忘れ人の独り言

明治生まれの両親がさりげなく生きていた姿が今,私に語りかけてくる。

東海道新幹線、60周年の節目を迎えた

2024-10-12 | 昔語り

1964年10月1日に、日本初の新幹線となる東海道新幹線が東京~新大阪駅間で開業。 2024年10月1日には、60周年の節目を迎えたと報じていた。

新幹線開通した当時の記事を書いたはずだと思い、削除したもうひとつのブログをワードに残していたので、それを年月毎にくって探してみたが出てこない。

おかしいなぁ 確か私の記憶では書いた覚えがあるがやはり思い違い?

ところが新幹線と検索したらなんと!私のブログが出てきた

新幹線の運転室へ - 忘れ人の独り言

新幹線の運転室へ - 忘れ人の独り言

おもしろい話を思い出した。もう50年近く前(正確に39年だと思う)保母の学校を卒業して就職するまでの春休みに今でいう卒業旅行を皆でした時のこと。伊豆の勤務地に先...

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10年前に書いた記事なので50年前としているが、それから10年経ったからまさに60年前になった。

 


雨の日も雪の日も安心して子供を乗せられると思うと免許を取り本当に良かったと思った。

2022-12-21 | 昔語り

義姉の娘が転勤になり自宅から遠い処の保育園に移動になったと聞いた。その名前の保育園を聞いて驚いた。もう40年以上前に初めてできたその保育園に私も勤務していたからだ。あの保育園も随分古くなったのだなぁ・・・

それにもまして記憶に残って居ることは、次女が生まれて43日目で亡くなった夫のことだ。唯々、虚ろな空間で過ごしていた時期だった。引っ越して通園するのが遠くなっていた長女の保育園の園長先生が「今度、新しい保育園が出来るので行ってみないか」と声をかけてくださった。

少し遠いがこれからは一人で頑張って行かねばと思い、その保育園に行くことに決めた。

毎朝、自転車の前に次女、後ろに3歳の長女を乗せて賀茂川にかかる御園橋を渡り通勤した。

雪の吹雪く中を自転車を走らせたこともあったが、その当時は必至だったのだろう。

さすがに雪の日などの事を考えるとこのままでは子供がかわいそうと思い、運動音痴の私だったが前園長からの勧めもあり自動車の免許をとることにした。

幸い近くに自動車教習所があり親切な指導の元、何回目かの路上試験にも受かり、学科試験にも通って免許証をもらえた。

従弟の助言で車も購入、その当時は反クラッチ?でギアーチェンジをしなければならず、橋の所の坂道発進には苦労した。やっと車にも慣れこれで雨の日も雪の日も安心して子供を乗せられると思うと免許を取り本当に良かったと思った。

それから40年間 私の運転する車はあちこちを走った。いつも誰かに守られているように。

 

 

 


薄毛の話から母の日本髪の話へ

2022-12-15 | 昔語り

娘にラインで最近髪の毛が薄くなってきたわ!元から少ない毛がよけい抜けてなぁ・・・と画像付きで送った。

すると返事が返ってきた。「おキミさん(祖母)カツラの小さいのつけたはったなぁ・・思い出したわ」「クリスマスプレゼント カツラにしようか?」

「今のところ大丈夫そうや、この間から加美の素しっかり塗ってマッサージしているから気のせいか少し増えてきたみたい」と単純な私はそう返した。そして

「お婆ちゃん(私の母)は若い時、日本髪を結うたはったから、頭頂部が禿げてしもうたんか大きな禿げがあったなぁ。それで、あれは (かもじ・髪文字)と言うのをつけたはったんやわ。まぁ小さいカツラかも?」

母は祇園町で生まれ育ったので年頃になってからずっと日本髪で過ごしたのだろう。寝るときは高枕の下に糠を敷きそれで寝る練習をさされたと言っていた。油で固めた日本髪で寝る。高枕ははずせば糠だらの髪になる。そんな話を聞いたことを思い出していた。

 

     高枕      ようこんな枕で寝られたんやなぁ!

