玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*酒田の南洲神社

2019年10月28日 | 捨て猫の独り言

 鶴岡から酒田に向けて移動するバスの中で「南洲神社」という縦書きの看板を見た。それはほんの一瞬のできごとで、バスのなかでそれに気づいた者はただ一人私だけだった。ガイドさんもこの旅行中に芭蕉を取り上げることはあっても西郷南洲を話題にすることはなかった。私にしても庄内地方と言えば鶴岡を故郷とする作家の藤沢周平の「蝉しぐれ」のことなどしかその時は頭に浮かべていなかった。

 昨年ならばNHK大河ドラマ「西郷どん」が放映されていたからガイドさんも、遠く離れた庄内の地にどうして南洲神社が存在するのか説明したのかもしれない。例えば直江兼続が主人公の大河ドラマ「天地人」が放映されると米沢の上杉神社の境内に、直江兼続とその主君である上杉景勝の二人が並んだ銅像が新しく建てられた。大河ドラマの波及効果は計り知れない。(左は上杉神社)

 

 私の本棚に荘内南洲会が発行した「南洲翁遺訓」という小冊子がある。戊辰戦争での官軍と賊軍の関係、そして降伏した庄内藩が厳しい処分を覚悟したにもかかわらず、西郷の処置は極めて寛大なものだった。庄内の人々は西郷の大徳を心から敬慕して1890年(明治23)に遺訓を刊行した。その30節には「命もいらず官位も金もいらぬ人は困るものである。この始末に困るものでなくてはともに国家を論ずるに足らず」とある。

 荘内南洲会の創立者は長谷川信夫である。1997年に84歳で没した。1967年の「南洲翁遺訓を読む会」が発展して荘内南洲会はできた。それから後の1976年の6月に南洲神社が建てられる。この年は10月29日に酒田の大火があり市街地が消失した。南洲神社は宗教法人でもなければ、神社には氏子や宮司もいない。それから山形と鹿児島の両方に西郷と庄内の俊傑の士である菅実秀(すげさねひで)の「徳の交わり」と題する二人の対面座像が設置されている。

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