忘れ人の独り言

明治生まれの両親がさりげなく生きていた姿が今,私に語りかけてくる。

大津歴史博物館へ

2010-08-30 | 世の中のこと

大津歴史博物館へ「戦争と平和展」を見に1週間ほど前に行ってきました。昨年も孫達を連れて行ったのですが、今年は小学生向けに説明とお話もしていただけるということで再び行ってきました。

大津が軍隊の都市としての顔を持ち、市内各地に軍の関係施設があり、比叡山上にまで特攻基地が作られていたということを知り驚きました。幼い子供たちが描いた絵日記はもんぺと防空ずきんをかぶってきれいに描かれていましたが、説明によると戦時中はこのような綺麗な柄の服もなく子供たちが絵の中で空想して描いたものだと話されました。

又、軍需生産に必要な原材料が不足し、金属製品が政府により強制的に買い上げられていき、それはお寺の梵鐘、商店街のアーケード、民家の金属雨樋、鍋釜、食器、制服の金ボタンにまで及んだそうです。実際に当時の代用品として使われた食器や陶器のアイロン、ボタン、レコードの針、戸車など他にも多数展示され、実際に触らせてもらって当時の人たちが国家総動員法よって否応無く戦争に組み込まれていった様子がわかりました。

大津歴史博物館はすぐ横には三井寺があり、市役所もあって博物館からは琵琶湖が望めとても綺麗なところです。

写真の本は歴史博物館で買ったものですがとても詳しく写真入りで勉強になりました。

 

 

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母と朝顔・矢車草

2010-08-26 | 昔語り

いつもの年より早く(といってもいつもは遅くて慌てて撒く朝顔の種)葉っぱが出てきてつるが伸び花がやっと咲き始めた。

小さかった頃、京都の家の狭い庭に夏になると母が撒いた朝顔が沢山咲いていた。紫や水色、赤紫、白 しぼんだ朝顔の花を使ってよく色水あそびをした。又 咲き終わったあとの種とりも面白かった。

母と花との思い出は5月頃に咲く矢車草だった。紫色の矢車草がこれも小さい家の棚に毎年飾られていた。

母と花のことでなどで話をした記憶もないが、朝顔や矢車草を見ると思い出し、咲かせて見ようと思うのはやはり母が懐かしいからかもしれない。(残念ながら矢車草は背丈ばかり伸びて上手く咲かなかったが、もう一度挑戦してみようと思っている)

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昔の地蔵盆

2010-08-23 | 昔語り

私が小学生だった頃の地蔵盆はとても賑やかで楽しい3日間でした。

10時と3時のおやつの時間、いろいろな遊び、何よりも面白かったのは福引で何が当たるか、皆でワイワイいいながらやりました。

今から思えば終戦後まだそんなに経っていなかったので、景品も豪華なものではなかったと思いますが、それでも楽しい行事でした。

子供達は仮装行列をして、各組ごとに競いあったり(私の組は大人の人が手伝って顔を化粧し、黒い紙の陣羽織をきて忠臣蔵の仮装)、紙芝居をみんなで作って披露したりしました。

又 盆踊りはとても賑やかでどの町内も狭い通りに櫓をたてて、沢山の人が集まって「つきがでたでたつきがでた・・・」などの曲にあわせて大人も子どもも踊りました。

現在のようにそんなに娯楽もなく、テレビもなく、食べ物も豊富でなかったからか、皆が心ひとつで夏の行事を盛り上げることができたのかもしれませんね。

福引の時間 何が当たるかワクワクしながらの行列

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K・Yって

2010-08-21 | 日々の業

K.Yって言葉2~3年前に知りました。

「なに?それ」って聞くと「空気よめないってことや」。人と会話していてその場の空気が読めず自分勝手な発言をしたりすることらしい。「お母さんも大分その気があるから注意しなあかんよ」と娘に言われた。

確かにそうかもしれない。一人合点、思い込み、一言余分が年を重ねるごとにひどくなってきたかも・・・・おまけに認知症になりつつあるのかとそれも心配。

若い頃に自分はどうしてもう少し人の考えていることに気がつかないのかと思って数人の人に聞いてみたことがある。

友人曰く「私は姉妹が多く育ったから姉や兄の顔色を見たり、親の顔色をよく見て大きくなった」といわれた。またもう1人の方は「家に人が沢山こられて気を使わねばならない環境だったので苦労した」とも言われた。

それに引き替え自分は一人っ子として育ち、誰に遠慮することなく、思いのままに育てられた。性格もあっただろうけれど今思えば随分自分勝手でわがままな子だった。大人になってもやはりこの性格はまだまだ残っているらしい。もうあちらに近づいているというのに・・・・・。

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西陣の空襲

2010-08-15 | 昔語り

今日は終戦記念日。 65年前 私は1歳になっていたが戦争の記憶はない。

唯 母から私達が住んでいた家の近くに爆弾が落ちたという話を聞いたことがある。

母が私をおんぶして、コンロで火を使っていたとき、ものすごい爆音とともにおんぶしたまま体が浮いた。表の家の2階建ての大屋根に大きな石が落ちてきて大変だったと話していた。焼け跡を見に行った話しとか、何人かが亡くなったと聞かされた。ほんの数キロしか離れていなかったので、もし自分の方に落ちていたら、今の私はいなかったかもしれない。これが西陣の空襲だった