 18歳?くらいの時の日本髪の母

田中絹代に似ていると言われたそうだ。


母を思い出した「はったいの粉」

2022-06-11 | 昔語り

先月 久しぶりに百貨店に行った。百貨店の食品売り場にはスーパーでは見られない珍しい食品が沢山並んでいる。

外国から輸入したらしいお菓子や飲み物に交じって目に飛び込んできたのは「はったいの粉」だった。

小さかった頃、このはったいの粉をお椀に入れほんの少し砂糖をいれお湯で練って食べたが、私はこの食べ物があまり好きではなかった。

戦後まもなくできっと食べるものも今のように豊富でなかったからだが、病弱だった私に母は重湯やはったいの粉をよく作って食べさせてくれた記憶がよみがえってきた。

懐かしくて買って帰った。同じようにして食べてみたら随分変わっているように感じた。粉の色も昔は黒っぽくてざらざらした感じだったが、買ったのは真っ白ではないが少し白っぽかったし味も滑らかなように感じた。

それでも母を思い出しながら口の中で味わった。

 


懐かしい歌にであった!「どこまでも幸せ求めて」

2022-05-03 | 昔語り

よく見ている方のブログに忠やんの動画が載っていた。youtubeを開くと沢山出てきてその中に「どこまでも幸せ求めて」があった。懐かしい‼  思わず一緒に歌っていた。

忠やんと親しそうに言っているが京都にいるとき、ほんの一時「ひまわり合唱団」に入って練習していた。山本忠生さんはアコーディオンの奏者 親しい人柄で知られていた。滋賀に移ってからも高齢者大会のために歌の指導に来ていただいたことがある。その時若いころのイメージが変わり随分歳をとらはったなぁ!と思った。(自分の事はさておき)

「どこまでも幸せ求めて」の歌は50年以上前、地域の合唱サークルでもよく歌ったし、何よりも私の結婚式でも歌った。

懐かしい歌に出会えて昔を思い出しながら少し涙もでたが口ずさんでいた。

 

 

 


身近な人たちから元気を!

2020-08-26 | 昔語り

新聞の投稿に80歳位の方が出されていた文章を読み,感心した。何にでも挑戦されていて外国にもどんどん出かけておられるという。すごいなぁ!私にはこんな元気がないわ・・・と思った。

ところが数日して友人たちの電話に「うーん私も何かしてみようか?」という気になった。

一人は障碍者の方たちと一緒に手作りの作品を売ったりしながらカフェもしておられるMさん。もう80歳近いが古典を学ぼうかと思っているし、先生も見つかったから貴女も来ないか?と言われた。先ずは清少納言の枕草紙からや!と。

もう一人は福祉施設の理事長をされ頑張っておられる70歳前半のSさん。毎年家族でお参りするお盆のお墓参りも今年は集まることなく一人でバイクに乗って遠く大阪から京都まで来たと話されびっくり!

えっ!バイクで

そうや45分くらいで来られたよと言われた。昔からバイクが好きで中型免許も40歳近くになって取りに行き指導員が変な顔してね・・・と。

これを聞いてうーんすごい!この元気もらおうっと!

そしてご近所の80過ぎのNさん。野菜つくりに没頭。先日も暑い中 熱中症対策もして畑に行かれ時々小屋に入りさわやかな風にあたりながら作業をしてきたと生き生きと話されていた。

このように身近な人たちが頑張っている姿を見聞きすると、体のあちこちが痛いなどと言い意欲が減少しつつあったが、やっぱり行動や無理せんとやろうと思ったことです。

 

 


「まつりぐけ」から思い出すこと

2019-11-11 | 昔語り

窓に結露がつくようになり朝、晩随分寒くなってきた。

2年ほど前から体重は変わらないのにお腹周りが一段と太ってきた。

Mサイズのズボンではお腹が苦しく先日、Lサイズのズボンを買った。ゆったりとして丁度よかったのだが、丈がずいぶん長く、家に帰ってから裾を短くした。

背の低い私はズボンを買っても、いつも裾をあげなければならない。

長さを見て、丁度よい長さにしてチクチクとまつりぐけをしていく。

これまでも何度このまつりぐけをしてきたことだろうか?針箱をだせば 大概、まつりぐけをすることが多かった。

ミシンも一時は使っていたが手で縫うほうが何故か気に入っていた。

針と糸をもったのは小学校高学年だった・・・

学校には作法室というのがあり、そこに集まり、初めて運針用の布を前にいろいろな縫い方を教わった。

そして次は白いキャラコの布でズロースの縫い方を教えてもらった。

キャラコ?ズロース! 今の若者たちが聞いたらそれ何?っていうかもしれない。

本来やわらかいキャラコの布だそうだが、糊ずけされたキャラコを袋縫いするのに苦労したことを思いだす。

昔、父が柱にもたれて何かつくろい縫いものをしていたこともあった。とても珍しい光景だった。

今、思えばきっと軍隊でしていたからではないかなどと思う。

針と糸からいろいろなことを思い出していた。

 

 


夏になるとやっぱり母が漬けていた茄子のお漬物

2019-08-10 | 昔語り

夏になるとやっぱり母が漬けていた茄子のお漬物を思い出す。

以前にもブログに書いていたが、紫色に光った茄子とあの味は忘れない。

今年も冷蔵庫で保管できるぬか漬けの素を買って漬けてみた。

まぁ・・その美味しいこと!

