儀式は見ていて面白いものではない。
議会や総会の類は、儀式でなくてもよいのに儀式として行われることが多い。
TVに国会の中継が映っても、見る気がしないのは面白くないからで、面白くないのは儀式として執行しているからである。
なぜ儀式になるのか。
執り行ったという事実が残ればよいという運営上の都合だけで、ほかに理由はない。
国会法には、制定当初第78条に「各議院は、国政に携わる議員に自由討議の機会を与えるため、少なくとも2週間に1回その会議を開くことを要する」という規定があった。
しかし、先生方は自由討議がお嫌いらしく、規定上の開催機会を3週間に1回に減らし、さらに 1955年の改正でこの条項はなくなってしまった。
鳩山一郎が総理のときである。
「自由討議の機会を与えるため、会議を開くことを要する」という規定がなくなると、それを「決して開かない」と読むのが専門家の読み方らしい。
自由討議がなくなれば、こういう質問をしますという文書が渡され、役人が大急ぎで答弁文を作りそれを読み上げ、それを討議と呼んで時間が来れば終わり、儀式でしかなくなる。
その上、大臣にも少しは勉強させようと、実務に疎い人たちに無理やり答弁をさせるから、素頓狂な発言も出てくる。
議会が儀会に姿を変え、形は儀式でありながら実態は三流の芝居よりもっとひどくなることもある。
政治の中枢の有様を見せられると、秋風がいっそう身に沁みるのである。
国会入門―あるべき議会政治を求めて | |
浅野 一郎 | |
信山社出版 |
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