忘れ人の独り言

明治生まれの両親がさりげなく生きていた姿が今,私に語りかけてくる。

桜の思い出

2015-04-02 | 昔語り

ひさかたの 光のどけき 春の日に  静心(しづごころ)なく 花の散るらむ

                             紀友則(33番) 『古今集』春下・84

現代語訳 (こんなに日の光がのどかに射している春の日に、なぜ桜の花は 落ち着かなげに散っているのだろうか。)

 紀友則は古今集の撰者で、この歌は、古今集の中でも特に名歌といわれ百人一首や学校の教科書でも習った記憶がある。

歌のリズムばかりが頭に残っていたがネットでその現代語訳を改めて読むと桜の花がぱっと咲きぱっと散っていく様は何とも侘しげである。

桜にまつわる歌や言葉を思い出していた。

最初は花咲爺さんだったなぁ・・・

さくら さくら 弥生の空はみわたすかぎり・・・・のうた。

「おまえと俺とは同期のさくら咲いた花なら散るのは覚悟 みごと散りましょ国のため 」と歌われた軍歌

サクラ咲く (合格) サクラ散る(不合格)の通知

「この桜吹雪が目に入らぬか」と片肌脱ぐ遠山の金さん・・・(よく見たなぁ)

私にとってのサクラの情景で忘れられないものが三つある。

幼い日に父の職場の人たちと行った御室の花見。桜の木の下ですき焼きをして食べた。今は多分、禁止されているだろうが当時は大勢の人達が花の下で飲んだり食べたりして楽しんだ。

夫が亡くなっての数日後、幼い娘の誕生祝いを買いに手をつなぎ歩いて行った道すがら桜の花びらがひらひらと舞い散っていた。その情景がこの季節になると何故か蘇えってくる。

20数年前 友人に誘われて行った平安神宮の紅しだれコンサート。大勢の人達が来て夜桜と美しい楽曲にうっとりしていたが、何といっても池に映る桜がまるで桃源郷のような感じであった。

     

 


歩こう!歩こう~

2015-02-27 | 昔語り

往きはタクシー利用でも帰りまで利用するのはもったいない。といってもバスは1時間に1本。

今日は風があり少々寒いが歩いている間に温かくなってくるだろうと、テクテク歩き出した。

もう免許証を返すのだろうと思い、娘は昨日タクシー代まで届けてくれたというのにまだ車への未練が頭の隅に残っている。

(足が痛くて歩きにくくなったら車が役に立つのと違うやろうか?などなど・・・)

そんな思いを振り払い歩き出した。

「歩こう!歩こう!私は元気 歩くの大好きどんどん行こう・・・・」

うっ!足取り調子よく運ぶ~ この歌 ええやん 坂道 トンネル ~ 」

小学校の遠足といえば歩きばっかりで本当によく歩いたなぁ。。。

歩くのが、いやでいやでやっと学校にたどり着いた時には門の前で座り込んでいた。(当時、先天性股関節不全だったことを知らなかった)

同じ年の隣の家の博子ちゃんにじゃんけんして勝ったら負んぶして帰ろうといって誘いかけ、上手い具合に背負ってもらって帰った。

苦肉の策をない頭でめぐらしたのか、どうか。 じゃんけんで勝ったかどうかも思い出せないが、優しい博子ちゃんが見かねて負ぶってくれたのかもしれない。

そんなことなど思い出しながら歩くこと30分 急に霰が降ってきた。

もうすぐなのに・・・あられは雨に変わってきて止みそうにない気配。周りに家はなし 橋を渡ってやっとコンビニに飛び込んだ。

そこでビニール傘を買いついでにコンビニのおいしいとウワサされているコーヒーを飲んで一服。 

 

 

 


修学旅行の想いで

2014-10-06 | 昔語り

近所のKちゃんが修学旅行のお土産だと言って持ってきてくれた。高校に行かれてから随分長い間顔を合わせていなかったので誰だかわからないくらい娘さんらしくなっていたのでびっくりした。