毎朝のパン食をお茶漬けにした。

漬かったおナスときゅうり、薄く切った大根、人参 鮭のほぐしたの、友人が持って来てくれた塩昆布、入り卵、など等

暑い朝、口当たりもよくとても美味しかった!

録画していた映画「お茶漬けの味」で、佐分利 信と木暮美千代が夫婦でお茶漬けを美味しそうに食べている場面を思い出していた。


少し終活が進んだ気分

2019-07-23 | 昔語り

昨日は蒸し暑く医者に行くのも億劫になり以前から気になっていた納戸に置いてある古いタンスの引き出しの整理をした。

どんどん詰め込みぐちゃぐちゃになった引き出しの中。 

亡夫や亡父の書類、写真、その他 家、購入時の書類など等 見るともうとっくに時効のものが沢山出てきた。

捨てるごみが袋一杯になった。その中には随分古い新聞や雑誌の投稿文、ニュースなどがあった。いづれも捨てがたいのでパソコンに取り込み処分することにした。

少し終活が進んだ気分だ。

いろいろな理由からこの様な思い出の品々が手元から離れていった人々のことを想った。

昭和45年11月の新聞記事

20年前 ミニコミ誌に投稿した娘の文

16年前後援会ニュースに載った孫


「知らん そんなこと 覚えてません!」

2019-07-13 | 昔語り

「言ったやろう!」

「ううん !聞いてません!」

「言ったやんか」

「知らん そんなこと 覚えてません!」

親子の間でも友達の間でも他にも沢山出てくるこの言葉のやり取り。

私は遠い昔からどうも忘れんぼだったようです。ですからこのブログのタイトルも「忘れ人のひとりごと」にしたのと違うの?と言われそうですが、・・・

ところが、最近になって上記のような言葉のやり取りを職場でもよくしたようだと思い出したのです。

思い起こせばどうも自分の頭の中では話したつもりになっていたことや聞いたことが全く相手には伝わっていず、相手の人を不愉快な思いに何度かさせてしまっていたようです。

人の話を自分中心に考えて置き換え理解することもよくありました。

何とも情けない恥ずかしい話です。それも今頃気がつくなんて・・・

随分遅い気付きですが、

さて どこかのお偉方は「記憶にございません」と言い、終いには隠したり、嘘でごまかしたりして知らん顔。

 

 


20年前、娘が投稿し掲載された「女性のひろば」という雑誌から

2019-03-15 | 昔語り

本箱の本の数も随分少なくなってきた。ここ数年かかってもう読まないだろうと思われる本を処分してきた。

残っているのはどうしても残しておきたい本だが、自分がいなくなったら果たして子供たちはこの本をどうするだろうか?もしかして読んでくれるかも・・という気持ちから残している本もまだ少なからずある。

絵本はひょっとして間にあうかもしれないなぁ などと思ったりしている。

残った本の中に数冊の雑誌があった。みると20数年前 娘が雑誌に投稿したのが載っているものだった。

雑誌の端が茶色に変色している。

読み直すと遠い昔が思い出される。その当時は特に何度となく夫が生きていてくれたらと思ったものだ。

この文を書いた娘ももう50歳手前になった。

年輪を重ねてきた顔をみると、何故か いとおしさが込み上げてくる。(あーあー私も随分生きてきたものだーーーー)

 


30年前の新聞から「共にあること」

2018-01-16 | 昔語り

30年以上前の新聞が出てきた。

「過ぎ去った出来事にこだわらないように精進します」という祈りとともに沢山の思い出がつまった昔の出来事が蘇ってくる。

忘れることと忘れてはならないことを見極めることが問われているようだ。

この子ども達は今、・・・・。

http://www2.hannan-u.ac.jp/lib/material/recommended/recommend_1107.html ←森 有正の軌跡-- 生きることと考えることーー


「太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔」のニュース

2017-08-17 | 昔語り

終戦記念日を知っている人が少なくなってきたと言われている。

戦争を知らない人たちが多くなってきたのも関係しているだろう。

そういう私も15日の正午頃は汗をかきながら必死で娘の家へと向かっていてすっかりその時を忘れたいたが、家にいればいつもテレビの前で黙とうしていただろう。

夕方のテレビで兵庫県にある太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔」の話をしていた。この慰霊塔の存在が年々薄れていくことに危機感を感じた一人の男性が多くの人たちにその存在を知ってもらうため努力されているという内容だった。

