ART&CRAFT forum

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『手法』について/岡本敦生《寡黙容量》 藤井 匡

2016-11-18 11:18:36 | 藤井 匡
◆岡本敦生《寡黙容量》 花崗岩 160×400×300cm 1991年

2001年7月1日発行のART&CRAFT FORUM 21号に掲載した記事を改めて下記します。

『手法』について/岡本敦生《寡黙容量》 藤井 匡


 作品を見ることは、直接的には何らかの物質を見ることである。このとき、作り手の思考が純粋に伝達されることが目的ならば、物質とは単なる経路に過ぎない。だとすれば、素材の選択とは目的に応じて交換可能なもの、情報を完全に伝え得るものあるいは経路上で発生するノイズの最小限なものが望ましいことになる。
 しかし、素材はそのようにして作者に従属するものだろうか。こうした疑問を導く要因のひとつに、物質である以上は時間の経過の中で必ず変容していくことが挙げられる。勿論、使用される素材や展示される状況によって事情は変わってくる。しかし、かたちあるものが永遠に存在し続けられるのでない以上、それは程度の差でしかない。観念的にはどうあろうと、現実的な問題として未来は裏切っていく。
 ここから考えはじめるならば、素材とは自意識を盛るための容器とは見えなくなる。自己を社会(非自己)へと繋ぐ経路に素材があるのではなく、素材に関与することそのものが非自己と対峙することを意味する。そうした意識をもたらすことになる作品の物質的な変容を、自覚的に問う作品について考えてみたい。

 岡本敦生《寡黙容量》(1991年)は、直方体に近いブロックと扇形に近いブロックとの二つの花崗岩から構成された屋外彫刻である。制作過程において、これらは一度ある程度の大きさに分割、バラバラに解体されてから再結合される作業を経ている。その過程は隠蔽されることなく――むしろ強調されるように――結合箇所のいくつかには鉄のかすがいが使用されている。そしてこの分割と再結合の経緯は、作為性の少ない形態と表面とによっても前面に出されることになる。
 二つのブロックは幾何学形態に準拠してはいるが、その内に括られるには不用心な姿をしている。これは岩盤から切り出されたときの、石の目に沿って割れた姿が作品に持ち込まれているためである。ここでは、形態を操作しようとする志向は素材の性質よりも下に位置している。こうして、作品の形態は作者の主体的な意志に基づきながらも、結果的にはそこ収まらないものとなる。また、表面には割れ肌が使用されており、ここでも作者は制作主体として石の存在を制御することを意識的に回避している。
 このように、作品は作者の手を経由したものながら、形態も表面も作者の内面に回収されてしまわないように成されている。作品のフォーマルな要素は自立的な意味を示すものではなく、分割と再結合の経緯の提示を補強するためのものとなっている。
 岡本敦生における石を割ることの契機については何度も語られている。(註 1)
 石切場から切り出される巨大な石塊は圧倒的な存在感を放つ。さらに、花崗岩の岩盤を〈地球の皮膚〉(註 2)と認識する作者にとって、石とは地球の表象であり全体像を直感することが困難な大きさと思われている。そこから、地球上の一点に自分が所在している=石に包み込まれている感覚が導かれる。
 一方、花崗岩が何万年もの時間をかけて形成された変成岩だという認識も、数十年の生しか果たすことができない自らを超越した存在としてある。そして、その時間の流れの最末尾に自分が連なっている=石に包摂されていることが想起される。石とは空間的・時間的に、作者の身体を超越したものとして想像されるのである。
 この超越的な物質と関係を構築する手続きとして、制作の第一段階で石は身体を対峙させる(実際に自分の手で持ち上げる)ことができるサイズにまで分割される。この作業によってはじめて、作者と石とは交通可能な状態となる。分割とは制作上の単なるプロセスではなく、制作の根拠に直結する必要不可欠な『手法』となっている。

 物質としての石は分割されて素材としての石に変換される。次の段階では直方体は内部がくり抜かれてから再結合され、箱の形状と機能とが与えられる。そして内側には作者に直接関係しているもの――自身の身近なものを撮影した未現像の写真フィルムなど――が納められる。
 内側に納められたものとは、作者にとって私的なもの(言語化されないもの)であり、他人と共有することが困難なもの、伝達が不可能という意味で他人と遭遇する現実の場では不可避的に喪失されるものである。それをあえて保護するために分割した石をもう一度結合する『手法』によって、内側と外側とを分離する箱の機能が設定される。
 このとき、内と外とにまたがって存在する石は作者の志向に即した素材であると同時に、作者を超越した物質であるという、両義的な性格を所有する。制作段階での分割(素材化)と再結合(物質化)の二つの作業は、この両義性をつくりだすことにある。
 素材を再結合して出現した箱とは観念的なものではなく、石としての質量を持った有限の存在である。石は他の物質よりも相対的に風化に強いものであるが、それでも白色の花崗岩は空気を吸って変色していく性質があるという。(註 3) 箱は時間の経過の中で変容を遂げて行き崩壊へ向かう。
 その結果、やがては境界線の機能は失われ内側は外側へと露呈される。内側に位置するものであっても、それを取り囲むのは現実原則であり、永遠に存在することは許されていない。境界線は内側を形成するためのものでありながら、物質として外側の世界に所属しており、終わりが必ず訪れるのである。
 直方体の隣に位置する扇形は、直方体と同様に一度解体されてから再結合される手順が採用されているものの箱の形状をもたず、内側と外側とが形成されることはない。しかし、この扇形は別の意味で内側と外側との関係を暗示する。外観の大半には直方体と同じ割れ肌が残されるが、窪んだ部分の表面には柔らかな形態が彫り出されている。この原始生命をイメージさせる有機形態はエディプス的な世界(自我=世界)と観念的に連合しており、内側の世界を示していると考えることができる。
 扇形は直方体の境界線が崩壊して以降の状態と理解され、二つのブロックは同一物の現在(直方体)と未来(扇形)との並置と見なされる。つまり《寡黙容量》においてはその終わりが始まりの時点で既に自覚されているのである。そしてそれが耐久性に優れた石によって実行されているため、終わりが訪れるという安易な結末も否定されることになる。

