこではイルミネーションや噴水ショーが行われていて、喧騒の世界が繰りひろげられていた。

   

 私は博多の街には、ほとんど馴染みがない。あとで調べると部屋から眼下に見えているのは中州那珂川通りである。近くには福岡国際センターがある。この日は大相撲九州場所が初日を迎えたところだった。博多駅も遠くはなさそうだ。浴室のシャワージェルはいい香りで、原産国はマレーシアと書かれていた。

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*美しく崇高な世界

2024年11月11日 | 捨て猫の独り言

 囲碁名人戦七番勝負の第6局で、挑戦者の一力遼棋聖(27)が芝野虎丸名人(24)に勝ち新名人となった。これで棋聖、名人、本因坊、天元の四冠である。一力は9月に世界メジャー棋戦で優勝したこともあって、名人戦を主催する朝日新聞も今回は報道に熱がこもった。

 また「異次元の数字愛」と題して、一力をつぎのように紹介している。4歳の時にはカレンダーを書き、幼稚園のお絵描きの時間には画用紙いっぱいに数字を書いた。現在でもたとえば「こだま731号」の表示を見ると、瞬時に17×43と素因数分解したりする癖がある。記者が生年月日を告げると数秒後に当日が何曜日かを即座に言い当てた、ということなど。

 そして張栩九段が印象的な談話を寄せている。「七冠や他の国際棋戦の優勝を期待する声もありますがこれ以上のことを求めるべきものかなという思いもあります。彼の言うメンタリティとは、とても広い範囲のものだと思います。美しく崇高な世界で尊いもののために戦っているんだという、人生観も含むような何か。今は自分は勝者にふさわしいんだと思えているように映ります。日本社会は彼をもっと誇りにし、彼にもっと憧れて欲しいと思います」

 枝のない渋柿をどうして吊すか。私が思いついた方法は、かろうじて残る「なり軸」の細い中心部に安全ピンを差し込むということだった。安全ピンもこんな使われ方をされるとは思ってもみなかっただろう。遠目にはいつもの吊るし柿だ。その後、近くに住む若き友人がこんな便利なものがあると持参してくれた。ステンレススチール製の「柿クリップ」という商品だ。交差した爪を押し開き、果肉に食いこませて爪の復元力でしっかり支えることができる。これだと、なり軸のないのっぺらぼうでも大丈夫だ。

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*バタフライガーデン

2024年11月07日 | 捨て猫の独り言

 自宅から東西南北にコースを定め2週間おきぐらいに歩き回っていたがいつのまにやら、その計画から遠ざかっていた。体重減少を遅らせようと、自室で始めた筋肉トレーニングも時おり思い出したようにやるだけだ。体育館のトレーニング室に出かけることを勧められているがどうもその気になれない。唯一続けているのはラジオ体操だけだ。継続は力なりというがなかなか難しい。

 秋晴れのある日、久しぶりに東へ2時間散歩に出かけた。登山靴をはいてリュックを背負って玉川上水の緑道を小金井公園を目指す。公園の直前で、予定を変更して格安スーパーに立ち寄り折り返すことにした。この遠出に少しの意味を持たせたくて、リュクに安く手に入れた1800mlの紙パック焼酎を入れた。

 玉川上水緑道を歩くとき、いつも思い浮かべるのは玉川上水を愛する鈴木忠司氏のことだ。私が出歩かないせいか最近お会いしてない。玉川上水の桜橋には西武多摩湖線の踏切がある。ここは鈴木氏が生まれ育った場所でもある。かつてここには桜堤駅とそのすぐ北に小平学園駅があったが、現在は廃止されてそれら2つの駅の中間地点に一橋学園駅ができている。

  

 鈴木さんが関わった自生野草保護観察ゾーンは、桜橋を起点に上流の小川水衛所までの五日市街道沿いにある。ここは手入れが追いつかない様子だ。鈴木さんがオープンギャラリーを終えたあとに企画したのが桜橋のバタフライガーデンだ。第1日曜日には有志がガーデンに集まるという。この日の散歩の往復の途中で目にしたバタフライガーデンはよく手入れされていた。それを見て鈴木さんが今でも元気で玉川上水を歩かれていることを確信した。

 

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