玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*虚の視座

2010年03月23日 | 無断転載

 懐かしい人たちと会って、それぞれの物語を聞き、おいしい酒を飲んだ。そのような時を過ごした後の朝の目覚めに、ときおり訪れる深い寂寥感を久しぶりに味わう。このような場合は何もしないでひたすら時が過ぎるのを待つしかない。ぼんやりした頭でなにげなく雑誌をめくっていた。ある短歌雑誌の特集に「私を変えたこの一首」があり、その中の一人若い歌人の記事が私をとらえた。

 さよならと いくたび振りし てのひらか 

 ひらひらとして 落葉となりぬ

 この何ともわかわかしい一首は前登志夫72歳の作である。ほぼ同時期に書かれたエッセイ「春の居眠り」に「老醜は人みなに避けがたい。それを美として生かせるのは虚心な芸の力であろう。賢(さか)しらでは駄目なのである」とあり、同じく「老深む年」では、老いの断念や諦念と引き換えに「虚の視座」つまり「無私の眼差し」を与えられる、ともあるのを読んで、この歌のもつ若さの謎が少し解けたように思えたものだ。

 

 木の葉が落ちる 落ちる 遠くからのように

 大空の遠い園生(そのふ)が枯れたように

 木の葉は否定の身ぶりで落ちる

 

 そして夜々には 重たい地球が

 あらゆる星の群れから 寂寥のなかへ落ちる

  

 われわれはみんな落ちる この手も落ちる

 ほかをごらん 落下はすべてにあるのだ

 

 けれども ただひとり この落下を

 かぎりなくやさしく その両手に支えている者がある

      

 リルケ詩集 「秋」 (富士川英郎訳)

 この記事の筆者は前登志夫のこの歌から、リルケのこの詩が浮ぶという。

 

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*ルリカケス

2010年01月12日 | 無断転載

 《奄美大島と徳之島にしか棲息しないために特別天然記念物に指定されているルリカケスという鳥がいます。カラス位の大きさといえましょうか。羽根の色は背中と腹は赤栗色ですが、ほかのところは濃い瑠璃色の美しい姿をしています。この鳥は群れをなして畠のものを荒らしますので、島の人たちからはあまり好かれていないようです。ですから特別天然記念物と言っても、それほど大切にも思われていません。私の家の裏山にもたくさん棲んでいますが、庭の果実の木々にまじって、ひときわ高く枝を広げたヒトツバの木に、桜ん坊色の細長い甘い実が熟れ始めますと、それこそ木を覆うほどたくさん、耳ざわりのよいとはいえない甲高い鳴き声をたてながら群がってくるのでした。

 ショインの外縁に筵を敷き南京豆を干しておいたところ、ルリカケスがたくさん集まってきて、さかんに突いているので、びっくりして籠に収め、とりあえず納戸に持ってきておきました。ナハンヤ(家族の居間と寝室のための一棟)で父母といっしょにお茶を飲んでいますと、しきりにさわがしい音がするので渡り廊下を駆けて行ってみますと、外縁から内縁、表の間、中の間、小座といっぱいのルリカケスが飛び廻り跳ね廻り、納戸の籠から南京豆をくわえてきては突いているではありませんか。南京豆の殻を突き割る音と鳥たちの羽音が入り交じりその騒々しいこと、一瞬私は呆然としましたが、ふといたずら心をおこして部屋部屋の障子を閉めにかかりました。驚いた鳥たちは素早くいっせいに飛び立ちましたが、一羽だけ家の中に封じ込めることに成功したのです。私は汗をいっぱいかくほど追い廻し、とうとう手づかみで捕まえて赤銅の籠に入れると、ルリカケスはきょとんと私を見ていました。ルリカケスは教え込むと人の言葉を真似るそうだと父が言っていましたので、私はどうしても飼い馴らしたいものだと思いはじめていました。

 野鳥を飼うのは、餌のことがむずかしいので、富秀にきてもらって尋ねましたところ、ルリカケスは生きた小さな虫や蜥蜴の卵などが大好きで、木の実や、さつま芋、南京豆なども食べますが、性質が臆病だからちょとした物音にも驚きやすく、人の与える餌に馴れさせるのはなかなかむずかしいことのようで、初めての私には無理だとわかり、よく飼い馴らしてから持ってきてくれるようによく頼んで、彼に預けました。

 十日ほどして富秀が姿を見せましたので、ルリカケスの様子を聞きましたところ、「ああ、あの鳥は餌のさばくりが難儀だから、母と二人で煮て食べてしまいましたよ」とにこにこ笑って言うのでした。》

 以上は島尾敏雄氏夫人ミホの「海辺の生と死(創樹社)」から無断転載したものです。奄美の加計呂麻島での幼児の思い出を綴った本です。敏雄はこの本の序文でミホは父からも母からも叱られた記憶がただの一度もないと言っていると書いています。

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*生き生きと

2009年02月02日 | 無断転載

 《一緒に各駅停車の旅行をした友人が私をはじめ複数人に発信したメールをつぎに掲載します。私のこれまでの澄ました旅行報告と異なり生き生きとした文章です。文中の 「Y」 は私のことです。》

なぜ背景が由布岳のJR青春18キップの大型ポスターをあれほどまでに欲しがったかを説明したい。12・28に天領・日田で下車した時、温泉に入りたがったYだったが果たせず。Yは次の湯布院では絶対に入ると強く決め、着いて直ぐどっかで お勧めホテル温泉 を聞いてきて直行した。