 こうした分割と再結合という『手法』をもたらした要因のひとつに、作品が屋外に展示され続ける間に生じる変容への意識が考えられる。特に屋外展示においては作品が初期の状態を維持することが困難であり、変容していくことを生存条件として受け止めねばならないことが意識されていると思われる。
 作品の完成をある時点に位置づけることは可能だが、その場合には完成以降の変容(劣化)は醜悪なものとして目に映るだろう。作品は観念的には美術という時間に対する超越性をもちながらも、物質的には過ぎゆく時間の中に置かれた普通の物体であり、不可避的にエントロピーを増大させていく。それも、日光や風雨に晒され、文脈的に美術の位置付けすら曖昧になる屋外においては変容はより顕在化されることになる。
 箱の内側という他者が存在しない場所とは、作者の自我が全面的に達成される観念的な世界である。しかし内側は現実に対して閉じられており、見ることも感じることもできない。この箱を無理に開いて確認しようとしても、内側の未現像フィルムは感光してしまいはやり確認することはできないのである。箱が閉じられて以降は作者も同様に外側に存在しており、境界線を越えて内側には到達できない。
 社会の中にありながら、自己に内面化されない社会と関係するための機能(箱)として《寡黙容量》は制作される。そこでは分割したもの(素材)と再結合したもの(物質)という石の両義性を通して社会と繋がることになる。
 作者も作品も社会の中にあり、社会に対して超越的にあるのではない。超越的にあると思うならば必ず未来に裏切られることになる。(註 4) そして、誰もこの条件を越えることはできない。肥大化した自意識を社会に投影することへの拒否はこの理路を通ってくるのである。
 他者に囲まれて存在する現実の中で、内側の世界は保護されなければ確実に喪失される。しかし、それを保護しようとしてもあらかじめ(そして永遠に)失われている。限りなく徒労に近いことが充分に自覚された上で、箱をつくることは実行されるのである。主体的に変えることが不可能な生存条件を直視しながら絶望的にあがらい続けること、その意志によって《寡黙容量》は成立する。


註 1)例えば「市民フォーラム」での発言『'98米子彫刻シンポジウム』報告書 1998年
  2)「岡本敦生の写真典④」『Stoneterior』Vol.36 1994年
  3)「第14回現代日本彫刻展 作家コメント」毎日新聞山口版 1991年
  4)座談会「環境アートが彫刻に期待するもの」『Stoneterior』Vol.36 1994年

   

「素材の弾力と力」高宮紀子

2016-11-15 15:31:39 | 高宮紀子
◆高宮紀子(アオツヅラフジ 45×45×18cm・1995年制作) 

◆オカメザザのカゴ  直径 40cm

2001年7月1日発行のART&CRAFT FORUM 21号に掲載した記事を改めて下記します。

民具のかご・作品としてのかご-7-
 「素材の弾力と形」 高宮紀子

 これまで、伝統的なかごの技術や立体方法を新しく展開して作品を作ってきた、というお話を書いてきました。歴史的順序としては、まず民具があるわけですが、実際に作品を作る時は民具の複製といった脈略でなく、一度、素材の使い方や技術などの原点に戻って、そこから考えるようにしています。だから、私としては新しい造形アイデアだと思っているのですが、実際は既に民具のかごの中に存在することが多く、改めて見直すということが時々あります。勿論、民具と作品の方向性は違うのですが。

 このかごは1995年の個展で展示した作品です。素材はアオツヅラフジというツルで、静岡に住む友人を訪ねて、一緒に近くで採りました。私が住んでいる川崎にもあるのですが、比べようも無い程たくましく育ったもので、アオツヅラフジもこんなに太くなるんだなあ、と感心して採ったのを思い出します。細いツルですが、弾力がありました。

 後日、針金でフレームを作り、採ってきたツルを巻いて作品を作ることにしました。フレームで形を作る方法は以前からやっていましたので、最初、同じようにフレームの外側に巻いていったのですが、うまくいかず、ツルが外側に膨れて塊を作ってくれません。そこで、フレームの内側のスペースにループのように丸めて輪を作り、素材の弾力を引き出して絡ませました。素材の弾力のおかげで、材同士の接点が少なくても、絡まった状態を保つことができ、フレームの内側いっぱいに塊ができました。以前にチョマを使って同じ方法で作品を作りましたが、この作品では素材が違うため、フレームの使い方も変わりました。普段は素材が原因で問題が起こるのですが、それは同時に別の方法を見つけるきっかけにもなると思いました。

