「日本人の忘れもの」という記事に今朝は木津川 計さんの文が載っていた。
ワープロの時代も過ぎ、パソコンも使わずにずっと原稿は鉛筆で書いてこられたという。なぜ、鉛筆書きを崩さないのかというと原稿をきれいに仕上げたいからだと書かれている。
又、電動鉛筆削り器は先が丸く削られるのがいやで、カッターナイフで鋭角に削る。
手書きの優れた文は一目見ただけで長年の勘のようなもので「空飛ぶカーペットのように宙に浮く。匂い立つ香りがある。」と表現されている。
メールやパソコンは読まなければよしあしがわからないし漢字の心も伝わらないとも。
こんなことを或る人に言うと、その人が「鉛筆書きするとは我が身を削って人の為に尽くし、やわらかく見えても1本芯が通っているかどうかが試されているということです」と言われ木津川さんはその言葉に兜を脱ぎつつこの原稿を書いたとあった。
あまりにも自分の書いた字がみっともないと常々思っていた私はワープロやパソコンをこれは便利と使っては来たが、文字を書くことに対するこのような感じ方があったのだということを深く知らされた。
小学校に上がった頃 電動鉛筆削り器など無論なかったが、父が毎晩私の鉛筆を小刀でそれはきれいに削ってくれていたことを思い出した。六角に山をそろえて先はピンと尖らしていてくれた。