食べ物がなくて「コーリャン。コーリャン」と私がよく言っていたと聞いたが、コーリャンがどのような食べ物か覚えていない。

物心つく頃には毎月の天神さんの日(25日)に傷痍軍人の人が白い着物を着てアコーディオンを弾きながら、お参りする人たちに寄付を訴えておられた。足や手をなくされて皆の前に立っておられる姿が痛ましく、少ないお金を入れていたのを思い出す。

又、小学校の映画鑑賞では、戦争で兵隊さんが殴られたり、飢えに苦しんだりされる場面や、原爆の映画も上映され、階段に座ったまま被爆されて、その影が残っている場面などが強烈に印象に残っている。

小さかった私には殆ど戦後の苦しさといったような記憶がないが、実際に大変な思いをしながら生活されていた人たちが今どんどん亡くなっていかれ、戦争の記憶も遠くなっていって、平和が日常になっている。

日本で300万人の人たちが亡くなり、アジアでは1000万にとも言われる戦争の犠牲者の方達のことを、今、平和の中の日本に住むものとして決して忘れてはいけないことなのだろうと思う。

 出征前の父と私

父の弟さんはフィリピンに行って片方の足の膝に銃弾があたり、膝のおさらがとんでしまい足は曲がらず不自由されていた。

 

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お金より大切なもの

2010-08-13 | 生き方を学ぶ

孫が先日「おばあちゃんお金より大切なものって知ってるか?」と聞いてきました。「それは命やろ」と応えると「ウンそやけどもっと大切なものあるねん」「なに?」

「それはな 人や」と言いました。

今までお金より大事なものは命だと思っていた私はウーンと考えさせられました。

そうか  命があっても全くのひとりぼっちだったらどうかな?

人間は誰もいない部屋に1人で閉じ込めれれたらおかしくなると聞いたことがあるけれど、確かに1人ではなかなか生きられないだろうと思った。終戦を知らずに長い間ジャングルにおられた人の話は聞いたけれどジャングルをさまよいながら生き物達に出会い自然との語らいがあったから何とか1人でも生き延びられたのかもしれない。

こんなことを考えるとやっぱり人とのつながりが本当に大切に思えてくる。孫から大事なことを教わったことです。

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親子リズムのバーベキュー

2010-08-09 | 日々の業

7月の中旬頃に地域の新婦人が毎年やっている親子リズムと他の小組合同のバーベキューをしました。何年か前までは私も積極的にかかわり天神川の上手の川の傍でやっていたのですが、今年は近くのキャンプ場でするということで参加しました。

近くにこんなキャンプ場があったことを始めて知りました。

親子リズムの若いお母さんやお父さんも沢山参加され賑やかで楽しい集まりでした。産直のお肉やウィンナーそしておにぎり、地元の野菜などが焼かれ皆お腹一杯でした。子ども達がスイカ割をした後これもみんなでよばれました。

こうして地域のちょっと年のいった大人と若い人たちとのつながりが今とてもたいせつなのだなあと感じました。先日来新聞紙上に載っていた痛ましい事件のことも頭をよぎりました。

 

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広島被爆65年

2010-08-06 | 世の中のこと

今日 8月6日は広島被爆65年目の日です。三井寺の観音堂でもたれる原爆犠牲者慰霊・世界平和祈願法要に今年は久し振りに参加しようと思っていましたが、膝の具合がよくないのと他の事情もあり、参加できませんでした。

写真は5年前孫を連れて参加した時に新聞に掲載されたものです。

今朝は孫達とテレビの前で8時15分に手をあわせ黙祷しました。

考えただけでも恐ろしい原子爆弾の炸裂でその年だけで14万人の人たちが亡くなり、その後も生き残った方たちの苦しみはいかばかりかと思います。本当にこんなむごいことが人間にできるのだろうか。今更ながら人間の悪を感じます。

当時の軍部や政府が早期にポツダム宣言を受諾していればこのような惨いことが起こらずに済んだのだと知った時、心のそこから怒りがこみあげてきました。

 

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ちびっ子ゴルファー?

2010-08-02 | 写真

ゴルフの練習場には 大人たちに混じって結構 小学生くらいの子ども達が先生についてゴルフを教わっている。将来の宮里 藍さんを夢みているのか?どうか?

私は打ちっぱなしになったあの沢山のゴルフのボールどうして回収するのかなあなどといらぬ心配をして笑われてしまいました。

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四苦の意味

2010-08-01 | 生き方を学ぶ

3日前に気になっていた義姉のお見舞いに行ってきた。大手術をして3週間で帰ってこられた時は、お見舞いに持って行ったバイカルの抹茶プリンをたいそう気にいって食べてもらった。その後電話で話すばかりだったのだが、やっと行くことができた。

手術で腸の殆どをとってしまいお腹の調子がまだすっきりしないようだったが、夫が作っていかれたお昼ごはんを少しづつ食べておられた。

選挙のときには、2回ほどインタビューかなにかでテレビに映ったとかで、知人から「元気そうやなあ、安心したわ」と何人もの人から電話が入ったと話してくれた。

その日も訪ねてよいか先に電話で聞くと「丁度 よいときやわ。久し振りにスーパー銭湯に行こうと思っていたから一緒にどう?」と誘われたがゆっくり出来ない旨を伝えると、銭湯は時間を遅らすのでいらっしゃいと言われて出かけた。

四苦八苦の四苦の3番目の「病」を身に受けた時、人はどうそれにむきあうことが出来るのか?もう1人の癌を告げられて友人のこととあわせていろいろ考えさせられた。

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