新聞の広告欄で「夏目漱石から又吉直樹まで」という副題がつき「ねんてん先生の文学のある日々」というのを目にした。
えっ!夏目漱石から又吉の作品まで読めるの?まぁ あらすじでもわかれば面白いかも・・・と思い、、珍しくし駅前の書店で探すが、なかったので取り寄せてもらった。
「文学はつまみ食いすればよい。つまみ食いすると文学はとってもうまい。つまみ食いこそ文学の醍醐味だ」とねんてん先生は言っている。
「つまみ食いにはいつでもほんの少し悪の感覚が伴っている。文学は始めから終わりまでちゃんと読むべき、という見方、たとえばその見方に対して違反を犯すのがつまみ食いだ。
違反するから逆につまみ食いは快楽の度を強めもする。」と。
なるほど、そういう考え方もあるのかぁ・・・飽き性の私にはもってこい!の考えかたや
夏目漱石の文学が多く出てくるが、清少納言の枕草子や正岡子規ほか沢山の人たちの文学の一部分をねんてん流でとらえているところはなんとも面白い。
又「、正岡子規の「物干しのうしろにわくや雲の峰」という俳句とあと二つの「雲の峰」をあつかった句からは子規の時代「雲の峰」は積乱雲のことで夕立をもたらす雲だった。
不意の夕立からうまれる出会いや歌川広重の夕立の浮世絵などからロマンを感じさせたが、近年 積乱雲は集中豪雨をさす言葉になり、夕立という言葉がどこかにいってしまった。
柿の話では江戸時代嫁入りの時には実家から柿を持参し、その枝は嫁ぎ先の柿に接ぎ木された。嫁が生涯を終えたときその柿の枝が火葬の薪や骨を拾う箸にされたという。柿の木は一人の女性のシンボルともいえる木だった。」(内容概略)
柿の木にこの様な物語があることをはじめて知った。
他にも藤村の「小諸なる古城のほとり」から明治時代文学は今のように黙読するものではなく、皆 音読していたそうだ。
「我輩は猫である」「坊ちゃん」も音読すると楽しさが増す小説だと書かれていた。
さらっと読めたが中身は濃いし面白い。つまみ食いされた文学から全てを食べたく、いや読みたくなることも、おおいにあるだろうと思った。
ねんてん先生の話題の句「三月の甘納豆のうふふふふ」