小さかった頃はよく家に来て孫達と遊んだりしていたKちゃん。私もおばあさんになる筈やわ・・・と。

最近は高校の修学旅行も飛行機で北海道とかでこれにも驚いた。

私の高校の時、行きは確か船で九州に行った。中学の時は東京。そして小学校はお伊勢さんだったことを思い出し、つくづく時の流れを感じた。

小学校の修学旅行には保護者も一緒に来られたようで記念写真に写っている。

中学校の修学旅行では鎌倉の大仏さんの前で記念写真

皇居前で

国会議事堂前。 最近では東京への修学旅行と言えばディズニーランドと聞いたが皇居や議事堂前までまわるのかしら?

 西郷さんの銅像の前で

熊本の水前寺公園で記念写真。長崎や阿蘇も行きました。

この写真偶然亡夫と隣り合わせに座っている。この頃は別に付き合っても居なかったけれど・・・。後になって同じクラスからもう一組のカップルがでました。彼も彼女も高校時代同じ仲良しグループで交換日記を数人で回していました。

 

 


ほおずきの思い出

2014-08-11 | 昔語り

旅先のホテルに活けてあったほおずきに目をうばわれた。

その姿とともに遠い昔 母がほおずきの中の種をだして上手に音を立てて吹いて見せてくれたことを思い出した。

私も自分でやってみようと中の種が柔らかくなるまでぐちゅぐちゅとやさしく表面の皮を揉むのだが、なかなか上手くいかず、途中で何回も破れてしまった。

なんとか中の種を引っ張り出すことが出来ても、ほおずきを膨らませ上唇と下唇の間に挟みピーピーと音を出すことが出来なくて、よく練習したものだ。

今の子どもたちはそんな遊び知っているかなぁ~。

 


思い出の絵本「はけたよ はけたよ」ほか

2014-01-12 | 昔語り

本箱には昔 子どもたちに読んでやった絵本が何冊か残っている。仕事柄 随分沢山の絵本を買っていたが孫たちに読んだり、知人に貰ってもらったりしてお気に入りの本だけが残っている。

その中で特に忘れられない絵本はといえば「はけたよはけたよ」「ちいさいおうち」「いやいやえん」だ。

長女がこの本を気に入って2歳くらいの時、可愛い声で何度もそらんじて発していた言葉。

「たつくんはね ひとりでパンツがはけないんだよ。だってふらふらするんだもん。・・・」

「どでん!もういちどおきあがって、また どでん!なんべんやってもだめなんだ。」

誰もがよく知っているこの絵本。亡夫が幼い娘に買ってきたもの。四季ごとに変わり文明の発達とともに変わっていく小さいおうちの絵がとても美しいく心に残る。

娘への形見の絵本になろうとは40年前、亡夫は思いもしなかっただろうに。

保育園でもよく読んだし家でもよく読んでやった面白い本。

孫娘は小さかった頃これを読むと とても嫌がった。自分としげるちゃんが重なったのかなあ・・・。


新幹線の運転室へ

2013-06-26 | 昔語り

おもしろい話を思い出した。

もう50年近く前(正確に39年だと思う)保母の学校を卒業して就職するまでの春休みに今でいう卒業旅行を皆でした時のこと。

伊豆の勤務地に先に着任していた友人の所へ行こうと当時まだ開通したばかりの新幹線に乗り込んだ。

京都駅から乗ったのだがキャーキャー珍しいのかきっと騒がしくしていたのかもしれない。

どんな拍子になったのかもう忘れてしまったが新幹線の運転士さんと言葉を交わした。

「君たちどこへいくのかね? そうか君たちは京女だね!僕は東男」といったような事を話した。

歯切れのいい江戸っ子弁のその言葉にすっかり魅せられて・・・。

「君たち入っておいでよ」とか何とか言われてまあまあ新幹線の一番前の運転室に女子4人がいれてもらった。

今だったらとても考えられないことだろうけれど、これ、本当にあった話なのですよ!

