(photo/original unknown)
“・・例えば、「営業に向いている人はコミュニケーション能力が高い」と考えているとしましょう。たぶん正しいのでしょうね。このことと、「私はコミュニケーションが苦手だ」ということから、「私は営業には向いていない」という結論が導かれます。これは二つの前提を認めたならば必ず認めなければならない結論です。このような推論が「演繹」と呼ばれます。そして正しい演繹はまさに「論理的」です。では、これはどうでしょう。「営業に向いている人はコミュニケーション能力が高い」ということと、「私はコミュニケーション能力が高い」ということから、「私は営業に向いている」と結論する。・・演繹が成立しているように見えますが、実際は論理が成り立っていません。・・必要条件と十分条件という言い方をしてもいいですね。コミュニケーション能力は営業にとって必要ではあるけれども、それだけでは十分ではない。高いからと言って、それだけで営業に向くと結論することはできない。その推論は演繹としては間違っています。これは「逆を用いた誤謬」と呼ばれるものの一例ですが、この誤りに気を付けるだけで日常的な演繹の間違いはずいぶん減らすことができます。”
“・・深刻な問題に直面している人は、概して活性化しなくなります。鬱々とし始めます。それがかえって問題の本質を見えなくさせてしまう。新鮮さは自分を活性化させます。重荷を背負っている時こそ、軽やかになるべきなのです。難しいでしょうけれど”
“・・思考は飛躍することなので、飛躍したものを相手にそのまま投げかけても伝わりません。飛躍する前と後をつなげてきちんと相手に説明してあげる。つまり思考の力でジャンプして手に入れたものを飛躍なしで相手に伝えるために、論理が必要になります。・・論理とタッグを組んで考えなければ、思考は孤立無援です。”
“・・ありがちなのが、立てられた問題には暗黙の前提があり、実はその前提こそが問題だという場合です。「何をプレゼントすれば彼女は喜んでくれるだろう」と考えている時、そもそも彼女が私からプレゼントをもらって喜ぶという前提が間違っている可能性があるわけです。・・問題そのものを問い直すこうした態度というのは、目の前の問題に答えようとするかたくなさから解放されていなければ不可能です。目の前の問題に縛られてしまうのではなく、そこから身を翻して問題状況に対して距離を取って見直してみる。この知的軽やかさは、論理の持ち分というより思考の力でしょう。”
(切抜/-野矢茂樹「Is logic a Friend or Foe of Idea Generation?」dhbr.2016.4-より)
“・・例えば、「営業に向いている人はコミュニケーション能力が高い」と考えているとしましょう。たぶん正しいのでしょうね。このことと、「私はコミュニケーションが苦手だ」ということから、「私は営業には向いていない」という結論が導かれます。これは二つの前提を認めたならば必ず認めなければならない結論です。このような推論が「演繹」と呼ばれます。そして正しい演繹はまさに「論理的」です。では、これはどうでしょう。「営業に向いている人はコミュニケーション能力が高い」ということと、「私はコミュニケーション能力が高い」ということから、「私は営業に向いている」と結論する。・・演繹が成立しているように見えますが、実際は論理が成り立っていません。・・必要条件と十分条件という言い方をしてもいいですね。コミュニケーション能力は営業にとって必要ではあるけれども、それだけでは十分ではない。高いからと言って、それだけで営業に向くと結論することはできない。その推論は演繹としては間違っています。これは「逆を用いた誤謬」と呼ばれるものの一例ですが、この誤りに気を付けるだけで日常的な演繹の間違いはずいぶん減らすことができます。”
“・・深刻な問題に直面している人は、概して活性化しなくなります。鬱々とし始めます。それがかえって問題の本質を見えなくさせてしまう。新鮮さは自分を活性化させます。重荷を背負っている時こそ、軽やかになるべきなのです。難しいでしょうけれど”
“・・思考は飛躍することなので、飛躍したものを相手にそのまま投げかけても伝わりません。飛躍する前と後をつなげてきちんと相手に説明してあげる。つまり思考の力でジャンプして手に入れたものを飛躍なしで相手に伝えるために、論理が必要になります。・・論理とタッグを組んで考えなければ、思考は孤立無援です。”
“・・ありがちなのが、立てられた問題には暗黙の前提があり、実はその前提こそが問題だという場合です。「何をプレゼントすれば彼女は喜んでくれるだろう」と考えている時、そもそも彼女が私からプレゼントをもらって喜ぶという前提が間違っている可能性があるわけです。・・問題そのものを問い直すこうした態度というのは、目の前の問題に答えようとするかたくなさから解放されていなければ不可能です。目の前の問題に縛られてしまうのではなく、そこから身を翻して問題状況に対して距離を取って見直してみる。この知的軽やかさは、論理の持ち分というより思考の力でしょう。”
(切抜/-野矢茂樹「Is logic a Friend or Foe of Idea Generation?」dhbr.2016.4-より)