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「M君の場合」 榛葉莟子

2016-06-03 09:51:44 | 榛葉莟子
◆青の記憶 1998 榛葉莟子
1999年10月1日発行のART&CRAFT FORUM 15号に掲載した記事を改めて下記します。

M君の場合          榛葉莟子

 ぼんやりとレースのカーテン越しに外の緑を見ていた。開いている窓にかかるカーテンは思い出したかのように、プーッと風を孕み襞を広げた。そこに黒いものが動いた。蜂だ。カーテンがしぼむと蜂は襞の谷間に隠れてしまった。蜂はすぐ襞の山に現れた。その山を蜂はまっすぐに登って行く。と、くるっと踵を返すと次の襞の谷間を下りてきた。それから、はてなというふうに立ち止まりくるっと踵を返すと、ちっちっちっと次の襞の山を登っていく。蜂はカーテンの透かし模様の隙間に幻惑されているのだろうか。いつもなら部屋に侵入してきた蜂はブンブンやかましく飛び回り攻撃的なのになあと思いつつ、いつまでも山やら谷やらの行き来をジグザグ繰り返している蜂をぼんやり見ていた。ふと、M君を想った。今頃はどのあたりをてくてく歩いているのだろうか。

 夕暮れ時の庭先にリュックを背にした長身の若者が現れたのはひと月ほど前の事だった。赤いバンダナを頭に巻き、笑うと白い歯がしっかり見える陽焼けした顔がさわやかだった。それがM君だ。水、もらえますか。と言うM君の手に空のペットボトルがあった。どうぞどうぞ、おいしいのよここの水、湧水だから‥‥八ヶ岳に遊びに来たの?私は挨拶代りのつもりで言った。旅しているんです。広島から歩いて来ました。北海道迄いくんですよ。えっ、広島から歩いて!北海道迄歩く?まあ、休んでいきなさいな。雑談がしたいと思っていた矢先だった事もあり、私はそう言ってお茶をすすめた。

 ここ八ヶ岳に入ったのが広島を出発してから三ヶ月目程になるという。預金通帳も携帯電話も免許証も、もしもの自己証明物は一切持たないと決め、立ち寄った町や村で一日二日の手伝い仕事を探し、小銭を稼ぎながら北へ向かって歩いて行く。手伝い仕事がない日が重なれば、空きっ腹に水を流し込むしかない。お墓の供物を失敬したこともあるんですよ。さすがその時は、いただきますって、手を合わしちゃいましたけどね。でもね、不思議なことに空腹感っていうのが段々なくなってきているんですよね。なんか今の環境に身体が合わさってくるつていうのかなあ、歩く距離にしても、いくら歩いても疲れないんですよ。でもね、何かしら仕事はあって、と言っても頼み込むんですけどね。徒歩で旅してるって事情を話すと、俺も若い頃やってみたかったとか、がんばれよとか、なんだか果たせなかった夢を僕に託しているように、仕事をみつけてくれる人にもたくさん会いました。うん、そうかもしれない。徒歩で旅してると聞けば、人はなにか密度の濃い熱が一瞬自分の身体のなかを駆け抜けて行くようなゆらぎ感覚が生まれるのかもしれない。そしてまた、秘めたる自分の遠い物語と重なるからでもあるような気がする。そして夕暮れの匂いを感じる頃、今夜の寝場所を探す。駅、公園、公衆便所、空き家、寺、神社と、寝る場所の匂いを嗅ぎつける勘が身についてきたんですよね。なるほど、それでこの庭に現れた訳だ。なにしろ隣は無人の神社。うちに泊まっていきなさい。神社で寝るっていっても高原の夜は冷えるし、空模様も怪しいし‥‥。お節介かなと思いながらも誘ってみた。えっ、いいんですか。うれしいなあ。で、そういう事になった。

 夕餉の食卓を家族と囲みながらM君はよくしゃべった。てくてく歩く毎日は孤独との闘いであっただろうし、それは修行僧の行脚と変わりないはすだ。M君はちょっとはにかみながら、やっぱり言った。くさい言い方をすれば自分探しの旅です。それなくして、ここまで自分を厳しくはできないだろうし、彼流のやり方なのだろう。M君に立ち止まりの泡粒がぷっくり浮上したのは、大学を出てある企業に勤め安定した生活が始まって、まもなくの事だという。これでいいのかの自問自答に陥っていった。立ち止まりが浮上すれば、その場は苦痛でしかない。勤めからその身を解放してみれば、ふつふつと蘇ってきたのは、少年の頃抱いた夢だった。ふーん、どんな夢?サハラ砂漠縦断、徒歩で。わっ、サハラ砂漠!サハラ砂漠と聞いて私の内にサンテグジュペリがやってきた。サハラと言えば星の王子さまの話の舞台。M君の内からぷっくりと浮上した泡粒のなかには、純粋がぎゅっと詰まっているような気がしてきた。夢はジャンプ台だ。M君がサハラを縦断するのかしないのかよりも、私には彼が彼の内部に蒔いた夢の種が発芽し始めたのだなあという所に目が向き、生きるとは、ゆっくりと誕生していく事。というサンテグジュペリの言葉をメモした頃を思い出して、それは冒険とも言う。と、そこに少しの言葉を加えてみた気もする。


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