ART&CRAFT forum

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造形論のために『造形的発端について③』 橋本真之

2016-11-07 14:17:27 | 橋本真之
◆橋本真之、初期林檎作品(1970年、鉄、銅)

2000年12月20日発行のART&CRAFT FORUM 19号に掲載した記事を改めて下記します。

連載1 造形論のために
『造形的発端について③』   橋本真之


 一個の存在には緊密な世界構造が成立している。それを読み取る力を観照力という。ここには科学も美術も文学もありはしない。ただひたすら観ることを廻って、それぞれの方法的世界が総動員されるのであって、一個の存在の前で、その人間の洞察する力が試みられるのである。そこでは、観照者の力に応じて、存在はその深度を顕わす。

 一本の林檎の木を上手に育てることよりも、一個の林檎を上手に描くことの方が、優れた仕事だと、誰が考え得ようか?あえて、そのように考えるためには、どこかで錯術が必要だ。それが文化というものである。このパスカルの「パンセ」(注)の変奏に過ぎない考えが、青年期の私をおびやかし続けた。「一個の林檎の隣りで、造形作品とは何ものであるか?」それが最初の問いの形であった。「そして、一個の林檎の成熟の前で、造形の方法論とは何であるのか?」私は考えあぐねてしまった。あたかも自分以前には「造形芸術」というものがなかったかのように、あるいは、それらがすでに破産した因習に過ぎぬことを実感して、私は自らのために固有の造形論をあみださねばならなかったのである。それは、いかなる時と場処からでも、それぞれの出発が可能でなければならないという自覚であり、もしも、自らの時と場処からの出発ができないのであれば、西欧の造形論理に荷担することも、自国の伝統に連なることも、共に自らの生をあざむくことであるというものであった。

 自分の播かれた場処に不平を言っても始まらぬ。この場処で今育たねば、いつまで過っても痩せた土地は痩せたままだ。顧みられない痩せた荒野であればこそ、この環境の栄養素を、徹底的に吸い上げて育って見せよう。おそらく、栄養不良の果実が実るには違いない。しかし、それが私の果実である他はないのである。前例などいらぬ。前例は自らが成れば良いと覚悟した。

 大学三年になって、私は鍛金を専攻した。殆ど偶然としか言いようのない、鍛金技術との出会いを、今あえて思い返えせば、何か理由が見つかりそうにも思えるが、青年期の混乱した思考の中で、私は行き暮れていた。私にはその選択に、生理的な理由以上に確たるものはなかったようだ。油絵具に吐き気を覚えるようになってしまった私の内臓が、硬質でさっぱりとした鉄のマテリアルを許容したと言うべきだろうか?それまで私は鍛金作品というものを見たことがなかったし、鍛金という技術は、私の視界の中に全く入ってなかった。大学二年次の始めに課された、実在実習のカリキュラムのひとつに、私がたまたま鍛金を選択したからであった。未知の鍛金を選択したのは、学生仲間の噂によれば、その実習の課題において、鍛金には自由制作があるという、単純な理由だった。それまでの愚劣な課題に辟易としていた私は、その自由制作に鉄で林檎を作ったきっかけで、その年の夏休み、鍛金の工房に行き、その課題がまだ終わっていないという理由にして制作を続けた。三井安蘇夫教授は、ひと夏工房で制作していた私を呼び止めて、「君は、何に成りたいのか?」と質問した。私はデザイナーよりも、作家になりたいと答えた。当時、東京芸大の工芸科には、デザイン志望の者と工芸志望の者とが工芸科の中に同居していたのである。私は入学当初には、グラフィツクデザイナーに成るつもりでいたのである。私は油絵描きになりたいとも答えたのだが、すでに迷っている状態だった。「そうか、それなら君は油絵描きになるのでも良いから、鍛金に来たらどうだ」と妙な論法で誘われたのである。その夏、私は四つの林檎を作った。三井教授はその作品については、一言も批評めいたことを言わずじまいだった。教官室をのぞくと、教授は制作中の作品にダガネを入れているところだった。言葉をかけることができずに私は通り抜けた。その時、私はこの教授の教室ならば、居心地良く制作ができるかも知れないと思ったのだが、将来、鍛金によって自らの仕事を見い出すことになるとは思いもしなかったし、期待もしていなかった。実際、実習のオリエンテーションに助教授が持って来て見せた、精巧なカニの置物や器物の類は、私には全く関心が持てない代物だった。鍛金は私にとって、金属を扱う古風な技術のひとつに過ぎなかった。しかも怖しく手間ひまのかかる、いつかは省られなくなってしまいそうな、秘儀めいた技術に思えた。こんなに不自由な技術から新たな何かが始まるとは、とうてい思えないのに、あえて鍛金を専攻したのは、金属を扱う技術が、私の身体にとって奇妙に心地良い感触を与えたからであろう。それは少年時の、祖父のガタピシした仕事場の片隅で、万力にはさんだ鉄片を削ったり、ベーゴマを削った、工作の感触につながっていたのかも知れない。それよりも何よりも、鍛金の仕事の肉体労働によって、私は健康になって来たのである。

