玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

90)マオヒ村で芋植えす

2006年12月08日 | ピースボート世界一周

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 2日目はHARURU団体と共にワークショップを行った。同団体は約200名のボランティアのメンバーで構成されていた。マオヒ(タヒチ)文化では人間も自然の中の一つであると考えられていたが、植民地政策の影響で自然と人を区分するようになった。そこでマオヒ人として自然と共存しマオヒ文化の保護、自然の保護を目指して活動している団体であった。(定住地ではなく、国内外からの訪問者に対する研修場)

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 まず数人乗りのジープで、1時間余りかけて山、川を貫けタヒチ島の真ん中にある遺跡や聖なる場所「マエラ」に着いた。そこには祭事に使ったろう広場や祭壇ようのものが設えられていた。お祈りした後そこらに茂っている蔦やしだ様の草で首飾りになるレイや冠等つくり身に纏った。それから昼食用に皿を作りおいた。

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 ここは若者達の教育の場にもなっていて、宿泊できるバンガローも10ケぐらいはあったか。広場に屋根だけ葺いた頑丈な小屋が太い柱、テーブル、ベンチ、多人数に対応できるお勝手付きで出来ていた。その中で長老の話を聞き歓迎のゆったりしたダンスや若者達が奏でる民族調豊かなメロディ-を聞いた。(村人は砂利上を素足。私も真似たがムリ。かっては出来ていた筈?だが足はスッカリ退化)

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 タロイモを主体にした昼食は素朴な味で美味。近くにあった滝つぼ様の川では当地の若者や子供達が次々と飛び込んだ。日本からの訪問者には若い女性はいたが男性はいない。私達はグループの中でも元気のいい中年女性に「飛んでみて!」と声をかけたら、彼女、躊躇ってはいたものの遂にはエイッとばかり飛び込んで全員の喝采を浴びた。

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 最後には皆でタロイモの植え付けをした。地盤は石交じりで固く耕し難い。暑い土地柄だがタロイモは強いらしい。 Peace_boat_1100 やっと植え付けが終わると皆並ぶように指示された。最後にはこうするのだと発声と所作を習い、タロイモが丈夫に育つように双方が揃って掛け声をかけ神に祈願したのだった。

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89)・・でも海は青かった

2006年12月06日 | ピースボート世界一周

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 眩しいほどに明るい朝日を浴びてフランス領タヒチに接岸した。初日はバスに分乗して観光の要所とゴーギャン博物館を巡りながら島を一周した。乗客を案内するガイドさんは京都出身のスラリとした美しい日本人だったPeace_boat_1029。 現地で結婚し子供2人と義父母と他の親族を含め同居中と。ご主人は観光バスの運転手だと言い、バスが合流した行き先でこちらが主人と紹介してくれた。(丘から見える海岸線とパンの木を案内するガイドさん)

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 現地に住み着いて更に理解する日常生活や文化の相違、感情の機微や折り合いの付け方など観光案内の中に織り交ぜて話し、でも「住み易いですよ」とサラリと語った。外国に行くと現地に住む日本婦人にガイドしてもらう事が多いが、彼女らは何方もその地のことをよく学び楽しんでいる風に見受けられるのだが、彼女も然りだった。(船着場の前広場に夜は屋台が出てルロットと呼ばれていた。手前の巨漢は圧巻)

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 バスは観光客を乗せて海沿いを走り青い海原、サーフィンに恰好の波、潮吹き穴を見せゴーギャン博物館と一周した。博物館にはゴーギャン特有のタヒチの女性を描いた絵画が一杯展示してあったが惜しくも本物はない。ゴッホとの軋轢、結婚離婚の繰り返し、フランスとタヒチの放浪、自殺未遂、病気と貧困を繰り返すうち四散したらしい。(浮世絵に習ったといわれる作品)

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 昼食は海に面したレストランで、南国特有の美しい花に迎えられご馳走を戴いた。今までのツアーは交流関係が多かったので、その夜は思い切って豪華にとディナーショウを予約していたPeace_boat_1062。さるホテルの海にせり出した舞台と会場でタヒチのダンス堪能し、バイキング形式でディナーをタップリ戴いた。当夜の代金は〆て17000円。今回の旅行において最高にお金をかけた夜だった。(魚介類を使ったディナーと、最後は観客も舞台に上がる)