 2枚目の写真は、最近作った秩父郡吉田町の民具のかごです。現地に行って素材を採り、作り方を教えてもらいました。素材はオカメザサという細い稈の竹です。真冬に柔らかい一年ものを採って使います。吉田町は今年も積雪が多かったようですが、雪の重みにも耐えていたそうです。採った時は既に雪は無かったのですが、曲がったままの状態でした。
 
 このかごは昔、お風呂屋さんにあった脱衣かごと編み方が同じだと思います。素材にはいろいろな笹類や竹が使われていますが、細い稈ですと、割ってヘギ材をとるより、そのまま使う方が合理的です。このかごも直径4ミリぐらいの太さの稈をそのまま使います。

 昔懐かしいかごでしたから、構造的にも見慣れていたのですが、実際に作らなければ分からない体験をすることになりました。まず、びっくりしたのは、体全体を使って体力勝負の作業で編むことです。タテ材を組んで底の中心の部分を作り、その上に足を置いて立ち、前かがみになって手を伸ばし、底の部分を編んでいくのですが、体の柔らかさが勝負。次に編み材を入れて底を作るのですが、足を乗せて押えないと、稈のバネの力が強く、気を抜くと勢いよくはねてしまいます。入れる編み材の本数はわずかで、素材同士の接点はかごの大きさの割には少ないのですが、丈夫です。

 次にタテ材を大きくループ状に曲げて、端を底の編んだ所に差し込みます。1周したら、それらのループを少しずつ小さくして全体が傾斜するように縮めていくのです。いわゆる、かごを立ち上げる、つまり立体にする作業がこれですが、この作業が難しい。引き方が強すぎると、かごの形が歪になってしまいます。ループの形や傾斜がかごの形を決めることになるので、ここは正念場という所です。

 オカメザサのかごは、素材の弾力が無ければむつかしい形です。ツルの太い物でも作ることはできますが、同じ太さの素材を使うと同じ強度は得られないと思います。「かごは素材の弾力を利用して組織を作り立体にしたもの」、この事実はわかっていましたが、オカメザサのかごを作ることで、素材の弾力と接点の関係やバネの力の分散と調和を鮮明に体験することができました。

 オカメザサのかごは、先に書いた作品と同じく、素材の弾力が重要な鍵になるわけですが、素材の性質と全体の形との関係、そして制作の方向性はそれぞれ違います。しかし、弾力と形の関係というテーマを改めて展開してみたい、と思うほどに魅力がありました。

「家の呼吸」榛葉莟子

2016-11-14 11:17:13 | 榛葉莟子

2001年7月1日発行のART&CRAFT FORUM 21号に掲載した記事を改めて下記します。

家の呼吸      榛葉莟子


 てくてくぶらぶら歩いていくと、丈高い木々の緑茂る向こうに、こんもりと小山のような茅葺きの屋根がみえてくる。毎日の散歩の途中、ゆるく傾斜しながらの道に沿って建つ茅葺きの家。いつだって呼びとめられているような気になって、ふと立ち止まりたくなるその家は、新しい茅を葺くこともないまま、ながい時間の腐蝕は家全体のささくれを溶かし丸みを帯びた草の家。誰も住んではいない締め切った雨戸のその家を、あばらやだと誰かが言った。確かに廃屋と化す寸前と見ようによっては見えるけれども、そっと触れてくるような、触れたくなるような穏やかなものを感じるのはなぜだろう。家はそこで暮らし生活する人の生身の匂いや熱が刻々と刻まれ、染み込み人と共に家も生身の時間を生きている。その家から人の暮らしが失われていったならば、家は生身を脱け何処にいくのだろう。ふと、かって冬近いある日、廃墟と成った山深い集落に足を踏みいれた時の事がよみがえった。人が去り生活が消え家々は朽ち崩れ、道をふさぐ生い茂る枯れ草がひゅうひゅう風に吹かれている中を歩いたり、眺めたり立ち止まったりしていた。なにか一瞬明るいものが触れて来るように感じられてくるのが不思議だつた。のどかな集落にはピンク色のコスモスがいっぱい咲いていて、路地の其処此処からこどもの私が走り出ては隠れ、隠れては走り歓声が聞こえてくる。そんな幻想をかいま見たような、魔法にかけられていたようなほんの一瞬。あの空間に充満する原初の気配に身体が呼応し接続したほんの一瞬の光の反射。廃墟は鏡のような空間に変身するのかなといまふとそう思う。