綺麗なホテル&温泉だった。時刻(2時頃)から殆ど貸切状態。早速露天風呂に入った。左側に由布岳が聳え なだらかに右下がり 次の山に続いている。天気快晴にして無風。由布岳の登山道も見え右側の山近くにはハンググラインダーが小さく5、6個浮いていた。直ぐ目の前に桜他の木々。小鳥の囀りがあり車の音は時折しただけ。“この世の極楽”とユッタリと心いくまで浸りYにカメラを持ってきてもらって互いに写真まで撮った。

綺麗なロビーで販売している地ビールを 「我慢しよう 列車で缶ビールにしよう」 のYの提案に 青春18の精神 から同意。ホテルから駅へ又直行し駅前のコンビニに入り 「大にする?普通にする?」 と缶ビ-ルサイズを相談し“普通”を手にしていたところ 後ろから 「普通では足らんとじゃなかね」 と それとない声、さり気無く聞こえた。振り返ると店の女性(40代?)だった。釣られて“大”にした。Yの 「九州のオンナはチゴッ。強かッ!」 に実感があり全く同感。

始発で別府行き列車に早めに乗りイイ席をとった。Yは直ぐ飲みたがったが 「発車まで待て 動き出してから飲むもんだ その方が美味い」 と我慢させた。ヤット動き出して飲んだビールは美味かった。 列車はカーブを切り車窓は山々、谷々、木々。 突然、Yが 「アッ 由布岳が見ゆっ!」 あの由布岳が綺麗な形で見え隠れした。 首を捻り何とか最後まで見ようと頑張った。 段々見えなくなっても名残惜しんだ。 とうにビールは無くなってしまい店の女性に進められて“大”にしてよかったナ と彼女に感謝した。 あのポスターの列車に2人がビール飲みながら乗っているのです。私にはそれが見えました。

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*娘からの便り*

2008年06月10日 | 無断転載

Get_image_2 お父さん!元気?はいアパートは、立派でーす!!新築!!一ヶ月10万円ちょっとだけど、他のアパートをみたら古くて9万円したんで、満足してます。彼の仕事(第一希望)はとってもいい仕事で、肩書きは ○○○で将来は□□□。お給料もなかなかよくて、会社も人もよくかなり自由で、彼としては大満足の職場みたい。オフィスもアパートから5分のとこで、ローリー(Raleigh)の空港までは20分くらい。周りにいろんなスーパーマーケットやらいろいろ揃っていて、なかなか便利なところだよ。
 

プールもあってすみちゃんと泳ぎました。部屋もなかなか広いからお父さんも泊まりに来て、すみちゃんと寝てね。

しばらくして落ち着いたら、どこかいいDaycareを探して子供を預けて私も仕事をしようかなと思ってます。 その前に、運転免許証をとらなければね。

食事はお母さんが毎日Cookしてくれてます。スーパーに日本のお米、のり、カレールー、ぽんず、しょうゆ、わさびなど売ってたよ。日本からの荷物はお母さんが帰った後の16日に届きます。

ベットは三つこちらのお父さんからもらって、初日からいいベットで寝てるよ。すみちゃんと会えなくてさみしい?お母さんは 「じじは買い物に行ってる」 と説得してるよ。今は毎日お母さんと寝ているけど、最初の日以外はとってもいい子にしてるって。

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62年前の話

2006年01月12日 | 無断転載
 未知の方からブログにコメントが寄せられた。ネットワークの広がりに感激した。しかも父の知人であるSさんは82歳である。メールアドレスにhayabusaが入る。戦時中の戦闘機の愛称だろう。ホームページも開設されている。ご高齢の方たちのインターネットコミニィケーションテクノロジーに私はおよばない。

 Sさんと父は62年前の戦地での短い期間のご縁である。当時Sさん20歳父は26歳である。昭和19年父は三重県の明野飛行場を水さかずきで母に送られて南方におもむいた。私はまだ母の胎内にいた。母は父との最後の別れと覚悟したという。

 Sさんからこのブログへのコメントのことを郷里の父に連絡したところ驚きそして喜んだ。戦友が自分を介さず息子と繋がったネット社会について考えたことだろう。その後にSさんから私に届いた事実の記録のメールをつぎに公開させていただく。

 私がお父上と始めてお会いしたのは昭和19年の5月頃だと思います。当事私の部隊はニューギニアのホランジア飛行場に展開して連日米軍との激しい戦闘を行っておりましたが、4月22日連合軍の上陸に会い数名の生存者を残し全滅しました。私はニューギニアに出発する直前にマラリアに罹り、本隊に遅れて単機追走しましたが途中インドネシアのブル島で愛機が故障し、やむなく船便で隣のアンボン島に渡りましたがその先には行けず、飛行団の指示でハルマヘラ島のミチ飛行場に行きましたが、そのころこ飛行場に南方航空の飛行機が飛来して、飛行第77戦隊が比島のマニラで再建中との話を聞き、一時所属していた飛行第68戦隊○○○○少佐(お父上と同期生)に申告してマニラに着きましたが、部隊の居場所が分からず航空寮に滞在していたところに私の同期生○○○○君がトラックで迎えに来てくれアンヘレス飛行場に着きました。そこで初めてお父上にお会いして今までの経過を報告し、約4ヵ月の追走に終止符を打ち訓練に入りました。
 戦隊長のお父上は「我々はシンガポールで戦隊を再建する」と話されシンガポールのテンガー飛行場で飛行機と操縦者の補充を図り、概ね部隊としての形態が整った7月末に戦隊は解散することになり、人員、機材とも第17錬成飛行隊に移管されることになりました。お父上はこの時新設の飛行第105戦隊に転属されました。短い数ヶ月でしたが忘れられない思い出の期間でした。
    


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