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88)核の事情・島の事情

2006年12月04日 | ピースボート世界一周

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 私は今まで「核は軍事利用、原子力は平和利用」と漠然と思っていた。ところが、高橋氏から「核と原子力は同根。僕も10年前までは原子力はわりに安全だと信じていたんです。ところが、全然違うんですよね」と続けた。確かに核と言えば恐ろしげだからこそ、わざわざ平和利用と平和の言葉をつけているのだ。(カメラを向けると集まる子供達。撮ったばかりの画面を見せると大喜びした)

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 彼は長崎、広島の原爆、ビキニ環礁など海洋における核実験や福竜丸、チェリノブイリでの被爆事故などをはじめ、自分が出合った被爆者の方々たちとの話を交えて話した。いま世界には原発が200強あって、そのうちの2割強の53基が小さくてしかも地震大国である島国の日本に集中しているという。世界一危険な原発が静岡の浜岡にあり、国は安全だと言っているが勿論その保証はない。(マオヒ文化を残す山間から流れ出た水は川をなし海に注ぐ)

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 フランス領下にありヒタチの「核の賛美」教育の中で育ったガブリエル氏は、スランス留学中に核実験がもたらす人体被害、海洋汚染に気付かされ1人でデモを行ったと話した。'66年から'96年の30年間で193回の核実験が行われたそうだ。'96年以降は本国からの支援金で汚職が蔓延るようになり、Peace_boat_1063 経済的自立なくしては独立はないと今はNPOで活動をしている。’04年の選挙では独立賛成派の1人が当選できたと笑顔を見せた。(タヒチ一周時湧き水の洞窟あり。中で村人が泳いでいたが手に触れる水は冷たかった)

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 フィジーのペニー女史は演劇活動を通して、女性の権利や職業選択の自由、受刑者の健全な社会復帰運動をやっており、「南の楽園フィジー」のもう一つの顔を見て欲しいと言った。Peace_boat_1177 大学で海洋資源のマネージメントをしているジョエリ氏は「僕にとって海は全て。海は生命の源」といい海洋資源の現状や問題点について地域、国、世界レベルで検討すべきだと主張した。グローバル化が進んでいる現在、一国の理屈だけでは通らないことを最近の漁獲量制限は如実に私達に突きつけている。問題は魚だけではなかろう。(フィジーの開け放たれ民家。裏庭で婦人達は土を足で捏ね、手で灰皿を作り、火の中に放り込んで焼き上げ「土産にね」と私達に渡してくれた)

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87)たった一つの小学校

2006年12月01日 | ピースボート世界一周

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 説明会では以下のような説明を受けた。イースター島は歴史的にはスペイン、ペルー今はチリの支配下にあり人種的には様々で、文化的にはポリネシアとラテンの融合が見られる。街には公共の交通機関はない。陽射しが強いので日除対策とスコールもありうるので雨具の用意を。動植物検疫の規制で船から野菜、果物、食肉は持ち出せない。物価は高い。モアイには触らない。(小学校の入り口) 

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 先生達は「島を訪れる観光客はたくさんいても、学校に来てくれる日本人はいなかった」と、学校を挙げて歓迎してくれた。そこでは小学生から中、高生クラスのダンスが披露されたが、南米、南太平洋諸島を通して似ていたのは男性は力強く、女性は腰を強く振って踊るスペイン風のダンスだった。(ダンスを踊ってくれた中学生)

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 子供達との交流というので小さな土産を用意していたのだが、あやとりは現地の伝統的な遊びなのか小学生が「あやとり」をしながら踊っていた。折り紙、紙風船、習字には痛く興味を示した。恥ずかしがりやなのか反応は今一つといった感もあった。(女の子が手にしているのはあや取りの糸)

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 その後モアイを製造した丘陵に行った。大小色々。完成品や未完成品、傾いだもの、倒れたものや埋まったものがアッチにもコッチにもあり、1つ1つを現地の人が解説し、通訳が私達に伝えた。時の権力者が権力誇示のため次々と作らせたらしいが、ここで製造されたものをどうやって運搬したのか。しかも全島のアチコチに。モアイの下に樹木を敷いて引っ張り転がした。そのため樹木がなくなったという説が有力のようだった。(この大きさのモアイがゴロゴロと言っていいほど立っていた。眼下は太平洋)

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 もう一つ面白かったのは、この島だけではないが島では土産物屋が客が移動する方へ後追いで移動することだった。注意深く観察すると前どこかで見た顔とソチコチで出会うという恰好だった。(聳え立つモアイ像。赤シャツの青年は日秘混血でスペイン語の通訳。日本語の方が怪しかった)

