(画/鉄翁祖門 蘭図)
正直にして、天理に通じ、慈悲を以ってよく人に施す。
無欲にして、足ることを知る。
平日、行事正しくして邪なく、物を愛して執せず。
俗塵凡情、一点も無き、これを古人、風流と云う。
-鉄翁和尚
(画/鉄翁祖門 蘭図)
正直にして、天理に通じ、慈悲を以ってよく人に施す。
無欲にして、足ることを知る。
平日、行事正しくして邪なく、物を愛して執せず。
俗塵凡情、一点も無き、これを古人、風流と云う。
-鉄翁和尚
(picture/source)
時は元禄のころ、芭蕉の門人に大店の店主がおりまして、ある日芭蕉を家に呼んで、いろいろともてなしていたそうです。
そのうち日も暮れて燭台に火をともそうとやってきたそこの小僧さん、しかし誤って種火の芯を切って火を消してしまいました。
主人はそれをたいそう咎めて、大事なお客様のもてなし中に粗相をしたと、持っていた扇で小僧さんを叩きました。
芭蕉翁は、それを見て興ざめし席を立ってとっとと帰ろうとします。主人あわてて、せっかくお越しくださいましたのにもうしばらくお過ごしくださいと、引き止めます。
芭蕉翁答えて、
『いやいや私は俳諧師としてこのような不風流な席には少しも居たくありません。
考えてもみなさい。「燈籠の芯を摘むとて火を消して」という前句があるとして、後句に「持った扇で小僧打たれる」などとつけて俳諧になるものですか。
「折しも月の空に出てたなり」などとつけてこそ、風雅に聞こえるものです。
この風流の心こそ、万事に必要なものです。もしそれを忘れて力業に訴えるような不風流な振る舞いでどうしてこの世の神髄を学べるでしょう。』
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その人は、友達の誕生日に花を贈るつもりでいた。
しかし、誕生日が来たのに、なぜかそのことをすっかり忘れてしまっていた。数日後に思い出して、花を注文しようとその生花店に電話をかけた。
すでに夕方だったので、店の亭主から「今日中の配達がいいか、あるいは明日にするか」と尋ねられた。
彼は友人の誕生日に遅れてしまったことを打ち明け、できるだけ速く届けてほしいと頼んだ。それに対する亭主の返答に彼は驚かされた。
「配達が遅れたのは、店の責任だといっておきましょうか?」
彼は、自分の落ち度のために亭主に嘘をつかせたくはなかったので、その申し出は断ることにした。
亭主と彼の互いのやりとり、なんだか羽のあるちょいといい話。
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昔、こんな話があった。
あるところに資産家の親父があったが、壮年にして不治の病に侵された。
彼はその枕元に妻を呼び「わしが死んだら財産はすべてお前のものとせよ」と遺言した。
そして次に肉親の弟を呼び「わしが死んだら財産はすべてお前のものとせよ」と遺言した。
最後に長男を呼び「わしが死んだら財産はすべてお前のものとせよ」と遺言した。
やがて命運尽きた親父の遺産相続の話になったが、三人いずれも遺言をたてに争うので、親族は途方に暮れ町奉行所に裁決を願い出たが、なんでそんな遺言をしたのか親父の真意を誰も読めなかった。
この話を伝え聞いたある聡明な男は真意をこんな風に読んだ。
「その親父の願いはこうだろう。自分の死後弟を女房は後添えにして息子を跡継ぎにする。そうすれば皆が彼の財産の相続者になるではないかの」
鼠小僧治郎吉親分は金の無心を受けると、いつも胡坐の股座から金をつかみ出して、「さあ、持ってけ」と言いながら後ろ向きで差し出し決して相手の顔を見ようともしなかったという。
子分どもはそれを不思議に思って「親分どうして金を貸すのにいつも後ろ向きなのはどうしてですかい」と聞いてみた。
「さればよ、人の身の上はあてにはならぬ。今日絹の着物を着ていても明日にゃ菰を着るようになるかもしれぬ。その時もし借り手の顔に見覚えがなければ返してくれとは言わずに済むし、借り手もまた心苦しい思いをせずに済むわけだ。それでわしは借り手の顔は見ないようにしておる」
と答えたそうだ。
私たちがよんどころなく借金したら通常、借りた自分よりも貸した人の方が記憶が良いものであって、ややもすればこれを恩に着せたり、まわりに吹聴したりするものであると思わなくてはならない。
また返すときには借主の催促を待たず借りる時の地蔵顔で返すのも大事である。またどうせ金を貸すのなら治郎吉の心をもってわが心とすれば、借主が返してくるときの閻魔顔もまた見なくてよくなるのである。
ー出典/酒井不二雄「動的人格の修養」より
ちなみに肉親の葬式も挙げられずにいる清貧の友人に、「かそうか?」と言ったら彼はこう答えた。
「いや、土葬だ」。
(picture/original unknown)
多数での雑談中、流れの中である人がある婦人にそれで子供は何人いますか?と尋ねた。
「私の子が6人、夫の子が6人、全部で9人でございます」