この慰霊塔への参加者も遺族が亡くなったりで年々減ってきているという。

各地域ごとに慰霊塔があったりするのは知っていたが、全国的なものがあるというのを初めて知った。

ネットで調べると関連して

京都空襲のことが出てきた。昭和20年1月から6月にかけて5度にわたって京都でも無差別爆撃が行われたと書かれていた。

その中で6月の西陣空襲では死者50人、重軽傷者66人、被害家屋292戸、罹災者850名という記事を読んだ。こんなに死者が出たことことを知り、母が話していたことを思い出した。

その爆撃地からまじかに住んでいた母はその爆撃の時、背負っていた私共々体が浮き上がったことや、隣の家の大屋根に大きな石が落ちてきたこと、 爆撃のあとを見に行った人から聞いた惨状なども私が小学生の頃に話してくれた。

もう少し爆弾が落ちる場所がずれていたら現在の私もいなかったかもしれない。

 2年前に書いているブログの中で(70年目のヒロシマから思うこと

 キューバの子供達は原爆投下日を知ってる
それはキューバの英雄、チェ・ゲバラが広島を訪れ「平和を勝ち取るには広島を知らなければいけない」とカストロに伝え、以後教科書に記載するようになったからだという文言が再び思い出された。

戦後72年経たとはいえ平和への不安材料が増すばかりの今日この頃、8月15日はテレビ、ラジオ、各都道府県などで全国的な黙とうの合図をならし、平和の大切さを全国民が再確認できるようにしてはどうでしょうか?

 

 

 

 


亡き両親のタバコのことから

2017-02-11 | 昔語り

明治生まれの両親は煙草をよく吸っていました。その頃はキザミ煙草で煙管(キセル)にキザミを入れ吸うのですがキセルに煙草のヤニがつくのでその掃除をしていました。

こよりを作ってキセルに通してす~とヤニをとっていくのです。

幼かった私はこの作業を眺めていてたまにコヨリつくりを真似たり通すのをやらせてもらったりしましたが、コヨリもなかなかピンと立ちません。キセル通しも上手くできませんでした。

煙管(キセル)、キザミ煙草などという言葉を聞いても知っている人は限られているかもしれませんが。。。。

コヨリは七夕の時に短冊につけるので知っているかも?でもあれを半紙を切って親指と人差し指でしゃんと滑らしながら作っていくのは結構難しいのです。

父は入院先の待合室で煙草を吸っていたので注意すると「吸えん様になるくらいなら死んだほうがましや!」と言い80歳で亡くなるまで吸っていた。

煙草と 肺がんのニュースを目にする度に思い出すことでした。

そんなに体に悪い煙草なら国で取り締まればいいのになぁ・・・といつも思いますが、

今朝の赤旗新聞に全国たばこ販売政治連盟から特定の国会議員に6年間で6千万円の献金。自民党への献金は1億600万円。

1985年設立のJTの筆頭株主は3分の一以上の株を財務省が持っている。

規制の対象となっているタバコを独占製造する筆頭株主が政府という世界に例のない事態と書かれていた。

さてさて 「どうしたもんじゃろうの~」

 

 

 

 


「そんなことしたら、今に罰があたるえ」と

2016-06-01 | 昔語り

幼い頃 母からよく聞いた言葉。

そんなことしたら、今に罰があたるえ」と。

ちり紙を考えもせずよく使った時や、むやみに水を使った時など物を大事にしなかった時によく言われた。

そして毎月の天神さんへのお参りや釘抜き地蔵さんへ参った時、手を合わせて拝むことを教えられた。

幼いなりに何となく世の中には目に見えないものが存在していて、悪いことをしたり言ったりするとどこかで見られているようなそんな気がしていた。

そのような気持ちは大きくなっても心の中の片隅にいつもあったような気がする。

なるだけ罰が当たらないようにと心してきたつもりが、たまに踏み外した時、う~んやっぱり罰があったったんや・・・・と思ったことがこれまでに何度となくあった。そしてその度に自身の弱さを恥じこれからは間違いない道をと思った。

「嘘を平気でつく」「嘘を嘘と思っていない」のかどうか、わからないが安倍首相や甘利さん、舛添知事さんたちには「罰が当たるえー」という言葉など全く通じないのだろうなぁ~

「 嘘ついたら閻魔さんに舌抜かれるえ~!」