元旦の初詣は埼玉県入間郡の三芳町にある多福寺だった。40年前に一年だけ住んだ家の近くにあり、当時はその歴史などを知ることなく、ときたま境内を散歩していた。川越藩主の松平信綱による玉川上水と野火止用水の開削で農政の振興があった。その後の川越藩主は柳沢吉保である。吉保は五代将軍綱吉の側近として「生類憐みの令」などの悪政に関ったとする世評もある。
玉川上水完成からは約40年後に、吉保は荻生徂徠の建議を入れ、三富(さんとめ)新田の開発に着手した。野火止用水の例にならい箱根ヶ崎の池から水を引こうとしたが実現できず、11か所の深井戸を掘って共同使用したという。一軒の農家ごとに畑、雑木林の面積が均等になるように並んだ短冊形の地割である。三富新田の農民の精神的な支えとなったのが多福寺である。三富は現在の三芳町上富と所沢市中富・下富の総称である。
当時の農民にとって新田開発を行い自らの土地を所有するにはまたとないチャンスであり、入植者は川越、名栗、膝折、高麗、箱根ヶ崎、入間川などからやって来たほか群馬や山梨からもやって来たという。多福寺には、重臣であった曽根権太夫が寄進した銅鐘(県指定文化財)や、吉保直筆の「参禅録」などがある。近くの住宅街を歩いて昔のわが家を捜したが今回は見つけることができない。おそらく取り壊されて建て替えられたものと思われる。
玉川上水が完成してまもなく1656年に現在の武蔵村山市出身の小川九郎兵衛は石灰運搬の馬継場新設を条件に小川分水の開削を許可された。しかし熱心に呼びかけても原野開拓を希望する人は少なく自費で農民を住みつかせて開発を進めた。開拓と同時に九郎兵衛が開いたのが小川(しょうせん)寺で、本人も境内の墓地に眠っている。その後1724年に小川新田など開発許可がおりて小平の新田開発が本格的に始まった。これは玉川上水完成から70年後である。自宅から歩いて行けるこの小川寺が私のいつもの初詣の場所だ。