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86)絶海の孤島ラバヌイ

2006年11月29日 | ピースボート世界一周

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 モアイで有名なイースター島はチリに属し主言語はスペイン語と島独自のラバヌイ語。島の住人は自分達のすむ島を「ラバヌイ」と呼んでいた。現地の言葉で未来に生きるという意味で謎の石造は、島全体で1000体近く残っているという。(各部屋に常設された救命チッヨッキを着用して、決められた出口から4~5人のサポートを得てボートに移乗)

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 通常は空路なのだろう。イースター島には大型客船が着岸できる港湾施設がないため、沖合いに客船を停泊させ8~10人乗りのテンダーボートで上陸しなければならない。5つのツアーが組まれていたが、全員が島に上陸する必要があって仮に10人乗りのボートだとしても100隻が必要になる。当然それだけのボートはないので、10数台のボートがおよそ半日がかりで搬送に当たった。悪天も在り得るので2日間の日程が組まてれいた。(7~8人分乗して島へ向かう。後方は客船)

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 年間1万人の観光客。今回1000人受け入れると1日で1か月分に相当しよう。恐らく島中を挙げて我々を迎える大イヴェントだったに違いない。船から早朝まだ薄暗き時間にイースター島を臨んでいたら、海岸に向かってライトをつけた車が終結してくるのが見て取れた。(島に近づくにつれ段々モアイ像が大きくなる)

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 上陸すると解るのだが土は火山岩特有のゴロゴロした台地で、車で走っても繁みは殆んどみられない。野菜などの栽培には向きそうもなく、やっぱり島で消費する野菜、果物などは輸入しているという。そんな島にとって「モアイ」は重要な観光資源であり、一方徐々に進む観光化は島の伝統的な生活形態に影響を与えていることも確かであった。(モアイは内陸を守るため内向きに立っていた。かって首が落ちたり、倒れたりしていたのを日本の起重機が起こしたのだという)

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 そうであればこそであろうか。エミリア女史は子供の頃の生活風習や現在の活動を報告し「自分達の伝統、歴史、考古学それぞれを知っていくほどにそれらが繋がって、文化の全体像が見えてくる」といい、「自分達とは違う宗教、人種、文化を尊重することで世界の平和が生まれる」と語った。恐らく機会あるごとに同胞にも自分の信条を伝えているのだろうと思えた。(島に渡った後現地の高校生と海岸のゴミ拾いをす。沖合いに停泊する客船)

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85)パフォーマンス花盛

2006年11月27日 | ピースボート世界一周

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 帰国まで約1ケ月。通常のショーに発表会形式の演目が企画されることが多くなった。そんな中で本日は3つを紹介したい。それはエンターティナーショウ、Voyage(航海)、和芸の祭典だった。(若者がアレンジしたロックンソーラン節。ハッピはシニアのご婦人方が船内で縫ったもの)

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 エンターティナーショウでは、乗客に対して職員(Boatのスタッフ、GETteacher、CC)が感謝をこめて芸を披露した。プレスリーや松田聖子のナリキリの物まね、「白鳥の湖」は男性バレー団が舞い、「おてもやん」はローカル色豊かなお囃子を入れながら踊られ、チャゲ&アスカはそれらしく扇風機いっぱいの風を受け、「東京に上陸」を仮定した上陸説明会はコント仕立てでなされた。それらは日々同じ空間にいればこそ分かり合えるエスプリに満ちて、立ち見続出の会場の大爆笑を誘った。(舞台は遠くていい写真がない)

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 Voyageはフランス語で航海の意だが、若者達が自主企画したもので地球をテーマに森・海・大地・空の4つをヘアーメイク、ファッションで表現するという試みだった。約10日間に亘ってイメージ作り、衣裳作りと約100人がかりだったそうだ。衣裳、ダンス、演出いずれもダイナミックで「若者の持つエネルギーが爆発」といった感があり、とりわけ若者には好評だった。写真はなし(沖縄の人に習った三線と民謡を歌う弟子達)

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 和芸の祭典は11月21日歌舞伎の日を記念して和芸の発表会となった。沖縄三線民謡、津軽三味線、舞踊(さくらさくら、ソーラン節)、篠笛、琴、お座敷芸(かっぽれ、奴さん)、芝居白波3人衆、ロックンソーラン等。沖縄と津軽三味線の違い、ソーラン節では古来と現代物の違い、お座敷芸の軽妙なフリ。何れ劣らずの人の入りでどの会場も溢れんばかりだった。(セイロンの浜辺では洋服のままだったが、和服は趣あり)

