田上、堂町の花畑。ポピー祭りが昨日終った後だけれど、まだ残っていました。遠くに見えるのは孫が通っている田上中学校
花畑の向こうは麦畑
知人が撮ったかえるの写真
知人の奥さんが、遠くに住むお父さんが病気になられ、看病をしに帰っておられます。
知人曰く「忙しい、忙しい 早く家に戻って夕ご飯の準備をしなくては」と。
奥さんが留守になり食べることから大変だと感じられた様子?
ちょっと奥さんの有り難さがわかったかな?
「でもね、いろいろ作ってみると、何か昔のおふくろの味になって・・・懐かしいよ」ともおっしゃった。
えらいね!頑張って作るなんて 近所の一人暮らしの方はやっぱり、出来合いもののお惣菜が多いみたい。
ご住職さんが毎月届けてくださる同朋新聞に心に響く文が載っていました。許可を得て一部抜粋し書きます。
人間とは、文字通り人と人との間を生きる間柄存在です。「人と世界」に関わる存在です。だから「人と世界」が悲しみと苦しみに溢れている時に、ひとり幸福であるとはいえません。
もし、私の人生は平穏無事で幸福だと考えるならば、それはただ「人と世界」の問題に対して「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿状態でいきてきたことの結果です。
イラクやアフガニスタンで自爆テロが起きていても、戦争のために沖縄に基地をつくり、人々の生活と命が奪われていても、格差社会の中で夢と希望を失った若者が自暴自棄になっていても、それらの問題は全て他人事だと考えるならば、私は平穏無事です。
しかし、私が人間として、他者とつながり、世界とつながっているかぎり、すべては他人事ではなく、私のことです。そういう問題だらけの人生を「わが人生」として、背負うところにしか、人間の歩みは始まらないのではないでしょうか。
その意味では、私の都合にあわない出来事に遭遇して、あたふたと驚き、たじろぐところから、あらためてわたしの閉鎖的かつ独断的な人生が問い直されるのでしょう。(中略)
親鸞聖人の信心とは人間の都合を仏に頼む心ではありません。阿弥陀如来の本願が私の上に現れた心です。だから、それは世界を閉ざす心ではなく世界を開く心です。
親鸞聖人はそのような信心の心の表現を「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」と願って生きることだといわれています。信心をいただくことと、世界の平和を生きることとは無関係ではないのです。(後略)
同朋新聞5月号 親鸞聖人の手紙から 同朋大学教授 尾畑文正氏の掲載文より抜粋
テレビも新聞も昨日から沖縄普天間基地の移設先が辺野古にすると明記した日米共同発表を行ったことについて大きく報道している。
鳩山首相が「国外、最低でも県外」と言ってきた約束を翻したことに沖縄の人たちはどんなにか失望され、怒りを覚えられたことか。
今、新聞やテレビも皆が沖縄のことや、日米安保条約について考えていかねばと報じています。
今年 安保条約が調印されて50年になるというのに いつまで抑止力、抑止力といって沖縄に負担をかけ続け、米軍に巨額のおもいやり予算を払っているのはおかしい。
50数年前 高校生だった私は友人達と大丸の屋上にいた。その時下で何か大きな声で叫んでいる声に気づき、上から見下ろすと大勢の人たちが通りを埋め尽くし行進しているのが目に入った。
「デモやったはる。社研部の人たちも、やはるかもしれへんなあ 見にいこか」と言って、急いで下に降り、行列を見ていると社研部の人が「入り、入り!」と言われ私達は何かわからないままその行列に加わった。
「アンポ 反対! アンポ 反対!」「岸内閣 打倒!」という声に
あわせていつの間にか友人達と手をつなぎ四条通を行進していた。大きな声でシュプレヒコールすることがとても楽しく、それも通りいっぱいになって手を広げ歩くことに心が騒いだのを思い出す。
