芍薬が昨夜の風にもまけずしゃんとたって咲いてきてくれました。
じゃ こらから病院へ行ってきます。帰ってくるまで咲いていてくれるかなあ?
ブログを見られた知人が訪ねてこられて、玄関に咲く牡丹を見て「これは牡丹と違うよ。牡丹はもう咲き終わったし、葉の形も違うしね。これは芍薬やわ。家に咲いた写真送ってみるから。」と言われました。
何だそううだったのか もっと早く聞けばよかった。ネットではなかなか分かりにくかったので、牡丹とばかり思っていました。
ということで送って頂いた牡丹の写真。
ローズ色の牡丹 ↑ 芍薬 ↑
雨にぬれた牡丹
もみじの木の下に植わっていた牡丹を陽ののあたる場所に植え替えてはじめて蕾をもち、もうすぐ鮮やかな花が咲きそうです。
月曜日の入院までに咲いてくれるでしょうか?花が大きすぎて今にも倒れそうで添え木をしましたが、台風がきているとかで、少し心配です。 4年前にもみじの木の下で一度だけ咲いたのは白っぽい色だったのですが、今度は淡いピンクのようです。
牡丹か芍薬かわからなくてネットでいろいろ探した結果、どうも牡丹のようです。牡丹は低木で芍薬は草だそうですが・・・
マーガレットもよく咲きました。
父が鉢で育てていたさつきを地植えしましたら大きく枝が伸びて・・・・ シランの花
4年前の牡丹
手術であちこちの筋肉がこわばっているのを感じたのもあって、近所の88歳のご婦人を誘って5月から再び整骨院に行き始めた。
電気を膝に充ててもらいながら、待合で話される方たちの話が聞くとはなしに、耳に入ってくる。(なるほど、なるほど、そうや、そうや)と心の中で合図うちしている。
いづれも80代のご婦人たち
「年とったらあきまへんなあ」「近こうなって」「夜中に何回も起きますね」「辛抱してたら大変ですわ・・・」
「孫がこの間も遊びに来てくれましてね」「みんなが来てくれると嬉しいですなあ」
「嫁がようしてくれてね。田舎から来てくれてた嫁で素直でね。喜んでます」「よかったですね。奥さんがようできたお人やからですわ」
こんな会話から年をかさねるとやっぱり一人はさびしいし、誰かそばにいて話できることが何より元気の素になるのだなあと思った。
私自身も以前は思いもしなかったことだが、時折何とも言えない 寂寥感のようなものをふと感じるときがある。これが年をとるということなのかなあと感じ、亡き両親に対して働いている時は忙しさにかまけてゆっくり話を聞いてあげることも少なかったし、もっと話しておけばよかったと今になって思う。
そして1年以上も前からだが自身の命の炎(ろうそくの炎のようなもの)がひとまわり小さくなったなあと感じたことがあった。これもそのうちなのだろう。
このように書けば少し気弱く感じるかもしれないが、いえいえ! 口だけは達者 嫌われ意地悪ばあさんの部分があって、これが生きていく活力にもなっているなかも・・・・ね
3日程前にサラリーマン川柳の大賞が発表されたことを友人のH・Pや新聞で知り、「うーん上手につくらはるなあ・・・」と感心しながら笑ってしまった。
1位 久しぶり~名がでないまま じゃあまたね
2位 クレームも社員じゃわからんパート出せ
3位 何になる? 子供の答えは正社員
4位 ときめきは四十路過ぎると不整脈
5位 指舐めてページをめくるアイバット
その年ごとに話題になったことをきっちり笑いをこめて川柳にする技はなかなか難しいと思うが、どれもすごいなあと思ってしまう。
もう随分前になるが田辺聖子さんの「川柳でんでん太鼓」という本に沢山の川柳が載っていて笑いがとまらずメモした作品がいくつかあった。
「良妻で賢母で女史で家にゐず」 「うつむいていれば勤まる公務員」 「人類は悲しからずや左派と右派」
「飲んでほし止めてもほしい酒をつぎ」など等でその中でも
「手と足をもいだ丸太にしてかへし」というのが、鶴 彬 の作として載っていたのだが、なぜか強烈に心に残っている。
近年 この方が反戦川柳作家で29歳の若さで亡くなったことなどを知った。
昭和12年暮れに特高に逮捕され、翌年昭和13年には病気で亡くなっている。もし今この方が生きておられたらどんな川柳を作っておられただろうか。社会風刺をこめながら世の人々を元気づけ、立ち上がらせて下さっているのだろうかなどとふと想像してみた。
京都の友人が送ってくださった甘酒がなくなったので、昨日 甘酒を作りました。もち米とうるち米 麹のセットが山形から送られてきました。麹がこちらではなかなか手に入らず、ネットで申し込んだのです。