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84)ミュージックin太平洋

2006年11月25日 | ピースボート世界一周

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 船内には多芸多才の人々が多く、音楽に関しても洋楽ではフルオーケストラが出来るほどだった。和楽では大太鼓、琴、三味線、三線、笛その他ギター、ウクレレ、ハーモニカ、オカリナ、コーラス等。若者達は電子楽器をかきならしていた。(ジャンベを指導するKumarとアフリカでジャンベを求めた門下生)

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 ピアノは船内に3台あり、内2台は午前9時まではどの会場でも自由に使えたので音がモレ聞こえていた。日中の船内は喧騒に支配されていたが、夜空、月明かり、波の音をバックに聞こえてくる笛や管楽器の音は哀愁を帯て聞こえ、琴や三味線の音は心に響き自然に吸い寄せらた。師匠さん格のバチさばきは荒波との競演のようで迫力があった。(声楽の饗宴、ピアノ、バイオリン、琴の演奏の後、出場者全員で合唱)

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 各演奏会では大グループ小グループあるい単独での演奏を楽しませてもらった。声楽から合奏迄、クラシックから軽音楽、映画音楽、童謡、民謡迄あらゆる分野に及んだ。にわか練習を始めた方々といえども日々の練習は大きい。夫々の成果が見て取れたし、プロはだしの方々には充分に楽しませてもらった。(30年来独学でバイオリンを弾いてきた紳士。リクエストに応えて何でも弾いた)

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 楽器に縁遠い私としては、備品として貸し出用もあったウクレレ位ならと当初参加もしてみたのだが、時間調整が上手くいかず断念。少々の悔いが残った。中には寄港先で「楽器求め」に走る人もいた。これを機に「一つぐらい楽器をこなさなければ」と意を決し、3回目乗船のクラスメートにハーモニカを奨められた。彼女も同じ経過を経て今はハーモニカを操る。しかし下船して1年。未だオ・トなしの生活。このシリーズを終えたら・・キット・・・・。(「笑え!輝け!スターへの道」で大受けしたジャニーズ5076。同企画は歌、コント、ダンスなんでもアリで若者が11組出場した。キャビン番号5076の4人のメンバー達)

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83)オークションは如何

2006年11月23日 | ピースボート世界一周

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 船内では寄港先に用立てる為に様々な寄付や募金活動が行われた。手持ちの文房具で使っていないもの、現地通貨で残ったお金の投函箱、贈呈された絵本や買い過ぎた土産物の販売会、船内有料企画売り上げの全部又は一部、チャリテーオークション、講師による絶叫足つぼマッサージの売り上げ、真夜中のポストマンによるカード代金等。(夜遅くまで賑わう両舷 時差の関係で暗い中早朝ウォーキングへ向かう)

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 オークションの中身は1日キャップテン体験、GETteacherヤCC(ボランティア通訳)とディナー、徳永さん(朝一番にセクシャルボイスで挨拶)からのモーニングコール、出港式のドラ叩き、ギターレッスン、kumarが作ったダイエットのための運動メニュー等などであった。キャップテン体験は余り安くては船長に申し訳ないという理由で7万円で落札されたと聞いた。総売り上げは37、8万円。(サウンドオブミュージックの出演者全員で)

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 真夜中のポストマンは「思いを伝えることの大切さ、手紙が届く嬉しさ」を意図した企画で面白い。何回か行われたが事務局の前で100円のカードを買う。中にメッセージ、表にキャビン番号と氏名を明記して指定のポストに投函する。真夜中にポストマンがドアの下から投げ込むといったお遊び。若者には受けたのでは?or今の若者はもっとストレート?むしろかっての若者に受けた?乗船前名刺を作っておくと何かと便利とは聞いていたが成る程であった。乗船当初は自己紹介しあったがキャビン番号まで聞くなんて思いもよらない事だった。(大縄跳び。突然欠場者が出て3列の目男性、いきなりの出番はチト・キツカッタか)

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 初体験の私は単純でノリのいいのが幸いして何でも楽しめHappyだった。レクチャーも、船内企画の催し全般も、運動全般も、語学研修も。そんな風だから「この際」の思いも手伝って、ツイ和芸の舞台や2~3のセリフながらミュージカル、スピーチコンテストまで出てしまった。何せ1000人に迫ろうとする素人集団。ルールは1つ。上手、下手を超えて皆で楽みましょうだったから。(リーブシー・クラス)

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82)フォーマル・ディナー

2006年11月21日 | ピースボート世界一周

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 船内でフォーマル・ディナーは4~5回あった。堅苦しいことが嫌いな人や正装が面倒な人はヨットクラブで自由に食事はできたのだが、大方の客、特に若者たちはお洒落をしてディナーに参加していた。(彼女らは比較的年齢も高くよく同席した)