運転士さんも開通したばかりできっと見せたかったのかな?

時速200キロの速さなのに何故かその当時は人間がゆっくり、ゆったりしていたのか懐かしく感じます。そしてとにかくあんな体験はめったに出来ない事でした。


「水飴」の思い出

2013-02-25 | 昔語り

友人のブログに水あめのことが書かれていた。

遠い昔 家にはまだテレビなどなく遊びは外でが主だったが週に1回くらい周ってくる紙芝居がとても楽しみだった。その折いくらかのお金で飴やおせんべいを買い紙芝居を見ていた。

割ばしに水あめを巻きつけくるくるこねていくと透明になってくる。必死でくちゅくちゅとこねていたのを思い出した。クラスの男の子で「水アメ」といってあだ名までつけていたあの男の子。勉強もよくできていたけれど水アメもよくがんばってこねたからかしら?などと思い 今は随分 いいおじいちゃんになっておられることだろうなどと思った。

 

そこで90歳の方にちょっとしたお祝も兼ねて送ろうと自分用にも一緒に注文した。

届いた水アメを割りばしでこねてみたが一向に透明にならない。

ちょっと昔のと違っていたのかなあ・・・。でもこの水アメは麦芽糖で出来ていて栄養もありお腹にもとても良いという。後味もとてもサラッとしていて美味しかった。

   菊水飴 H.P

 

 

 

 


お茄子とニシンの思い出

2012-07-05 | 昔語り

スーパーに珍しく身欠ニシンが売っていた。なすびも京都産のいい色したもの。

ニシンと炊こうと思い買ってきたが、家の者は誰も食べない。そもそもなすびが好きでないらしい。

昔 夏になればお茄子のどぼずけ(ヌカズケ)を母がよくしていた。毎日ヌカズケの樽の中をまぜていた。

きれいな紫色につかったお茄子の漬物は本当においしかった。

又、ニシンとお茄子もよく炊いていた。

父はニシンを焼いて甘辛くした醤油につけて食べていた。焼いてアツアツのニシンをジューンと醤油につけると味がしみ込んでなかなかおいしい。

私はお茄子の田楽が大好きで父親が入院していた時、付き添いで病院から帰ってくると決まってビールと茄の田楽を食べていた。

病院から疲れて帰っても、さっとできて口に合ったからだ。あまり食べすぎたせいかどかわからないが、腕にあせもが沢山出来た。

「ヤーレン・ソーラン・ソーラン・ソーラン・・・・」と鼻歌まじりでニシン料理二品出来上がり!


昭和の手作りの服

2012-02-16 | 昔語り

毎朝のテレビドラマ「カーネーション」を見ていると懐かしい昭和時代が思い出される。

昭和20年30年代の頃はまだ既成服も少なかったように思う。

大家さんの娘さんに母親が頼んであれこれと服を縫ってもらったことを思い出した。

小さい頃のサンドレス、フレアーが沢山入ったサマードレス、セーラーカラーの紺の服、水色の上下服、冬のオーバー等など  暮らしは決して楽ではなかった筈なのに母は一人っ子の私によく着せてくれた。

大家さんと父が懇意だったこともあるがお礼はどうしていたのだろう?

40年代の初めでもデパートでオーバーを作ってもらったりしたが、やはり今ほど既製服がなかったのかしら?と思う。

今はオーダーメードの服などとっても高価で着られないが・・・。

   手作りのサンドレスにお揃えのボレロを着て

 

 


寒い日の粕汁

2012-02-04 | 昔語り

昔 京都の西陣で暮らしていた小学生の頃は水道管が凍ったり、ツララが見られたが、そんな時 今のように石油ストーブもなく、ホーム炬燵もなかった。部屋には少し大きめの火鉢だけ。よく辛抱できていたなあと思うが、背中に真綿をあてたり、沢山着こんでいたのだろう。

(最近手あぶり火鉢を家で使ったが案外部屋全体がふわーと温まるのを知った。きっと昔も火鉢だけでも部屋が案外温まっていたのかもしれない)

寒い日の夕ご飯にはよく湯豆腐やカス汁が出た。子供の頃は粕汁がそんなに美味しいと思わなかったが、この頃は妙に懐かしく粕汁をよく作る。

それに水菜とイリガラ(クジラの脂身)の炊いたものもよく食べた。

最近はクジラのイリガラ(本当の呼び名はコロらしい。イリガラといっていたのは煎り揚げだったのかも??)