 ひとは、いかなる理由によって、ひとつの方法に出会うのか?いくつもの偶然が重なり合い、仮にそのひとつの偶然が起こらなかったなら、出会いはしなかった程の、あえかな経緯をたどって、ひとつの方法に出会うのである。その偶然を重ねて、自らの必然とする選択の自由の後には、その方法の不自由を起点に思考が動き始める。素材の抵抗がエネルギーを呼んで、造形思考をうながすのである。思考の方位はある。ひとはそれをイマージュと呼ぶのであろうか?形跡もない方位だけが、自らをかり立てるのだが、それをイマージュと呼ぶには、あまりに闇雲な状態である。素材の抵抗を前にして、方法を持たずには為すべききっかけさえ持ち得なかっただろう。

 鳥や蜂や蟻が自らの生のままに巣作りを成しているようには、私達の技術は生理化していない。理知が様々な発明・発見をもたらしはしたが、生を充足させ得ない便宜が次々と欲望を誘い、疲れさせるばかりである。小動物達のささやかな充足の隣りで、人間の造る巣は竪穴式住居くらいまでが、その居住者の質にふさわしいのかも知れない。その上に、あえて造形行為を積むのを、文化的錯術と呼ばれても止むを得まい。人の自我の肥大した歴史を欲望史と呼ぶとしても、自我の健全なる消滅がついに不可能であるのならば、あえて自我の積極策に出ることを選ばざるを得まい。私は宗教に寄らず、その積極の極みに、生存の悦楽が倫理的次元を獲得し得ることを願望していた。造形行為における自我の勝利などというものはあるまい。一体何に勝利するのか?仮想の敵すらないところで勝利など有り得まい。一個の林檎の前で、私達は自らの次元を変革する他にないのである。確かに物はできる。物質の変容を為すところに造形の運動がある。そのことによって、空間の変質をせまるとしても、空間は物質の間にあって、あるいは物質と関わって、その様態を示すのである。仮に空間そのものに手を加えることが可能であるとすれば、そのことによって物質を変容させることも可能であるに違いない。空間そのものに手を加えることができないのであれば、私には物質そのもの私との間で起きる出来事を、ていねいに生きるより他にないと思えた。それが芸術的な営為であるかどうかは、いずれ後々の判断の問題であると、留保せざるを得なかったのである。

 延々と、私は林檎ばかりを作っていた。                 (つづく)

(注)『絵画とは、なんとむなしいものだろう。原物には感心しないのに、それに似ているといって感心されるとは。』(パスカル・「パンセ」断章134・前田陽一・由木康訳)

造形論のために『造形的発端について②』 橋本真之

2016-11-05 12:49:38 | 橋本真之
◆橋本真之「雪国の杉の下で」(銅)
 大地の芸術祭、越後妻有アートトリエンナーレ2000出品

◆橋本真之「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」(1978年~2000年制作)
知覚するかたち展 (福井県立美術館)  出品作品