 あの草の家を眺めていると静かに微笑んでいるような、あるいはうたた寝の呼吸が聞こえてくるような、雪の日も、雨の日も、風の日だってなぜかそんなふうな家の呼吸を感じるのは、単に自分とこの朽ちていく家との接続の感覚にすぎないのかもしれないけれども、たとえばかけらのような物に動きはみ出た気配を感じれば、はっとして拾い上げている。その物と瞬間身体が接続する。それは朽ちていく草の家にも、廃墟に感じた気配ともつながっていく。はっとする喜びや輝く瞬間はするりと去ってしまうけれど、その触発は身体に生き生きしたものを注入していく。たっぷりと水を含み苔でいっぱいの茅葺きの屋根を見上げれば、あれは萱草だろうか、青々とした長い草の束が根を張り陽の光を浴びている。夏がくる頃、茅葺きの屋根に夕陽色の花がいっぱい咲く。そんなある日の事だった。その家はは雨戸が開け放されぽっかり大きな口を開けていた。あっと思った。口の中は漆黒色。家の回りのそこかしこ、草を刈り庭木の手入れの後のさっぱりとしたきれいさが漂っていた。そのせいばかりでないのは、満開の黄色いれんぎょうの花がわぁっと声をあげて咲いている。それは久しぶりに雨戸が開いた真暗闇の家のなかに、新しい生命を吹きこんでいるまぶしい光のようでもあり、いますぐにでも家の中から無数の蝶がひらひら舞い出てきそうな気配を感じ振り返ると、奥の草藪にちらちらと動いている麦わら帽子が見えた。道に車が止まっている。麦わら帽子の人はたぶんここで生まれ育った人と想われる。車のナンバープレートが遠くからやってきたことを告げている。はるばるとやってきてせっせと草を刈り、手入れをしているその人のこの家は記憶の領域にあるのではなく、共に生身を生きている家なのだろうなと思った。

 カッコー、カッコー、カッコーの声。早い朝、カッコーのあいさつで眼が覚める。梅雨が近い。古びた家だから雨の度に雨漏りを発見する。修繕の間に合わない頃、バケツが並び、お鍋が並んだ。ポツンポタンポツンポタン落ちる雫の音を聞きながら、やっぱりブリキのバケツの音がいいねえ。ポリの音は単調で退屈だし、ブリキの音には表情があるもの。お鍋はちょっと音が破れてないかい。ポツンポタンポツンポタンと家が口ずさんでいるような雨降りの夜は更けていった。よく晴れたある日、屋根に上がった。瓦のひび割れを見つけるには眼が多い方がいいということで、屋根瓦の修繕の助っ人だ。ずっと男任せにしていたので、屋根に上がるのは初体験だった。もと幼稚園の家だから背は高く屋根は広い。長い梯子をのぼり屋根に両足で立ちつつも立てないものだ。30度近い傾斜に立つ感覚に身体はすぐには反応しない。四つん這いの姿に、いっしょに上ってきた猫が擦り寄ってくる。屋根瓦の上を歩くには、右足が沈まないうちに左足をというような感覚になる。しっかり踏みつつ身体と屋根の傾斜を感じつつ、踏み締める寸前すっと重みを抜く。瓦に接触する感じでなければ古びた瓦は割れる。この微妙な感覚。不安定の緊張のなかの一瞬の間合いの感知。人の二足歩行への進化をたどるがごとくに、屋根の背骨にたどり着いた。恐竜の背骨のように長々と伸びている背骨にまたがる。これがやってみたかった。こわくて、うれしくてドキドキする。空を仰ぐ。いま、この時、たったひとりの自分がいると感じた瞬間、緊張が走りぬける。

「アートを求めて」 山本篤子

2016-11-11 11:28:23 | 山本篤子
◆ 山本篤子「Wish & Hope」 2000年 シルク、チュチュ、マシンエンブロイダリー
 撮影:Y.Ogura

◆山本篤子「異界への道」  1989年
撮影:Y.Suzuki

◆山本篤子「Forest 4」1992年
撮影:Y.Suzuki

◆山本篤子「requiem Forest 16」 1997年  シルク スカーフ
撮影:Y.Suzuki

◆山本篤子「glacier blue」 1987年
シルク布プリーツ加工  マシンエンブロイダリー
撮影:E.ichikawa

◆山本篤子「たまゆら」 1982年
シルク布  マシンエンブロイダリー
撮影:N.koizumi

◆山本篤子「クリスタル  ジャングル(部分)」 1994年
綿ロープ、シルク布、マシンエンブロイダリー
撮影:Y.Suzuki

◆山本篤子「ジョルジュサンドの赤いターバン」 1986年
シルク布プリーツ加工   マシンエンブロイダリー
撮影:Y.Suzuki

◆山本篤子「Forest」 1995年
シルク糸   マシンエンブロイダリー
撮影:E.ichikawa



2001年7月1日発行のART&CRAFT FORUM 21号に掲載した記事を改めて下記します。

 「アートを求めて」      山本篤子

 高校生の頃は、絵が好きで美大受験を考えていた。種々の理由から国文学を専攻し卒業したが、私の周辺では常に様々なアートシーンの展開が感じられていた。画家になる夢と平行して趣味として習っていた西洋刺繍は、大学を卒業する頃には自分にとっての表現手段の一部にまでなりはじめていた。工芸的な小世界でしかない刺繍で、アートとしての展開が出来ないか。アートとしての刺繍展開をしている先人はいないのだろうか。アンテナを張り巡らし誰かれとなく熱心に話しても、シシュウと聴いて詩集を思い浮かべ刺繍をイメージする人は少なかった。見つからない。情報がない。1976年ヨーロッパに飛んだ。刺繍材料輸入会社を経営する人の好意で、輸入先の会社を訪問する旅に同行させてもらったのだ。何か手掛りが欲しかった。ドイツ、スイス、フランス、イギリスと回り帰国の日が迫っても、アーティスティツクな刺繍には全く出会えなかった。何の情報も得られなかった。帰国前夜、ロンドンのレストランで、「それならゴールドスミスカレッジにある。」と知った。もう一日早く判っていれば、この目で大学を確認することも出来たのだが、それは叶わずに帰国した。帰国後、ブリティシュカウンシルに何度も足を運び調べた。大学リストに名前を見つける事は出来ても、その内容は何一つ判らず結局、手紙で直接問い合せることにした。ゴールドスミスカレッジは、ロンドン大学という大きな傘の下にある沢山のカレッジの中の一つで、芸術学部の中にテキスタイル&エンブロイダリーコースがある事がわかった。大学を卒業しB.A.を持っている事と言う受験資格はクリアーしていた。トランクに受験の為に準備した日本刺繍作品をぎっしり詰めて渡英した。最初の手紙を投函してから二年余りの歳月が流れていた。身の回りの物を詰め込むスペースは無く、着のみ着のまま状態での出発だった。