さて1升炊きの炊飯器を娘宅から借りて、ついでに温度計も と準備を整えてレシピにしたがってかかりました。
温度が決め手であまり高くなりすぎると米を糖化させる酵素が破壊されるとかで55度~60度を保つようにと書かれていてちょっと気をつかって作りました。炊き上がった米に麹をまぜ、温度を見ながら、60度のお湯を入れる。そして炊飯器の蓋を開けながら保温すること6~7時間。 朝起きると ちゃんと出来上がっていて生姜をすりおろしてさっそく頂きました。
お湯の量が多かったかな?などと一人思いながら うーんこれで良しかなあ・・・ちょっと薄い気もしなくはないけれど。
生あま酒は病院での点滴(ブドウ糖)の栄養価に匹敵するとか。
送って頂いた友人に感謝しつつ 、体力がなかなかつかない近くの知人宅に少し届けに行った。
葉山に住む姉夫婦が10年振りくらいで訪ねてきてくれた。電話では何度も話していたが本当にやっと会えた。私の病気のことを随分心配してくれていたが、元気そうな私を見てほっとした様子だった。積もる話を沢山して、次のお見舞い先の大阪へと向かっていかれた。
華道の免許を持つ姉はお花も大好きで家でも沢山育てておられる。花たちの写真をパソコンで見せてもらった。
クリスマスローズを庭で育てておられるとか。
東北のことを思うとき、岩手県花巻の宮沢賢治の「雨ニモマケズ・・・」の詩が浮かんできて、何かしらもう一度しっかりとこの詩を詠んでみたくなった。
「もう一度読みたい宮沢賢治」という題の本が届いた。本の最後に書かれていた「雨ニモマケズ、風ニモマケズ、雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ・・・」を思わず声を出して読んでいた。
中に賢治の作品が沢山載っていたがその中の「グスコーブドリの伝記」という話は忘れられない作品で、30年も前 勤めていた保育園でこの「グスコーブドリの伝記」の紙芝居を何十回となく子供たちに読んで聞かせ、その度に感動したものだ。
今回 作品を読んでみたが、紙芝居にはない言葉の表現、主人公ブドリの感受性豊かな心の動きなどが表現されていてとてもよかった。
ついでだが保育園勤務時代にもうひとつ忘れられない紙芝居は「鳩のアルノー」だった。そして絵本といえば「かわいそうな象」
どれも胸をうつ作品で読むたびに涙がこぼれそうになるのを必死でこらえて読み聞かせていたのを思い出す。
今回の福島の原発に関連して新聞に「グスコーブドリの伝記」のことが取り上げられていて、今、注目を浴びているということがツイッターに出ていた。
自然現象の異常で、冷夏が続いた地域が作物やその他の被害に襲われそうになった時、火山を爆発させて空気中の温度を上げることで、皆を飢饉から救おうと考え、爆発のスイッチを押す最後の人になることを決意したブドリの物語だが、原発の作業現場で危険に身をさらしながら必死で頑張っておられる方々と重ね合わせてのことらしい。いずれも自己犠牲にたいする尊敬の想いからではないだろうか。
年金者組合から幻住庵へ行ってきました。歩いてのハイキングということでしたが多くの人がやはり歩いてはちょっと・・・という人が多く車に分乗して行きました。 私も20年ほど前には行ったこともあるので今回はやめておこうと思っていたのですが、車ということで急遽行くことにしました。
それでも階段がずっと続いて10分ほどでしたが、途中で休憩する人もいました。私も杖をもってゆっくり歩きました。
「先ず頼む椎の木もあり夏木立」と芭蕉が詠んだという椎の木。 幻住庵の入り口
幻住庵からの眺め 椎の木の木立を歩く
芭蕉が幻住庵記に「谷の清水を汲みてみずから炊ぐ」と記したといわれる
とくとくの清水 (水はとくとくと出ていなかったけれどちょろちょろと出ていた)
最後に私が詠んだ句・・・・椎の木も蛙もなつかし芭蕉庵 あし、こしは大丈夫かな芭蕉さん(川柳みたいになった)
律院のWさんが先日 大きな花束をもって来てくださった。 「なかなかお見舞いに来られなくて・・・でもお元気そうで安心しました」と言って、「今日は風邪をひいているので、移したら迷惑だし・・」といって引き止めたにもかかわらず、部屋にもあがらないで帰っていかれました。
いつもなら「今日は休みなので久しぶりに寄せていただいていいですか?」といって来られ、いっぱい話をして帰られるのに、疲れが出て風邪をひかれたのかなあ?