◆橋本真之「雪国の杉の下で」 (銅)
大地の芸術祭、越後妻有アートトリエンナーレ2000出品

2000年9月20日発行のART&CRAFT FORUM 18号に掲載した記事を改めて下記します。

連載1 造形論のために
 『造形的発端について②』   橋本真之

 人は産まれ出た時から、世界を概念化することを学んで成長する。それは生きるために必要な、最低限の素養である。それがなければ、世界はまとまりを持たず、掴えどころのない危険な混沌のままであろう。存在世界の感触の不安は、おそらく、そのあたりに根を持っている。幼年期の認識の成長は、世界を概念化することによって混沌を忘れる方に向かう。4・5歳くらいまでの内に、身の回りの世界の概念的認識によって、手がかりを持つことになるが、母親の与える充足、あるいは安心と外世界の不安との裏腹な感覚は、共に手がかりを持たぬ世界へ追いやられることになる。それらの混沌に属する掴えどころのない事象は、容易には概念化を与えられなかったのであり、人が生きるために、最低限必要とは認められなかったのである。それらの事象を意識的に思い出すのは、すでに我々には困難に属することである。母親の乳房を口に含む感触や、背中に密着する感触、背負われている自分のあごに当たる肩の動きの感触と、脇腹に食い込む背負いひもの感触。そういう場処から世界を見ていた時、あたりは見分けのつかない不安に充ちていたが、やさしい充足した世界にも密着していたのである。

 ある時、突然、私は放り出された。家中が大騒ぎで、雨戸を立てきった薄暗い産屋はテンテコ舞いだった。二歳下の弟の誕生である。赤ん坊の泣き声を聞いた時、私は柱につかまって、ひとり取り残されていた。これが「孤独」というものの最初の自覚的経験だった。私には、その赤ん坊をのぞき込んだ記憶がない。私にとっては、その黒ずんだ角の磨耗した柱の感触が鮮明な記憶となっているが、「孤独」というひとつの言葉が、これ程の多量な事象をひとまとめにする呪文なのであると認識するのは、もっとずっと後のことである。「孤独」という言葉が抒情詩人たちによって手垢まみれになっているのであれば、私には、それらの事々を「黒ずんだ一本の柱」と概念化した方が、もっとふさわしい手垢まみれな物体であるような気がする。この一本の柱の記憶は、混沌の一部を石の塊のようにしてまとめる力があったのだが、他の私の家族にとっても、同じ力を発起し得たかどうかは定かではない。おそらく彼等には、素通りして記憶にさえも残っていないのではなかろうか?私にとって「柱にもたれる」とは、そのような事象をひとまとめにして引き連れて来るのだが、こうした存在が、それぞれの人々に固有にあるに違いない。我々は混沌に向けて光を当てて注視する時、その僅かばかりの変化によって、概念のすき間に確かな手応えを感じることになるのである。それらにも言葉の概念を与えるべきなのか?それとも、それらの特殊な手応えは、私達の概念に替わる存在として、足を踏み行く場処となるべきなのだろうか?造形的思考に向かう者にとって、これらは必ずしも言葉になる必要はないのだろう。ひとつの物体の感触として、記憶しやすいものがある場合は良いだろうが、もっと消えやすくて掴えどころが無いのに、確かに感覚可能なものが、私達の混沌には無数にある。そうした概念化の間に注意を向けることが、私達の生を丸ごと充足させるためには、必要なのである。けれども、概念化されていない事象は思い出すことが難しい。それらは不意に私達の存在を横切るようにして顕われ、再び注視をそれると見えなくなって行く。概念化し得た存在とは、そうした混沌たる事象の突出した部分なのである。

 日常の生活の中で信号機の色の変化を見ていながら、輝きや質についてのみ関心を持ったまま、その色の指示する意味に無頓着であるとすれば、人は野生動物のように、社会生活から抹殺されるだろう。人はそうした社会生活の意味するところに教育されて、世界を丸ごと認識する力を失って行くのである。「りんごは赤い」と思い込むのは、幼年期の概念的な教育の結果であったが、そうした「しるし」に過ぎない認識を口にした途端、自らを恥じる気持で怒りを覚えた五歳頃の記憶が、青年期になっても繰り返し立ち顕われて沸騰していた。

「外在的発端・林檎」
 18歳の時、自室で林檎を前にして油絵具で写生を始めたが、数日で仕上がるものと思っていた。マチェールの密度が満足の行くものになるためには、絵具を塗ったり削ったりの時間が必要だぐらいには考えてもいた。テーブルの上に四つばかりの林檎を寄せ集めた状態で観察していた。当時、私は絵画の密度というものを、マチェールの問題と取り違えていたと言うべきだろうか?美術大学の受験期を了えたばかりの私にとって、すでに充分確立した他者の表現の方法を学ぶことに飽き飽きしていた。自分に見えている目の前の存在の強度に匹敵し得る、絵具の層の視覚的な強度を求めるという心づもりだった。けれども、それは確かに写生のはずだった。私は毎夜、自室に帰って来ると、林檎を前にして観察しては、それに匹敵する色彩とマチェールの強度を求めていたのだったから。画面はいつまでも濁った油絵具のぐずぐずした状態で、ひと月もそんな状態が続いただろうか?目の前の林檎は、最初の堅い緊張した形態を失なって、内部に流動的なものを孕んだ状態になって来た。私の観察はそうした変化につき従っていたために、ひとつひとつの林檎を替えて最初から出発しなおすよりも、もう少しこのまま続けて行けば、何とか仕上げられるだろうという、もくろみだったのである。