 ゴールドスミスカレッジは、総合大学であらゆる学科が存在し、夜間はアダルトスクールとして社会人教育のために校舎は使われ、マンモス大学特有の騒々とした落ち着かない大学だった。そんな本校からバスで20分~30分離れた静かな場所に、ミラードビルディングがある。この古い煉瓦造りの建物が芸術学部だった。全ての学生の顔が認識できる小さなアットホームな大学だった。正面玄関に守衛さんが居て、毎朝登校するとそこにある名簿にサインする。建物の右半分がテキスタイル&エンブロイダリー、左半分がファインアート。ファインアートには、彫刻、絵画、版画、映像、写真、ガラス等、テキスタイル&エンブロイダリーには、シルクスクリーン、染め、織り、編み、ミシン等の部屋があり、設備は至れり尽くせり充実し、朝から夜遅くまで自由に使えた。テキスタイルの学生が、ヌードスケッチをしたければファインアートの方へ行けば良いし、ファインアートの学生がシルクスクリーンを使いたければテキスタイルの方へ来る。彼らはテキスタイルの学生とは異なった発想でシルクスクリーンを使いこなす。例えばコラージュした写真製版のシルクスクリーンに、直接タワシで傷つけて新しい表現方法を模索したりする。校内の購買部には、他学科の目新しい材料がありね小さな食堂には、ビター片手に熱い芸術論戦があった。当然の結果として、素材も技法も複合化した新しい作品が生まれる。彫刻やテキスタイル等の垣根が取り払われ、各々の表現の為に自由に素材や技法が使われ、バリアフリーなコラボレーション、これは正に20世紀後半の現代美術史そのままを体現した現場であった。教官は援助者であり、テクニシャンは技術的にも体力的にも学生の作品制作に欠かせないサポーターであった。学生生活は、各自10坪ほどのステュディオというスペースが与えられ、課題に追われることもなく、作家の様な制作三昧の日々を送る。

 私は、テキスタイル&エンブロイダリーで最初の日本人留学生だったので、私の行動は、「日本人はそうするの?」とよく問われて、窮屈さと戸惑いを感じた事をのぞけば、自分に厳しく、自分を見つめ、いかに自分らしい自分にしか出来ない作品をつくるかと言う、本当に充実した時間に徹することの出来る毎日だった。

 ひとことにテキスタイルと言っても、各大学それぞれに、はっきりと特色があった。学生生活も、そこから生まれる作品も全くと言ってよい程、異なったスクールカラーを持っていて、就職に有利なカレッジ、デザイナーを輩出するカレッジ、教育者を養成するカレッジ等々、ゴールドスミスカレッジは、コンテンポラリーアートそのものであった。私にとって、「水を得た魚」何物にも変えられない本当に有意義な、将に求めていた大学であった。

 私の帰国後、サッチャー政権は、エデュケーションカット政策を断行した。大学の統廃合が行なわれ、教官の多くが大学を去り、設備は最小限にカットされた。ゴールドスミスの芸術学部は、ミラードビルディングを去りマンモス校の本校の地に戻された。教師も設備も最高に良い環境の時に私は在籍することが出来た。私と同時期にゴールドスミスで学んでいた人が多数、現在、国際展で活躍している。充実した教育現場から国際的なアーティストが育つことを、又、国の経済や政策が結果としてアートに大きく関わる事を身をもって知った。

 帰国後、孤軍奮闘の日々が始まり今日に至っている。精一杯自分らしい作家活動を続けて20年余となる。人真似をした事はない。自分に出来る事、自分にしか出来ない事、それが作品制作のポリシーの一つになっている。本来、作家活動に100%邁進したい貴重な時間とエネルギーを、ボランタリー精神のみで、英国62グループの日本での作品展の開催をプロデュースしたりするのは、草分けの人間の宿命なのかも知れない。テキスタイル、エンブロイダリーを大学で学んでも卒業後に活動の場が無い事から、作品発表の為に刺繍の教官達が1962年にグループを結成したので62グループという。創設当初のメンバーは全て刺繍作家であった。1970年代の英国の芸術教育環境が充実していた結果として、刺繍技法にとどまらず多彩に展開され1980年代の作品の質は、その内容、素材や技法のバリェーション、作品レベル、全ての点で目を見張る素晴らしいものが多数見うけられ、「手芸からアートへ」が達成された。1990年代に入ると、刺繍がバックグランドの作家は少なくなり、グループ名もテキスタイルアーティストと言うようになった。刺繍畑出身の私は、一抹の淋しさを感じている。しかしそれは、政治、経済、社会背景に裏打ちされた20世紀末現代美術の潮流そのものでもある。