後でこれがフランスデモと言うものだと知ったが、学校に戻って私達はなにも知らずに加わったデモの「安保」というものをもっと知らねばならないなあと話し合ったが・・・。
あれから50数年が経ったのですね。
今こそ沖縄のことを真剣に自分達のこととして考え、安保についても考える時がきたのだと思います。
先日の君のノート以外に古い日記が出てきた。
「斗う交換日記」「ひよこのおしゃべり」「KRPS」「中学時代の日記」「小学生の時の日記」「自由日記」「読後感想ノート」等など。
「君のノート」は先に書いたとおり高校生の時のグループ交換日記
「KRPS」は高校時代の4人仲良しグループでの交換日記。
K子・R子・P子・S子とノートで呼び合っていろいろ書いていた。甘い初恋の味というカルピスからKRPSと名づけてよく書いていた。
「ひよこのおしゃべり」は保専時代の同期生で回して書いた日記
「小学生の時の日記」丁寧な言葉で書いてあってびっくり。
「中学生の時の日記」はやはり友人関係で悩んでいた様子
高校時代にもう一つ手元にはないけれど仲のよかった友達と交換日記をしていたのを思い出した。
「斗う交換日記」は結婚前に旦那と意見交換で書いていたもの。なんだか勇ましい題がついているが、丁度ベトナム戦争があった時かもしれない。お互い活動がんばろうという意味もあったのか彼がつけたもの。
結婚後もお互いすれ違いが多くしっかりと交換ノートに書いている。
子供が保育園時代は子供とのやり取りで交換ノートを作った。
「自由日記」は少し上等のノートに何年間分も書いている。忙しくなったのか成長記録とか何か特別な時に書くだけで年2回くらいの記入で終わっている時もある。
思えば今のようにメールもなかったから、こうして自分の思いを書いてきたのだろう。そしてそれがお互いを理解しようとするひとつの手段でもあったのだと思う。
今の子供も携帯を持たない間は交換日記をつけているようだが・・
先日 テレビで都会からすずめが減っていると報じられていたが、家では昨年 知人がエサ台を作ってくださって庭に置いたらまあ来るわ来るわ!!
朝、新聞を取りに出るとチュンチュン、チュンチュンと近くの屋根や電線に並んで、「早くチョーダイ、朝ごはんまあだ?」といっているようだ。何だか せかされているようで急いで、エサを入れてやる。
すると、サーと降りてきて食べ始める。ところが部屋の中からガラス越しにみると、わかるのかすぐに逃げて近くの木に止まって様子をうかがっている。とても敏感なのか臆病なのか?わからない。
(以前 メジロやジュウシマツも来たがこんなにすぐに逃げたりしなかったように思う。)
面白いことに一羽のすずめはいつも他のすずめたちが逃げてもいっこうに構わずひとり食べている。食いしん坊雀ちゃんとなずけて見ている。
家にくる雀たちは最近 結構太ってきているように感じる。
都に雨の降るごとく わが心にも涙ふる
心のそこににじみいる この侘しさは何ならむ
高校時代に仲のよい友達同士で始めた「君のノート」と名づけた古びたノートが先日出てきました。そのノートのはじめに書かれたヴェルレーヌの詩がこれです。
皆でまわして思い思いに書き綴ったノート。懐かしいし、甘酸っぱい感じの青春の日記です。
そのノートに綴ったメンバーと昨年 何十年ぶりかで会いました。それぞれが 楽しいことや辛いことを経て、今は親の介護に追われていたりする同級生達でした。また男の人はこのパソコンでお目にかかり「わあー年とらはった!」と驚いたり、その名前を見つけたりで、 ノートに参加してはいなかったけれど、しばしば話題に載ったMさんなどは写真入りで活躍の様子が伝えられ、やっぱりパソコンのお陰かな、などと思ったりしました。