入院中沢山の花束の篭をいただき、置くのもいっぱいで暖房で花が枯れないかと心配になり、一部は病院の食堂に飾ってもらったり、持ち帰ってもらったりしました。
Wさんの花は律院にいつも来ていけてくださる方に頼んだのですよと言っておられましたが、カサブランカでしょうか 甘い香りが玄関に漂ってきて優雅な気持ちにさせてくれました。
花は本当に心を和ませてくれるのですね。沢山の花を届けてくださった方々に感謝しつつ「ありがとうございました」と。
小学5年生の孫が学校の国語の授業で今「百年後のふるさとを守る」という物語を毎日家に帰ってから音読している。戦前から戦後の10年間小学校の教科書にものっていた「稲むらの火」の話である。
津波から村人を救うために刈り取ったばかりの稲束に火をつけ高台にある五兵衛(主人公)の家に皆を導き助けた話だが、この主人公となった実在の人物 浜口儀兵衛が1854年マグニチュード8.4の大地震のときにとった行動が語られている。
田畑や家屋のほとんどが津波でおしながされ打ちひしがれた人々を見て、紀州藩に援助を求めるが返事がない。人々は希望を失い村をすてようとする人まで現れる中、儀兵衛は村人自らの手で堤防を作ろうと決心し、材料費も賃金も全部自分と店からだして村人たちを堤防つくりに参加させていった。
松の木を堤防にそって数千本植え全長600メートルの広村堤防は4年にわたる工事で完成した。堤防完成から88年後 和歌山沖に発生したマグニチュード8.0の大地震は広村に4メートルの津波となって押し寄せたが、この堤防によって村の大部分が浸水の被害から免れることができたと記されている。
和歌山県広川町役場前にある稲むらの火 広場に建つ浜口 儀兵衛の像
最後に儀兵衛の堤防づくりから学ぶこととして、物質的な援助だけでなく生活援助を防災事業として行い住民同士が、助け合いながら自分たちの住むところを守るのだという意識を促したことだと書かれ自助と共助の意識なくして災害後の真の再生は望めないし今日ではこれに国、などの公助が加わるのは当然であるとしている。
東日本大震災のこともありこの教科書は前倒しして学んでいるようだが、ちょっと5年生のはじめとしては難しい漢字が多く出ていて読むのに四苦八苦していたが、大人が読んでも考えさせられた。
しかし、NGOの方だったか民間の組織が被災され避難されている人たちに呼びかけて瓦礫の処分などの仕事を何がしかの賃金でしてもらおうと働きかけられたら、失業手当のこともあり、行政が難色を示したという記事をみた。
お金だけの問題じゃない上記の儀兵衛さんのような大きくふかく見つめる暖かい気持ちが必要な気がしたが・・・。
浜口 儀兵衛(1820-1885)
新聞に立花 隆さんが書いておられることは日頃から心の片隅にある私の疑問をそのまま載せてあった。
被災地の少女がローマ法王に「なぜ、こんなむごいことが起きるのですか?なぜ神さまはそれをお許しになるのですか?」と問いかけたとき法王は「私には分かりません。なぜなのですか?と神さまに問い続けています」と答え、「でも神さまはいつも私たちのそばにいます」と付け加えたと書かれてあった。
ずっと以前から私も広島、長崎の原爆投下のことを思うと、この疑問が沸いてきて、知人のクリスチャンに聞いてみたが、もうひとつはっきりとわからなかった。
世界をみればこれまでも幾度となくこのようなむごいことが起きている。それが人災である場合は戦争や、原発などが考えられるがこれらは人間の持つ執着や欲といったものから発せられるのではないかと思う。
しかし自然災害の場合はまったく人知の計り知れないものがある。
人災による場合は人間の本性を仏や神に聞き、被害をなんとかすくなく出来るかもしれないが、自然の猛威に対してはどのように考えればよいのだろう。
どちらにしても神が返すのは「沈黙」という答えだと立花氏は書いている。そして最後に答えは見つからないかもしれないが、問い続けることが大切だとしめくくってあった。
その昔仏陀は、自分の生まれ育った釈迦族が攻められたとき2回までは神通力のようなもので釈迦族を助けたが3回目に攻められたときは釈迦族の因縁がそうさせたのだろうとそのままにされ、釈迦族は滅んでしまったという話を読んだことがあるが、仏様も神さまも分からないことがあるのだろうか?
ただ、私自身は世の中には人知を超えたすごいものが存在しているということを信じ、自分に今出来ることは 朝と夜の祈りばかりである。
道端に薄紫の可憐な花が沢山咲いていました。
名前はわかりませんが雑草の中に咲く小さくて清楚なたたずまいが爽やかな気持ちにさせてくれました。残念なのはカメラです。もっとちゃんと撮れればいいのに・・・。
手術してから2ケ月半になり、体の方もだんだん楽になってきたし、食欲も出てきているが日によってはとても疲れ、お腹がつっぱった感じになるときがある。何かを一生懸命やったあとは特に呼吸までしんどくなってしまうのはどうしてかなあ・・・まあ 何事もゆっくり、ゆっくりでいこう。
最近は運動をかねて団地の中を一回り歩いている。
携帯電話に歩数計が付いていて、何歩歩いたか、何分かかったか表示してくれる。自分にあった歩幅から計算して「もう少しゆっくり歩きましょう」「その調子です」「目標時間の半分に来ました」などと言ってくれるのだが、知らない人が聞いたら、何をあの人は言っているのだろうと思われはしないかとちょっと恥ずかしい。そこでこの機能を停止させたいのだがわからない。
15分ほどの散歩中、きれいに咲いている藤の花を見つけ、携帯で撮ってみた。