懐かしい人たちと会って、それぞれの物語を聞き、おいしい酒を飲んだ。そのような時を過ごした後の朝の目覚めに、ときおり訪れる深い寂寥感を久しぶりに味わう。このような場合は何もしないでひたすら時が過ぎるのを待つしかない。ぼんやりした頭でなにげなく雑誌をめくっていた。ある短歌雑誌の特集に「私を変えたこの一首」があり、その中の一人若い歌人の記事が私をとらえた。
さよならと いくたび振りし てのひらか
ひらひらとして 落葉となりぬ
この何ともわかわかしい一首は前登志夫72歳の作である。ほぼ同時期に書かれたエッセイ「春の居眠り」に「老醜は人みなに避けがたい。それを美として生かせるのは虚心な芸の力であろう。賢(さか)しらでは駄目なのである」とあり、同じく「老深む年」では、老いの断念や諦念と引き換えに「虚の視座」つまり「無私の眼差し」を与えられる、ともあるのを読んで、この歌のもつ若さの謎が少し解けたように思えたものだ。
木の葉が落ちる 落ちる 遠くからのように
大空の遠い園生(そのふ)が枯れたように
木の葉は否定の身ぶりで落ちる
そして夜々には 重たい地球が
あらゆる星の群れから 寂寥のなかへ落ちる
われわれはみんな落ちる この手も落ちる
ほかをごらん 落下はすべてにあるのだ
けれども ただひとり この落下を
かぎりなくやさしく その両手に支えている者がある
リルケ詩集 「秋」 (富士川英郎訳)
この記事の筆者は前登志夫のこの歌から、リルケのこの詩が浮ぶという。