殆ど見なくなってしまったけれど、お正月に久し振りに売ってあるのを見たら、とても高い値段だったのでびっくりした。商業捕鯨が制限されるようになって生産品が減少し価格が大きく上がったという。

粕汁は大根、人参、おあげ、ぶりなどを入れて炊き、酒粕を溶いていれるのだが体が温まって本当においしい。

 

コロは鯨の皮脂肪を鯨油で揚げたもので長時間温度調整しながら油を抜きカラッと仕上げたものだと初めて知った。

 


龍のお話し三話

2012-01-03 | 昔語り

30年以上前になってしまったけれど保育園に勤めていたころ子供達に龍の絵本や紙芝居をよくした。

どの話も子どもたちはとても興味をもって聞いてくれた。なかでも「エルマーと16ぴきのりゅう」は毎日少しずつの読み聞かせで子どもたちはすっかり物語に入り込んで卒園時の記念製作でちぎり絵で大きな龍を皆で作ったりした。

定価680円になっている。1974年第15刷

「りゅうのめのなみだ」は、浜田廣介の文でいわさきちひろの絵。

人に嫌われにくしみを受けていた竜が子どもが語りかける屈託のないやさしい言葉によって固まった心がほぐれていき、世の中の子どものためになろうとするファンタジックな物語。

何かしらほっとするやさしさを感じる絵本だった。

国際アンデルセン賞優良賞受賞作品 松谷みよ子・文

この紙芝居を何度も何度も読みました。「おっかさーん」と湖にむかって叫ぶ龍の子太郎。龍になって北の湖に住むおっかさんをたずねて長く苦しい旅にでる龍の子太郎が龍になった母親に再会し、貧しい農民たちのために田畑に水をひくよう懇願し体当たりでその作業にあたるところは圧巻だったなあと思い出しました。

 

 


戦争の記憶

2011-08-16 | 昔語り

昨日は終戦記念日 戦争がこの国であったという記憶も人々の中から消えていくのではないかという、不安があります。戦争で多くの命が奪われたことをそしてその人たちの事を忘れないことが自分たちの生きる一番の意味に繋がっていくように思うのです。

結婚して数カ月で夫を戦地に送り、亡くされた沢山の婦人たち(今 テレビでもやっているそうですが)知り合いの88歳のご婦人も結婚してすぐに夫を戦地に見送られ、駅のホームで別れたのが最後だった。その時お腹の中に赤ちゃんが宿っていることもお互いに知らず、結局夫は子どもの存在すら知らないまま帰らぬ人になってしまわれたと話された。

「まるでドラマのようだね」と皆に言われるそうだけれど、戦争によってこうした悲しみのドラマが世界中に綴られたのだと思う。

婦人は「テレビでやっているとおりやけど、でも、あんなもんどころやなかったよ」と言われる。

私が小学生だった頃、近くに住む伯母さんが私を見るとよく言っておられたことを思い出した。

「あなたを見るとね、満州から引き揚げてくるとき、満州の地においてきた赤ん坊のことを思い出すんよ。生きていれば貴女と同じ年だから。」

 命からがらで逃げてくる途中で赤ん坊が亡くなりその地に埋めてきたと話されていた。

 


「わが母のうた」から

2011-06-12 | 昔語り

 裏に植わっているグミの木。昨年思いっきり短く切ってもらったせいか今年は実が沢山なっているのを発見した。今までは実がなっても鳥や虫に喰われてでこぼこだらけだったのが今年はどれもきれいだなあ・・・と考えていたらふと「あらぐさの実がうーれて土ふかく芽生える朝にーー」という歌を思い出していた。頭の中は次から次へと関連したことを繋げていく。グミの実がどうしてあらぐさの実に繋がるのか??。。面白い。