 私は、布を用いて冥想空間をつくり作家活動を展開してきた。インスタレーションと言う言葉が未だ日本に無かった時、「これ何?」と問われてばかりで、芸術的な評価は何も与えられなかった。しかし、私はその度に確実に、自分の中に手応えを感じ、その中の何点かの作品は、私自身のマスターピースに育っている。アートとしての作品展開を目指しているが、テレビ局や舞台美術の仕事も多い。雰囲気づくりや舞台の背景ではなく、企画、演出、音楽、美術、ダンサーや役者、全てが一丸となった芸術作品に携わりたいと念じている。

 一方、私は布と糸の力を充分に引き出したオリジナルスカーフをつくり販売している。アートを目指している私にとって、長い間、スカーフの製造販売は苦痛そのものであった。精魂込めたアート作品発表の別室でのスカーフ販売は、私にとって屈辱的なことであった。しかし、1995年、あの阪神大震災によって変わった。生活も変わった。自分のアトリエ一軒を丸々失ったが、国からも県からも市からも一文の援助も無かった。国家は国民を見捨てた。幸い家族は無事だった。多くの破壊と死を目のあたりにして、「生かされている」という思いが大きかった。精神的にも又、生活造形美という観点からも、私の中にバリアフリー化が生じ、色々なパーツに別れていた私は、一つになっていった。『レクイエム・フォレスト16』は、私の商品であるスカーフによる冥想空間作品である。一枚一枚はスカーフだが、作品全体を観た時はもはやスカーフではない。フォレスト16は私の内なる革命的作品となった。昇華できたとでもいう感覚で、これ以降、スカーフ販売を屈辱と感じた事は一度もない。
 
 東京で何年もつづいているテキスタイルのグループ展に、自信作の小作品を出品した。形がポシェットだったので、肩紐の部分を見せずに器の様に展示され、「とても良いテキスタイル作品なのに残念だ」と画廊の人に言われ、それ以降そのグループ展から外された。用のあるものは、アートスペースに展示したくないという判断である。現実社会では、工芸も美術も共に創造の世界としてバリアフリー化が進んでいる。もし、ピカソのポシェット作品であったら画廊はどんな判断をするのだろう、陳列しないのだろうか。

 何がアートかということは、個々の哲学、個の人間としての存在そのものへの問いかけであると思う。1980年、英国ビクトリア&アルバート博物館で、三宅一生氏の「一枚の布」シリーズの大きな真っ赤な貫頭衣を観た時、アートとして素直に受けとめることができた。しかし90年代、海外の美術館での三宅一生展の開催を、私はアートとしてとらえる事が出来なかった。ファッションデザイナーは、創造の世界の人であるが、ファッションは、私にとってアートではない。この何とも矛盾する説明しがたい皮膚感覚を大切に、私にとっては、とても崇高な「アート」を求めて、作家活動を続けている。

造形論のために『造形的発端について④』 橋本真之

2016-11-10 11:33:33 | 橋本真之
◆橋本真之「部屋の中の林檎」Ⅰ~Ⅳ(鉄)1967年

◆橋本真之「部屋の中の林檎」Ⅲ (鉄)  1967年

◆橋本真之「膜」(真鍮)   1968年

2001年4月1日発行のART&CRAFT FORUM 20号に掲載した記事を改めて下記します。

連載1 造形論のために
『造形的発端について④』   橋本真之

  [外在的発端の前に]
 昼間の金属の打ち抜きの仕事を了えると、仲間と囲碁を楽しんでおだやかだった祖父は、七十歳になって急に怒りを爆発させるようになった。ある日家に帰ると、祖父は意識を失って倒れていた。

 親類縁者が囲んでいる中で、いびきをかき続ける祖父の傍らで、私は粘土をいじっていた。そうせずには自らを恃することができない自分自身にあきれた。祖父は痰を詰まらせながら、ゴロゴロとしたいびきをかいていた。むりやり痰を取り除くことで呼吸を楽にしてやっていたが、一週間の後、赫らんでいた祖父の顔色が土気色になり、硬直して動かなくなった時、あきらかに物体に変わった様子に、私は驚愕した。意識を失ってはいても、生きている存在が死に至る時の、そのひと跨ぎの経過が、いつまでも私の眼底に焼き付いている。

 いずれ私にもやって来るはずの、死の瞬間の前で、お前にとって大事な芸術は何の意味を持ち得るのか?何のことはない、死を迎えるまでの手なぐさみに過ぎないのか?私は決定的な一撃を喰らったのである。連綿と続く蚊の一生のような、このあたりまえな生の事実にうろたえた。私は一人林檎を見ている他に、手のほどこしようがなかった。私の集中と持続は、祖父の死へのひと跨ぎによって追いやられた場処だったのである。

 祖父の死からしばらく経ったある夜、歩道を歩いていると、暗がりにうずくまって倒れている男がいた。声をかけたが何の応答もない。近付いて肩口に手を触れると、だらりとした身体がこちらに向いた。祖父の死相が頭の中をよぎって、これは死んでいるのかと怖気づいたが、揺り動かして見ると、男は濁った薄目をあけて、あらぬ方を見てから私を見た。その存在の動いた瞬間に、生きているものの強度を見た。

