(quote/Hippocrates)
プロフェッショナルとは、他人が持たない専門知識やスキルを持つがゆえに、他者から助言やサービスを求められる特定分野の人々で構成される。
たとえば、医師は疾患に応じた治療方法を勧め、弁護士は法的手段に関して助言してくれる。我々自身はこうした判断を下すことができないうえ、たいていは受けた助言のよし悪しを判断することもできない。
1972年にノーベル賞を受賞した経済学者ケネス・アローは、医療のプロフェッショナルについて次のように記している。
「情報の価値は往々にして買い手にまったく理解されていない。実際のところ、もし買い手に情報の価値を判断できるほどの知識があれば、そもそも、その情報を知っていることになる。ほとんどの医師、というよりもほとんどのプロフェッショナルから、熟練した対処法というかたちで買っているものは、まさに情報なのである」
もちろん、プロフェッショナルならずとも、商品やサービスの提供元が我々の知らない知識を有していることは多い。たとえば我々には、コンピュータを製造したり、電車を走らせたりする能力はない。とはいえ、みずからの要求が満たされたかどうかを判断することはできる。コンピュータに何をしてほしいかわかっているし、電車が遅れているかどうかはわかるからだ。
ところが、弁護士のアドバイスを受けるとなると、その助言に従いながらも、案件が解決した後でさえ、助言のクオリティが高かったのかどうかわからないままである。
弁護士が素晴らしいアドバイスを与えてくれても訴訟に負けるかもしれないし、その逆もありうるだろう。違うアドバイスを受けていたら、もう少しよい結果だったかもしれない。いずれにしても、我々は助言のよし悪しを判断できる立場にはない。それは、相手が専門家であり、自分は素人だからだ。
そこには、知識の非対称性が存在している。
知識の非対称性が、どちらかというと一時的な場合もある。見知らぬ街では土地勘という専門知識を持つタクシーの運転手にサービスを提供してもらうが、目的地に到着してしまえば、運転手が選んだ経路が最短ルートだったかどうかを地元の人に聞くことができるため、非対称性が緩和される。
しかし、法律に関する助言のよし悪しは、誰に評価してもらえばいいのだろうか。別の弁護士に相談することはできるが、案件の詳細も伝えずにセカンド・オピニオンを求めることはできないため、結局は一つの案件のために二人の弁護士を雇うことになる。しかも二人の弁護士がそれぞれ違うアドバイスをしようものなら、どちらが優れているかの見分けなどつかない。
実際、我々が雇う弁護士は、自分で自分の法的アドバイスは頼りになるとほのめかす。こうした半永久的な知識の非対称性こそ、真のプロフェッショナルたる証であり、消費者である我々は取引相手である専門家を信用するしかない。
(切抜/リチャード・バーカー「Management Is Not a Profession」より)
「知りながら害を為すべからず」
‘私は能力と判断の限り患者に利益すると思う養生法をとり、悪くて有害と知る方法は決してとらない’ -ヒポクラテス
プロフェッショナルとは、他人が持たない専門知識やスキルを持つがゆえに、他者から助言やサービスを求められる特定分野の人々で構成される。
たとえば、医師は疾患に応じた治療方法を勧め、弁護士は法的手段に関して助言してくれる。我々自身はこうした判断を下すことができないうえ、たいていは受けた助言のよし悪しを判断することもできない。
1972年にノーベル賞を受賞した経済学者ケネス・アローは、医療のプロフェッショナルについて次のように記している。
「情報の価値は往々にして買い手にまったく理解されていない。実際のところ、もし買い手に情報の価値を判断できるほどの知識があれば、そもそも、その情報を知っていることになる。ほとんどの医師、というよりもほとんどのプロフェッショナルから、熟練した対処法というかたちで買っているものは、まさに情報なのである」
もちろん、プロフェッショナルならずとも、商品やサービスの提供元が我々の知らない知識を有していることは多い。たとえば我々には、コンピュータを製造したり、電車を走らせたりする能力はない。とはいえ、みずからの要求が満たされたかどうかを判断することはできる。コンピュータに何をしてほしいかわかっているし、電車が遅れているかどうかはわかるからだ。
ところが、弁護士のアドバイスを受けるとなると、その助言に従いながらも、案件が解決した後でさえ、助言のクオリティが高かったのかどうかわからないままである。
弁護士が素晴らしいアドバイスを与えてくれても訴訟に負けるかもしれないし、その逆もありうるだろう。違うアドバイスを受けていたら、もう少しよい結果だったかもしれない。いずれにしても、我々は助言のよし悪しを判断できる立場にはない。それは、相手が専門家であり、自分は素人だからだ。
そこには、知識の非対称性が存在している。
知識の非対称性が、どちらかというと一時的な場合もある。見知らぬ街では土地勘という専門知識を持つタクシーの運転手にサービスを提供してもらうが、目的地に到着してしまえば、運転手が選んだ経路が最短ルートだったかどうかを地元の人に聞くことができるため、非対称性が緩和される。
しかし、法律に関する助言のよし悪しは、誰に評価してもらえばいいのだろうか。別の弁護士に相談することはできるが、案件の詳細も伝えずにセカンド・オピニオンを求めることはできないため、結局は一つの案件のために二人の弁護士を雇うことになる。しかも二人の弁護士がそれぞれ違うアドバイスをしようものなら、どちらが優れているかの見分けなどつかない。
実際、我々が雇う弁護士は、自分で自分の法的アドバイスは頼りになるとほのめかす。こうした半永久的な知識の非対称性こそ、真のプロフェッショナルたる証であり、消費者である我々は取引相手である専門家を信用するしかない。
(切抜/リチャード・バーカー「Management Is Not a Profession」より)
「知りながら害を為すべからず」
‘私は能力と判断の限り患者に利益すると思う養生法をとり、悪くて有害と知る方法は決してとらない’ -ヒポクラテス
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