 ゆるんだゴム風船のように、のびきった形態をして来た林檎は、やがて表面に小さな皺を寄せ始めて、日々その皺を深くして行った。乾燥が始まったのである。それまで部屋の中は林檎の芳香に充ちていたが、それが腐臭に変わり始めた頃、林檎の中から虫が這い始めた。小さな穴がいくつも開いて虫が出入りしている。それぞれの林檎は次第に収縮を始めて、接触していた林檎同志が少しずつ離れて行くのだった。毎夜、小さな画面にひと渡り絵具が乗ってしまうと、手のほどこしようが無くなった画面を前にしながら、林檎を見ていた。数枚のキャンバスを併行して手がけていたが、いつのまにか、私には絵をものにするというよりも、変化して行く林檎を見ていることの方が重要になっていて、筆を手にしたまま凝視する夜が続いた。

 皺は林檎の中心に向かって深く入り込んで峡谷となり、うねって行く。半年ばかり林檎を見続けていると、ある夜、凝視し続けた目の前の林檎がぐらりと動いた。私の安定した観察者としての視覚は瞬時にくずれて、私自身の視覚全体がうねるように流動する状態に極まった。ただごとではない事態に、私は動転した。安定を欠いた視覚の向こう側で動いた林檎を、私の意志の力で動かすことは出来ないのだが、視界の膜の流動は意志通りにもとの安定した状態に戻すことが出来ることを知ると、ついで再び流動状態に解放することも出来ることを確認した。驚天動地の状態で居ながら、自らの眼筋の操作ひとつで安定状態を掴むことが出来ることに安吐したが、私は日々深みにはまって行くのを覚えた。これが幻覚であるとすれば、私には薬物の必要はなかったし、当時、酒も煙草も必要なかった。ただ見続けることだけで視覚変動に見舞われたのだった。私は全く覚醒していた。筆を置いて眠ろうとしても、容易に眠りに入ることが出来なかった。醒え切った頭が疲れて、明け方ようやく眠りにつくのだった。

 ひからびた林檎の隣りに、いくども新たな林檎を置いて凝集に向かう変化を見続けた。その変化の途上の形態の動きが、私を釘づけにしたのである。そして私自身の視覚が安定した状態と流動する状態とを往き来することに慣れ親しんで来ると、安定した視覚というものが唯一絶対な感覚状態である訳ではなく、様々な習慣的状態のひとつに過ぎぬことを自覚しはじめたのである。私はへきえきとしていた林檎の腐臭にさえ慣れ親しんでいた。

 私自身の感覚を傷めつけること、そのことによって顕われて来る外世界の存在との、尋常ではない感応が起こっていることに、私は驚きおそれた。目の前にある視覚としての林檎は、私自身の感覚変化を反映して運動していた。疲れて階下の寝室で横になると、時として、望遠鏡を逆から覗いているように天井がひどく遠い距離に見えるのだった。あるいは又、別の夜のことだが、目を閉じると、自分の手や身体が象のように大きなものとして感じ、噛み合わせた歯が巨大な石臼のようなものとして感じるのである。私の意識は皮膚に包まれていながら、ひどく小さな存在になって行くように思えた。その様になって、私は眠りに入ることが芝々だった。私の外界と内界は揺れ動いていたが、私の精神、あるいは自我は強靭だった。けれども私の内臓が破綻した。芝々私は胃痙攣を起こして、七転八倒の思いをしなければならなかった。一度胃をやられると、一週間は満足に物が食べられないのだった。油絵具の臭いに吐き気を覚えた。私の生理的限界だった。