中学時代の恩師が入所されていたグループホームに電話してみた。京都から滋賀のホームに入所されたのが5年ほど前だったと思う。それから、何回か尋ね一緒に出かけたりしていたが、昨年、秋くらいから体調をくずされ今年に入り病院に入院されたと聞いていた。
心配していたが、昨日ホームに電話したら2月に亡くなったと聞いた。何となくいやな予感がして電話しそびれていたのだが・・・・もう一度病院にお見舞いに行けばよかったと悔やまれる。
それにしてもおまいりに行きたくても、住んでおられた京都の家は奥様もすでに亡くなられ、(先生はそれも知られなかったが)連絡不可能だし、子供さんの家もわからない。最近は個人情報でなかなか教えてもらえない。何ともやりきれない気持ちになった。
50年以上前になるのだが、スマートでハンサム女子の憧れの先生だった。ちょっと型破りな所もあり国語の授業も面白かった。
そんな先生がある日真剣な顔で生徒達に言われた「これから大切な???の為に出かけるので君達はしっかり自習しておいて欲しい。ひょっとしたらコレになるかもしれない」と言って手を合わせられた。私達はその言葉と仕草にびっくりした。その仕草は警察に連れて行かれることを意味していたからだ。
先生達はその頃、勤務評定の闘いをしておられたのだと後になってわかったのだが、職員室には勤評反対のステッカーが沢山貼られていた事を思い出した。
あの当時の先生方は生徒の私達から見ても、とても生き生きされていたように思う。社会の先生は社会の時間に社会主義について語られ、音楽の先生は君が代の歌の意味をはっきりと教えてくださった。又、遠足に行った時にちょっと先生に甘えてしんどいなあと数人で何度も言ったら内緒で喫茶店に連れてもらってジュースをご馳走してもらっりと、今では考えられないような自由さのようなものが漂っていた。数学の先生も、英語のおばあちゃん先生も優しくて解りやすく教えてもらえた。
先生が結婚されると聞いて、生徒の私達はお相手の女性の顔をみようといって教えてもらったタバコやさんを探しにいったり、卒業してからも皆で家に遊びに行ったりした。
先生 沢山の大事なことを思春期の私達に教えていただき本当に有難うございました。きっと又お浄土でお会いしましょう。
カバクチュランNPT会議議長に、署名を手渡す米山新婦人事務局長
5月20日付け新婦人新聞にアメリカ・ニューヨークで5月3日から始まった核不拡散条約(NPT)再検討会議に日本から1800人の代表団(うち被爆者100人)が国際共同行動に参加し、「核兵器のない世界を」の国際署名が日本から690万1037人分持ちこまれたと報じられていた。
私もスーパー前や高校の卒業式にあわせて校門前で、そして石山寺の牛王さんの日に門前で新婦人の仲間とこの署名行動に参加した。あの署名も届けられたんだと思うとちょっと嬉しい気分になった。
世界中にそれもアメリカやロシア、主要な国々が今、核を持ちその核が使われたとしたら地球を何回も壊滅できる数を持っていると聞く。
そして、これまでに数回この核を発射する為にその手が動きかけたと聞き、又、終末時計という言葉すらあると聞いた。
私達のこの日常生活がいつどんな形で破滅に向うかもしれないという恐怖をふっと夜、寝ていて感じる時がある。それが天災か人災かわからないが人災ならば絶対にあってはならないことだ。
今回、被爆国 日本の署名や運動の広がりが世界をうごかしているという記事に、一人では出来ないこともやっぱり少しでも少しずつ前進の道につながっていると感じるようになった。新婦人は若いころから入っていたが、もう「新しくないし古い旧婦人やし・・やめるわ」と言っていたけれどそうもいかなくなってきた。
口蹄疫被害のことが大きく報じられている。宮崎の畜産農家の方達の嘆き、怒りは・・と思うと何とも言いようがない。