 もぎとられた林檎が机の上にあって、目の前で動くということは、私にとって、こうした生と死の間の移行に関する問題でもあったはずである。

 道を歩いている日常の中で、ひとつの物に目が止まると、それがこの日常をささえている積石のひとつのように見えるほどに、目をそらすことをためらわせる。私はそれらのひとつひとつを振り切って、目的の場処へ急ごうとするが、それが何のためであるか?と疑わしかった。私は自らの生に固執することで、死を振り切っていられるとは思えはしなかったが、死の突然の瀑布を恐れた。そして自我の錯乱を恐れた。

 生きているうちに自我を放棄することが、もしも自分自身に可能であるならば、柳宗悦の「民芸論」は平穏で美しい。青年期の私には、その美の宗教は充足しているように見えた。けれども、残念ながら、私は従属して羊の群れの中に居ることに耐え得なくなっていた。彼等もまた祖父のように、突然、世界に対する怒りを爆発させるに違いないと思えるのだった。

 大学の陶芸の工房に実習に行くと、上級生の電動轆轤の前には、それぞれラジカセが並んでいて、これは蛇使いの訓練所でもあろうかと思えた。その背中は囲碁をしている祖父の背中を思わせた。

 菩提樹の傍らの陶工の日常が、死を前にした仏陀の冥想として聖なる充足を産むのであれば、私の自我は民芸論の轆轤の回転の中に埋没することもできたであろうが、どうにも私の胃の腑がゆるさなかったのである。私には仏陀という宗教上の天才が、そこに一人坐っているように見えた。

 私は制御のきかぬ自我をかかえたまま、何者になろうとしていたのか?時代精神は私の揺れ動いている感情とは無縁に、一切の権威を揺さぶっていて、文化的営為の根拠そのものが問われていたのである。仮に誰かが異を唱えて、単に文化的営為の表層だけが揺らいでいたに過ぎなかったのだと言うのであれば、それはそれで良い。私は私自身にそのように問い正したのだと言い換えても良いのである。実際、その後の文化的営為の権威主義と商業主義の復活を見れば、単に威勢のいい馬鹿騒ぎが終わり、今では何事もなかったと言っているかのようだ。

 六十年代から七十年代にかけて造形的出発をした者は、大阪万博の浮かれ景気と対称的な、社会変革をめざす学生運動の騒乱の中で考えることを強いられたのである。おそらく、真に出発することは、いかなる時代も困難を極めたことなのだ。脳天気な新しがりの造形主義者達のバイタリティーと、文化の根底からくつがえそうとする一群の革命主義者達の叫び声も、現在では共に無効な勢力となり終えている。今では、青年はことごとく冷え切った中で出発しなければならない。彼等もまた自らの根拠を揺さぶり問わねば、何も始まりはしないのである。この時代に安易に就くことの罪悪は見え難いが、いずれ露呈することになるに違いない。いつの時代も、時は美事にあぶり出す。

[方法の理路・素材との運動]
 私は二十代の殆どを、幾つかの技術的試みの他には、鉄を叩いて過した。しかも二十代の半ば過ぎまで林檎を造り続けていた。

 鉄床の上で、赤く熱した鉄を初めて金槌で叩いたとき、その柔らかい受容するような抵抗感に驚いた。重い金槌の一撃で鉄塊は変容する。虚弱体質だった二十代の私にとって、大きな重い金槌を振りおろす一日の労働は苦しかった。「この仕事に、私の肉体はふさわしくない。」そう思った。けれども、金槌を振りおろして鉄の変化する瞬間瞬間を見ることが、私の造形意志を刺激した。三年もの時をかけて林檎の変容を見続けて来た私にとって、金槌の一撃による瞬間の変化は、私の肉体的悦びでもあった。すさまじい金属音の中での、筋肉の緊張と弛緩の連続運動が、次第に私に健康をもたらした。鍛金の仕事はあきらかに生の充実と発露の方向に属するものだ。

 同じ鉄でも、薄い鉄板を叩くのであれば、比較的小さな金槌でも可能だ。その重さは私の筋力でも可能だった。熱い内に叩くのではない。一度赤く熱したのち急冷する、あるいは除冷する。それを焼鈍という。そして叩いては焼鈍を繰り返す。そのまま叩き続けていると、金属は疲労して亀裂が入って来る。熱い内に叩く鉄の感触とは異なって、冷えた鉄は渾身の力で振りおろした金槌を、はね上げる力を持つのである。その金属の抵抗は強い。私にはその抵抗が、自分の筋力に拮抗するような厚さの鉄板を選ぶことで、強大すぎる抵抗にくじけることもあるまいと思えた。実際、最初は工房の隅の切りくず捨場から拾って来た鉄の棒材や鉄板で、闇雲に形態としての林檎を造ったが、私の筋力でも叩き続けられなくはないと思えたのである。無機物の鉄が林檎の形態に近づく、その強引な作業のもたらす鉄の様態が私を動かした。林檎の変容を見続けた際の形態の変化とは別の経路と質を持ってはいるが、「形態の運動」の一点で結びついているだけの類同的な様子に、私はつき従がっていた。それは原初の人々が、造形的な行為に及んだ時、心躍らせた感覚を、時をへだてて共有しているのに違いなかった。形態はまだ不確かだったが、鉄の確かな手応えがそこにあった。