 これは物を見るということにおいて、自らの目で徹底して見るという経験であって、自分自身の生理的限界を実感する苦い経験でもあった。これらが、自分自身の意志と集中によって、20代の始め迄に起こった日常的な感覚世界を突き抜けた経験である。これらは外在的存在が、私の造形的発端となって内在的経験と化した地層である。ひとはそれぞれ平坦な経験を踏み抜いて、感覚世界の基底に足を触れることがあるに違いない。概念化した世界では、それさえも気付き得ずに素通りしているのかも知れぬ。世界を徹底して見ることは、この肉体に包まれた精神作用によって、図式を突き抜けて世界を認識する最初の造形的手がかりなのである。   (つづく)

造形論のために『造形的発端について①』橋本真之

2016-11-01 09:25:49 | 橋本真之
◆ 橋本真之「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」(内部、1975年制作開始、素材=銅、雨水)
 写真:高橋孝一
◆橋本真之「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」
(内部、1978年制作開始、素材=銅、雨水)
写真:高橋孝一

2000年5月20日発行のART&CRAFT FORUM 17号に掲載した記事を改めて下記します。

連載1 造形論のために
 『造形的発端について①』       橋本真之
 
 人はいかなる場処からでも、いかなる時からでも、造形的出発は可能である。但し、それはひとつの発端を掴み得れば、ということである。それは内在的な事象であるか、外在的な事象であるかを問わない。

 ひとつの発端とは、どの様にして起こり得るのか?おそらく偶然の出来事が切っ掛けなのだが、発端は自我の突出として現われるはずである。その吹き出物のような自我の突出が、確実に外在化する時、それは異物として世界に存在し始める。あるいは、いくつもの発端が起こり、いくつもの発端が消え去って行く。無数の発端が消え去ったのだということを、人は気付き得ないのかも知れない。ようやくにして生長し始めた発端が、消え去って行くこともある。ひとつの発端を生長させるということは、人間にとって意志的な工夫である。意志的な工夫なしには、世界の充満の前では潰えてしまうのだということを、造形的出発を試みる者は思い知るに違いない。我々は必ずしも世界に歓迎されて登場する訳ではない。それは世界の悪意の前で潰えてしまうのだ。あるいは、自らの脆弱が自らを腐らせる。外的に生ずるもの、内的に生ずるもの、いずれにしても、それは同じ腐敗に襲われる。しかし、執拗な工夫によってその腐敗こそ次なる発端を育てるエネルギーとすることも出来るに違いない。

 おそらく、発端は磨り潰されて、存在そのものの認知さえもされないのだ。様々な存在の関わりの外縁とも言うべき切っ掛けが、我々を日々刺激して止まぬのだが、少数の者達は、無数の偶然から自らの必然を選び取る。ひとたび自我が突出して選択する時、世界の全ては連鎖的に必然の様相を呈することになる。全ては用意されていたと思える程に、次々に明らかになって行く様は、論理的と形容したくなる程だろう。確かにひとつの筋道ができるのだが、それは言語的論理ではない。なぜなら、この筋道は飛躍を怖れないし、むしろ跳躍の準備のために、糸婁糸婁とした筋道を紡ぎ出すのである。それは、ひとりの自我が紡ぎ出す細々とした理路である。いくたりもの自我が同じ筋道を辿ろうとする時、縒り合わさって一見大きな筋道と見えるかも知れぬが、それでその筋道を普遍とすることは出来ない。造形の理路は細い幾筋もの道が無数に出来るのであって、ここでは多数決は何の役にも立たない。ただそれが磨滅した道であることを知るばかりであろう。磨滅した道は安心である。しかし、それは収穫の跡を行く、ひこばえを育てる道である。

 造形的出発はいかなる場処からでも可能であるが、自らの生の根拠を持たぬ限り、いずれ、その展開のエネルギーを失なうことになる。すなわち、造形のつまみ喰いをして歩く破目になる訳だ。こうした造形者達が無数に居る。彼等の仕事は、展開すればする程、その根拠が希薄になって行くのである。造形的出発には、約束された場処なぞ何処にもない。今居るこの場処から出発する他に、いかなる出発する場処もない。「人間の造形史」というものはあるに違いない。真の歴史を書くことが不可能であるのと同様に、誰も真の造形史を見ることも、書くことも出来はしないが、凄じい時を費やされた造形物の地層が、我々の足下に積まれている。ひとつひとつの物体が、造られては破壊されていった総量の、その細目を見ることは出来ぬとしても、この地球上の存在の総量を出ることはない。ひとはその末端に連なろうと覚悟する時、ひとつを付け加えようとする私は何者であるのか?と自問することになる。そして苦々しい思いで、私は何者であり得るのか?と自問することになる。造形的出発が真に創造行為であるためには、自らのための造形史・造形論を書く必要があるだろう。自らにまで連なる造形認識が必要なのだ。この充満する地上の造形史を、自らによって正当な屈折を起こさせる程に、強度を持ち得ないのであれば、造形は日常茶飯事に戻るべきである。それは積み重なった地層に埋没する道である。