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 レストランはいつも総入替制になっており、時間になるまではクローズされていたので、扉が開けられるまで正装した人々はフロアに溢れ、高揚した気分で時間待ちや待ち合わせをしていて賑やかだった。とりわけ若い女性達は華やかで、回を重ねるごとにアチコチで求めたものを身にまとい、あでやかさを増して私達を充分に楽しませてくれた。

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 テーブルは2~3人掛けから10人掛けぐらいまであった。長らくの道ずれで若い方々とも顔馴染みになり大分話もした。私達の世代と決定的に違うのは時間、仕事、金の都合の付け方だろう。自然とそんな質問をしてしまう。仕事をやめてという人が多かった。かねがね若者の風潮を見聞きしてはいるのだが、職業選択の自由度が高いというのは本当に良い事かどうか気になる。(チリでのディナーショウ)

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 少なくとも職業観においては対極にあるといえまいか。私達の世代は両親が苦労して育ててくれたのを見ている。特別の躾も、勉学や手伝いの強制もなかった。祖父母や兄弟のいる家庭の中で自然に躾られ、勉学し、手伝っていた。時代の風潮や個の尊重などいろいろあって単純に比較はできないが、働き方については親の姿勢から抜け出すことはなかったし出来もしなかった。最近は子供はモラトリアムを決め込み、親もそれを許している。(パナマでは現地の学生と語学研修を兼ねて一日過ごし・ツ・カ・レ・タ~)

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 「帰国したら仕事探しから」という現実が彼らを待ち受けている。多くを学んだ彼らゆえに迷いも多かろうことが想像される。私達には考えられなかったような経験をした彼らは、沢山の刺激とヤル気を掴んだろう。若いから幾らでもやり直しも利くだろう。若者達よ!フレ~!フレ~!グゥア・ン・バ・レ~!(タヒチのレストラン)

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81)皆でハチドリになろう

2006年11月19日 | ピースボート世界一周

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 「持続可能な世界を目指して」を一つのコンセプトにしていたBoat側は、大陸を離れ日本へ向かうこの時期に、同じ理念の下に活動している人々を揃えて、「皆でハチドリになろう」というパネルディスカッションを行った。(船から望む絶海の孤島イースタ島と手前の小さな立像は守護神モアイ)

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 パネラーは学問と運動とビジネスの融合を目指す中村氏を司会にし、種子島を拠点にしている中島修一氏、タヒチのエミリア・テパノ女史、チリのブルーノ氏の4人であった。中島氏は生まれも育ちも大阪のアーティストで波乗りが趣味。外国を渡り歩いていた彼は絶好の波乗りスポットを探し当てて2年前から種子島に住み着いた。そこで同じくサーファーとして来ていたKumarと知り合い、彼の肝入りで今回が初乗船だった。(手前はブルーノ氏)

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 種子島は住む程に島中が家族のようで、従来のお金や物質を超えた豊かさが感じられ、豊富な自然をベースに新しいライフスタイルをとより強く望むようになった。そんな折隣の島「まげ島」で核廃棄物プルトニウムの埋め立て計画が出された。海を一番知っているのはサァーファと漁師として反対しておりトツトツと訴えた。彼はガベージファクタリーという本を出し、映画化の予定になっているとも話していた。(口角泡飛ばさない中島氏)

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 モアイを有する村で、島の文化や歴史を伝える運動を積極果敢にやっているエミリア女史は、別の企画で島のラバヌイダンスを優美に踊って見せ、希望者に教えて披露会をした。スローライフを提唱する中島、中村氏の発言は穏やか過ぎて?異言語の彼女にとって怒気が足りないと思われたのだろう、じれったそうな表情を隠さなかった。かってイースター島にカジノ建設の話が出た際、島の人々は連帯してインターネットを使い各国のメディアや良識ある人々に訴え、考古学者の協力もあって回避できたという事例を出してアジッタ。(ラバヌイダンスは健康的でいてセクシャルだった)

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 かっては元大統領のボディガードをしており、今はチリ文化庁に勤めながら先住民マプーチェ族のプログラムに関っているというブルーノさんは、核による影響をもう一度思い起こそう。言葉は大きな武器になると訴えた。そして最終的には「私達1人1人が力を合わせれば世界を変えられる」というメッセージが発せられた。(ラバヌイ=イースター島で唯一の小学校で) 前回中村中島両名の表記を一部混同 訂正済み

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