「生れたばかりの元気な子牛まで殺処分・・・」「40数年続けてきた事業が一瞬でなくなる情けなさ・・」政府の後手後手の対応が被害を拡がらせたと言われている。
いずれは人間が生きる為に食される運命にある牛や豚たちも感染を防ぐ為とは言え、その生を全うすることなく殺されなければならないということを考える時、人間の身勝手、愚かさのようなものを自分も含めて思い知らされてくる。
日曜日に年金者組合のSさん宅で行われた山野草オークションにみんなで参加した。山野草愛好会の方達が、持ってこられた野草を前に出して、はじめられたが、知らない野草が多かったにもかかわらずとても可愛かったり、美しかったりで見ほれてしまい、時間の経つのも忘れるくらいだった。
それにセリが始まると慣れた人たちが値を次々と吊り上げて行き、そのやり取りも面白かった。
花屋さんに売っている花とちがって、自然の中に咲いている花達がこんな風に人目にたって、愛でられるという形もあるのだなと思った。
又、和の春蘭などは高い値段でセリがなされていたが、ここでは市価の半値または三分の一ということだった。
昨夜 知人から電話で「西の空見て。月と金星がきれいだよ。金星がもう少し月に近づいたら、どこかの国の国旗に似てくるかもね。」と連絡が入り、外に出ると本当にとってもくっきり三日月と金星が輝いていた。私のデジカメではやっぱり駄目でその知人が早速送ってきてくれたのを掲載。
丁度、仕事をしていた娘にも友人から電話で月を撮っておいてと連絡がはいった。
きっと沢山の人たちが、空を見上げて写真を撮ったり、いろいろなことに思いを馳せていただろうなと思うと、とても大切なことがそこにあるように感じた。
麦の家に一緒に参加した方から写真を頂きました。
御田植え祭の儀式
近江神宮の神主さんによる御田の四方を清める儀式
小さい子供さん達もお手伝い
遠く琵琶湖がみえる
植え付けも終わりに近づいてこいのぼりもなんだか嬉しそう。
珍しくなってきている日本たんぽぽを田のあぜで発見
昨日は坂本にある「麦の家」という所の御田植え祭に参加させてもらいました。穀物の豊かな実りを祈願する神聖な行事ですが、私は田植えにこのような行事があることも知りませんでした。近江神宮の神主さんが玉串を奉奠され皆で祭礼して田の四隅を清められるのですがなんと田植えがこのように昔から厳かに始められていたことに感動しました。
友人が昨年貸してくださった「終わりより始まる」百姓菩薩の九十年という本を読んで、この本の主人公の松井浄蓮さんと言う人がこの麦の家を作られた方だと知りました。
この本を読み大変な衝撃を受けた私でした。このような人が存在されたということ、そしてこの生き方こそが人間が本来あるべき姿で今まで私が学んできたこと、やってきたことがガラガラ根底から崩れていくような気持ちさえ抱いたくらいでした。
御田植え祭に参加された方は大学の学長を退官された方、お医者さん、環境学の教授、元新聞記者や放送関係、住職さん、学校の先生、科学技術者、世界各国をまわっておられる方、その他テレビに出られた浄蓮さんの娘婿の山崎 隆さんの人柄にふれ大フアンになったと言って広島から来られたご夫婦、富山や大阪、奈良からと沢山の人達が此処に魅せられて集われました。なんとも言えない穏やかで暖かい雰囲気は浄蓮さんを慕ってこられた多くの方たちの思いがずーっと引き継がれこの場に波動となって現れて残っているような気さえしました。
松井 浄蓮さんは明治32年広島で生まれ、東京で学ばれたあと京都の一灯園に長く居られて活動され、終戦後、滋賀の坂本の地に開墾しながら自給自足の生活者として生きられました。生命を大切にする生き方と農の営みを実践され、その考えに多くの方たちが共鳴され集い、学ばれたそうです。その中でも陶芸家の河合寛治郎さんとの交流は深かったということです。