 強度を持つためには、自然が実存を形成するように、人間も又凄じい忍耐を持って造形作用をする必要がある。通りいっぺんの忍耐なら誰でもする。ひとつの発端が生長するとは、人間的条件を超えて自然のごとく忍耐するということである。いかなる場処からでも、いかなる時からでも出発し得る造形的出発とは、そのような条件のもとに発芽する。

 発端Ⅰ 「落ちて来た雀」
 雑木林を歩いて行くと、雀達がいっせいに翔び立ったが、小枝を両足でしっかりと握ったままの雀が一羽、私の足もとに落ちて気を失った。おそらく、あわてて翔び立とうとした反動で、止まっていた枯枝が折れたのである。拾い上げた私の両手の中で、驚いたように息を吹き返したので、そのまま放してやると、雀は元気良く翔んで行ったが、その蠢く温もりと、瞬時の喪失は、私の感覚に異様に親密なものを残した。これは、たった一度だけの出来事だが、いくらぼんやりの私でも、二度と繰り返し得ないこの親密を待ち望む愚は犯さないだろう。しかし、かの親密の質について、折々に頭の隅で主張して来る、説明し難い感覚的隆起の内でも、意識の焦点のはっきりした出来事である。

 発端Ⅱ 「ころがっていた物体」
 学生時代のこと、私は物憂い午後の大学構内を散歩していた。敷地の隅に、かって鬱蒼と樹木におおわれていた名残りのような藪が少し残っていた。私はそうした小径を歩いていて、フットボール程の大きさの奇妙な物体が道にころがり落ちているのを見つけたのである。それは人口物かも知れないと思える程、かって見たことのない形態をしていた。強いて例えるならば、ジャガイモを大きくしたようだった。あるいはスポンジのようなものが焼けこげて、楕球状に丸まったのかも知れないと思えた。実際、ジャガイモ状の形態の表面が破れた内部は薄黄色で、フワフワした物質でできていた。靴の先でちょっと蹴って見ると、ほこりのようなものが舞い上がった。私はおそるおそる両手で取り上げた。それは軽くて枕のようだが、確かに人口物ではなかった。鍛金工房に持ち帰って、物識りの老教授に聞いてみたが、頭をひねるばかりだった。何がこうしたものを出現させたのか?その物体を机の上に置いて見ていると、再び教授がやって来て、科学博物館に持って行って、見てもらったらどうかとすすめた。おそらく教授は、その物体からきりもなく湧き出すほこり状のものに危惧をいだいたのに違いなかった。

 近くの国立科学博物館の裏手に回って、研究者達が居そうなあたりを、その物体をささげ持ってうろついていると、白衣を着た研究員に呼び止められた。早速わけを話して、これは何ですか?と質問した。その研究員は事もなげに「鬼フスベ」ト答えた。それはキノコの一種だった。ほこりのように舞い上がるのはキノコの胞子だった。大学はむかし薬草園だった場所だから、鬼フスベが生えていても不思議はないということだった。「博物館に置いて行きますか?」と聞かれたが、持ち帰って、工房の私の机の上に置いて観察していた。しかし、数日する内に、鬼フスベは誰れかに持ち去られた。その失われたことで、いつまでも違和感として、私の記憶を刺激し続けた物体だった。

 このふたつの出来事は対照的な経験として、今も私の内に楔のように打ち込まれている。ひとつは親密感の質について、ひとつは違和感の質についてを廻って、私をいつまでも考え込ませるのだったが、ある時、ふたつの事柄の対照性がどこに由来するのかに気付いたのである。それは両手にかかえたふたつの物体の感触の問題が出発だったが、いつの間にか、私を遠く迄導くことになった。雀の親密感は、確かに手の内で蠢く暖もりにあったが、瞬間に認識可能な存在としての、目の前に現われた生きものの感触の確かさにある。一方、鬼フスベの違和感はどこにあるのかと言えば、人口物めいた乾いた印象でありながら、概念化できないもどかしさと、自らの存在を脅かす奇妙さとして、つまり名前を知らされる以前の感覚を、私の心の内にいつまでも残溜させるのだった。その感触の記憶は明確である。