 

    

そこから「心にゃ夜はないいつも夜明けだ!心にゃ夜はないいつも夜明けだ!!」「がんばろう!突き上げる空にくろがねの男のこぶしがある。もえあがる女のこぶしがある。闘いはここから 闘いは今から」

昔 よく歌った歌が出てきた。あの頃はみんな若かったし元気もいっぱいあり、怖いもの知らずで動き回っていた。歌はいつもついて回って心をひとつにして仲間と歌うと一層元気がでた。

アコーディオンを弾くひまわり合唱団のTさんがすごい人に思えた。私もちょこっとだけその合唱団に通ったことがあったっけ。

   

( 数年前の高齢者大会で何十年振りかにお目にかかったTやん 年をとっておられてびっくりしたがアコーディオンの音は昔のまま! )          

高校で音楽部に少しの間所属していた私だが卒業した先輩に誘われて行って聴いた「地底のうた」に驚いた。「落盤だ!-」という大きな声とともに力強い歌声が始まった。それまでは普通一般的なコーラスしか知らなかっただけに強力な印象を受けた。これが「うたごえ」との出会いだったのだろう。

荒木 栄の歌はどこの集会にいってもよく歌われた。「沖縄を返せ」「この勝利ひびけとどろけ」「わが母のうた」「仲間のうた」「星よお前は」などで他の人の歌では「翼をください」「しあわせの歌」「世界をつなげ花の輪に」「友よ」「インターナショナル」「どこまでも幸せもとめて」「手のひらのうた」などをよく歌った。

「エルベ河」「仕事の歌」「泉のほとり」「カチューシャ」と続き「切手のないおくりもの」が私の歌声の最後の方になったからその後の歌はあまり知らない。

2年ほど前だったか京都であった日本の歌声祭典に初めて行って来たが迫力があり、元気を一杯もらえとてもよかった。

歌はやっぱり人々を結びつけ生きる勇気に繋がるのかもしれない。

          

 


グスコーブドリの伝記から

2011-05-20 | 昔語り

東北のことを思うとき、岩手県花巻の宮沢賢治の「雨ニモマケズ・・・」の詩が浮かんできて、何かしらもう一度しっかりとこの詩を詠んでみたくなった。

「もう一度読みたい宮沢賢治」という題の本が届いた。本の最後に書かれていた「雨ニモマケズ、風ニモマケズ、雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ・・・」を思わず声を出して読んでいた。

                                       

中に賢治の作品が沢山載っていたがその中の「グスコーブドリの伝記」という話は忘れられない作品で、30年も前 勤めていた保育園でこの「グスコーブドリの伝記」の紙芝居を何十回となく子供たちに読んで聞かせ、その度に感動したものだ。

今回 作品を読んでみたが、紙芝居にはない言葉の表現、主人公ブドリの感受性豊かな心の動きなどが表現されていてとてもよかった。

ついでだが保育園勤務時代にもうひとつ忘れられない紙芝居は「鳩のアルノー」だった。そして絵本といえば「かわいそうな象」

どれも胸をうつ作品で読むたびに涙がこぼれそうになるのを必死でこらえて読み聞かせていたのを思い出す。

今回の福島の原発に関連して新聞に「グスコーブドリの伝記」のことが取り上げられていて、今、注目を浴びているということがツイッターに出ていた。

自然現象の異常で、冷夏が続いた地域が作物やその他の被害に襲われそうになった時、火山を爆発させて空気中の温度を上げることで、皆を飢饉から救おうと考え、爆発のスイッチを押す最後の人になることを決意したブドリの物語だが、原発の作業現場で危険に身をさらしながら必死で頑張っておられる方々と重ね合わせてのことらしい。いずれも自己犠牲にたいする尊敬の想いからではないだろうか。