 金属でも別の素材の質を試そうとして、一度0.8ミリの厚さの真鍮板を試みた。真鍮は銅と錫の合金である。合金は焼鈍すると、膨張と収縮によって鉄以上にあばれて歪む。折角造って、わずかに林檎の形態になりかけているものが、動いて徒労になるという感触を味わわねばならないのであるが、私にとって、この膨張と収縮がもたらす金属の変化のエレメントが、後々まで造形の問題になって行くのである。当時は、そのことの厄介な面を押さえ込もうとして、四苦八苦しなければならないことに、いまいましさを覚えたものである。私は真鍮の仕上げに鏡面仕上げをしたが、素材の輝きにしばらく幻惑された後、造った林檎に穴をあけた。その表面の表面たることを、そして金属の膜状組織であることを明示するために、ドリルを持ち出して、折角の仕上がりを穴だらけにした。

 再び鉄板で林檎を造るとき、1.6ミリの厚さの鉄板を使った。私の腕力いっぱいだが、作り続けられそうだという感触に、私は浮き立った。直径17センチの円形に切った鉄板を焼鈍して、切り株に突き立てた当て金の上に当てて金槌で叩くのである。中心から周縁に向かって同心円状に打ち絞ることによって、皿状の曲面を造る。絞っては焼鈍を繰り返しながら、半球状の形態まで打ち絞る。同心円の替わりに、等高線状に突出部の形態を打ち絞ったり、裏から金槌で突き出すことによって、形の変化を打ち出すことができるのである。林檎を造る場合は、上下二枚の鉄の円板から半分ずつ打ち出し、酸素溶接をする。但し溶接した後の熱膨張による形態の歪みを修正するために、小さな当て金を内側に差し入れるだけの穴が必要である。そのために、一度成形した下部半球の内、もっとも熱によって歪みの生じにくい、曲率の高い部分に、糸ノコで切って当て金の入る穴をあける。その穴から当て金を差し入れ、溶接部を打ち直して成形した後、切り取った部分を溶接して穴を閉じ、ヤスリで削って成形しなおす。最後に当て金なしで金槌で叩いて表面を整える。

 鍛金の打物仕事は簡略に言えば、金属板を金槌で叩いて張り出したり、絞ることによって造形する、ようするに金属によるハリボテのようなものである。当時の私には、それは金属の膜状組織の表面の繕いに思えた。そのことに気付くと、鍛金に限らず美術そのものが表面の問題か、さもなければ観念の問題なのだと、私は気付いた。

 彫刻における塑造は、粘土の可塑性を利用した方法によるものである。心棒に粘土をからませ、粘土を足し引きしながら内部の充実感を求め、最終的な表面に達しようとする。塑造の方法は、作品を少し大きくするとなると、粘土の自立性が弱いために心棒が必要である。そのことが形態の構造的質を決定している。粘土による完成のまま保存することは難しいので、塑造の作者は粘土を別の材料に変換する工夫をしなければならない。伝統的方法としては、例えば石膏に取り、金属で鋳造する。いずれにしても、それは表面の保持の問題である。

 石を彫ること、木を削って形態を得るということは、あらかじめ目の前にある素材の物量から彫り刻んで、望む形態の表面に達そうとすることである。その時、あらかじめあった素材の物量、形態、質が最終的な形態に影響すると考えるか、あるいは、素材に束縛されずに形態を求めようとするかで、彫刻家の思考の在り処が見えるだろう。

 彫刻家は様々な方法で形態を求めるとしても、表現としての表面に拘泥していることに変わりはない。それは絵画にも敷衍することができる。最後の絵具のひとはけが絵画を決定する。美術というものが様々な方法によってはいても、素材とかかわって成立している限り、この事実によって立っている。概念芸術は、この素材によって成立している事実を捨てる在り方を一方で用意したと言っても良い。すなわち、美術を素材や色彩や形に寄らずにも成立させうるとしたら、いかに可能か?という問題を提出したのである。

 私の反時代的な林檎の制作は、民芸論と学生運動と、概念芸術の圧迫の間で、殆ど窒息状態を続けねばならなかったことは想像に難くなかろう。私にとって、日常的経験を踏み抜いた林檎を視ることの場処から、金属という素材に対する以外に、何の手がかりもなかったのである。方法は鍛金という偶然出会った古風な技術だけだった。それは私にとって、日本の因習的な夾雑物を持ち過ぎた技術であったが、苔やフジツボのようにこびりついたものを殺ぎ落とすことができれば、これほど原初的で、明確に物質に対する方法はないと思えるのだった。私はこの当時、彫刻に向おうとしているのか?あるいは工芸に向おうとしているのか?あるいは第三の方向に行こうとしているのか?明瞭に自覚していなかったのに違いない。鍛金の方法によって、何処に向かって出発することができることになるのかも定かではなかったが、宗教に寄らずに、何か「聖なる充足」を手にしたいと願っていたことは確かである。それは暫定的な言葉にからめた、私の感情の願望していた方位だったが、そういうものが芸術であるだろうと思っていた私には、時代の風景は目をそむけたくなるようなもので充満していた。私自身の内実もまたヘドロ状の生の欝屈で充満していた。

 次第に薄れて行った祖父の死の記憶と入れ替わるようにして、私は作品成立の根拠を求めていた。     (つづく)