 永い間に、私の内でこのふたつの出来事の感覚質の混淆がなされて来て、「親密の距離」という奇妙な考えが産まれた。それは「違和の密接」という対になる考えを伴っているのだが、これは私の造形的思考にひとつの鍵をもたらしたのである。
 後に、私はこのふたつの出来事がひとつに重なっている場合を見た。

発端Ⅲ 「生きている物体」
 私の二十代に、公園の夜警のアルバイトをしていた短かい時期がある。公園内に幾つかの公衆トイレがあって、その裏にタイムレコーダーがある。警備員はそれを基点にして、15分ごとに交替で巡回するのである。交替の相棒に片腕の初老の男がいて、もと漁船に乗っていた。義手をはずして仮眠をとる準備の間の、男の物語りに聞いた。彼は錨に腕を巻き込まれて、左腕を失ったのだった。ひじの少し上から失われた腕を示して、「これから親指を動かす。」と言った。ピンク色の肉塊となった腕の一部が動いた。また彼は言った。「これから中指を動かす。」そして別の一部の肉塊が動いた。失われた前腕につながる組織は、彼にとっていまだに続いているように感じるのだつた。だから、不意の動作に、失われた手を差し出してしまうことがある、と語っていた。私はピンク色をした蠢く肉塊に手を触れた時、あたたかい「生きている物体」という、私を根底から動揺させる、純粋な衝撃を受けた。
 
 何故、腕の形態をしていない腕が、私に与える感覚は、かくも動揺を伴うのか?私には解った。これは鬼フスベが雀と一緒になっている存在なのだと解ったのである。手という概念はすでに与えられているのに、自らの内の「手」に一致せずに、別の複数の概知となった感覚によって理解せざるを得ないところに、私の動揺が起こるのである。
 私はここから造形的意味を引き出すことができる。――日常化された概念的視線には、何も見えない状態になる造形的存在、あるいは「概念化されてしまった感覚」を揺さぶるニュートラルな形態を引き出すこと。これは形態が力を持つために、最初に必要な造形的一撃なのである。しかる後に造形的秩序がやって来るのでなければならないだろう。
 造形思考というものが可能であるのは、こうした言葉の上の問題よりも、それが指し示す出来事や形態の質、空間の質、それらの様々な要素の質が、あたかも沼地における踏み石のように、具体的な手応えとして踏み行くことができるために他ならない。たまたまこれらの事柄が言葉にしやすい出来事であったがために、こうして記録され得るけれども、必ずしも全ての造形的問題が言語に置き換え易いとは限らない。このことに誤解があってはなるまい。
 例えばこうだ。昨日の仕事場の帰り際には、はっきりしていて、言葉にも出来ていたはずなのに、今朝、仕事場に入ると、その言葉が何を指し示していたのか、ぼやけて確信が持てないことが起こるのである。それだからと言って、造形的思考をあいまいなものとして付ける訳には行くまい。何故なら形はそこに厳然として在り、見失われた問題の基底となっていて、いずれ再び別の手がかりを持てば、出発する足場になることは出来るのだから。

 ひとは言語化が困難な感覚質の問題をめぐって、考えを持続するために、様々な手がかりを持って来た。造形美術も音楽も、そのひとつなのである。ひとの心を動かす感覚質の問題を、ひとつひとつ筋道をたどって訪ね行く内に、見慣れたものごとを新たな出来事として見るという驚嘆に出会ったり、あるいは、見知らぬ奇妙な場処に行きつくこともあるだろう。ひとくくりに造形の問題を語ることは出来はしない。訪ね行く造形家達の数だけ、問題は立ち得るのである。そうした造形的筋道同志が出会い、すれ違う時、全き感覚的理解が成立するのかも知れぬ。この通底する全理解なしに、造形が時を経て成立し続けることは難しい。ひとはこの全理解を求め得るならば、事の半ばは成就したと思えるに違いない。他者と通底し得ない造形物は、やがて消え去る他はないのであるから。
                                     (続く)