「なるほどそうですか」とうなずいたきり彼は話題を変えた。
この会話を聞いていた人々、「6人+6人=9人?」いくら考えてもどうにも合点がいかない。
その場でいちいち聞くも野暮だと思い、そのあとこっそりたずねると、
「あれは主人と先妻の間の子が3人の所へ今の嫁さんが3人の連れ子を持って後妻に入り、夫婦の間にまた3人の子ができたということじゃ。それをあからさまに後妻というのが恥ずかしいのでああいう風に言ったのだろうよ」。
(picture/source)
人の付き合いとは主と客と相応じ相投じるところに礼が自然と存在するようになってくるところの妙でしょう。ここのところをよく合点しなければならないとおもいます。
その人とは自分の心を知ると同時に人の心も知らなければならない。知るということは、相応じることで、想像でなく、憶測でもない。礼譲仁義みなこれ相応じ相投じ相会するという心の発見のことであります。
心と心と相通わないところに礼も義も立ち上がることはないでしょう。人と人と相接するとき、ここに人の道というものが垣間見えます。また人は自然と相接するとき、ここに趣味という感覚が立ち上がるようです。
人道と趣味とは異なる物ながらの一体であります。人道すなわち趣味、趣味すなわち人道。要するに人の一生は趣味の一生だといわれることも然もありなんでしょう。
これらをひっくるめて楽しむを風雅と云うのかもしれません。もし感じ得られるのならこの世にいる間にしみじみと交わり味わいたいものです。
しばしの一生を名利のために苦しむべきか -ノ貫
(photo/Casablanca)
ある人は噓を吐くまたある人は法螺を吹く。
どちらも方便としての武器ともなりさまによって粋ともなるが、純粋に信じあいすぎるとしばしば関係はえらいことになる。
ある人は嘘に騙されたといって怒り、ある人は法螺に一杯食わされたといって怒ることになったりする。
やおら人は吐くこともあれば吹くこともあると見定めてともに人間の人間たるを心得るが寛容であり肝要である。
ええ歳しての喧嘩は野暮といわれる由縁である。
Casablanca - As Time Goes By - Original Song by Sam (Dooley Wilson)
(面/ひょっとこ)
昔のことだから相手も知らずに結婚することも多くこんなはずではなかったということも。しかしながらそこは風流にやり過ごす。こんなはなしがある。
その日、婚礼初見の新郎新婦、新郎は新婦が禿げ頭だということに気付いて、神の国「いせしまにいってみたれどかみはなく」
新婦もこの新郎に鼻が無いことに気付いて、花の名所の吉野山「いってみてれどはなはなく」とかえした。
ここで、そのばの仲人一句、貧とは知れど「いってみたればはなかみ(鼻紙)もなし」
ここで三人大笑いになって高砂やの夜はとどこおりなく更けたという。
(picture/source)
「・・男から言い出しまして話のつかぬ事も芸者から話しますとすぐ承諾を得るようなこともあるのは、まったく嘘のような事実であります。
つまりおのずから調和的勢力を持っておりますから、話も自然面白く結び付けられます。これは極めて真面目な間柄でもそうですし、一つの仕事を仕組もうとする人の策略(ポリシー)において、そういうことがしばしば繰り返されるのは先刻ご承知の成り行きでしょう。
一口に芸者のために男が堕落するとよくいいますけれども、芸者のために堕落するような人間は、芸者がなくてもとどのつまりは堕落するので、あるいはそれ以上の毒を流し罪を造るかもしれません。現代の紳士、淑女の人々に、芸者のこうげきを立派にできる資格のある人が、いくたりあるでしょうか、これが問題です」。
ー石井美代「芸者と待合」より
(photo/source)
日本人は米の飯を食って、奢らず又吝嗇(しみったれ)ぬようにすべきである。
米の飯に飽きたからといって肉食ばかりしていては胃を損ないかねない。
また麦飯ばかり食っていてもその割に金も残らないものでいっそ米の飯を食って、米で一生を卒(おわ)るのが、実に粹なお方である。
というような古典もある。
ところで、粋を関東ではイキといい関西ではスイと呼ぶ人が多いようなので、かってある大先輩に粋(いき)と粋(すい)に違いはありますのと聞いたことがある。
その人が言うには、
「もし、兄さん‘いき’だねぇ。なんぞと声かけられたりしましたらな、なんのなんのわしゃ帰りや!とかえすのが‘すい’ですわ」。
(photo/Bakumatsu taiyoden)
「まだ口をきくべき時でないのに口をきく、これは軽はずみというものだ。口をきくべき時に口をきかない、これは隠すというものだ。顔色を見、気持を察することなしに口をきく、これは向う見ずというものだ」
と、孔子さんは言ったらしい。
粋な口をきこうとするには、適時適切に適宜を図るには、未だ人生、短すぎるようだ。
Billie Holiday - Speak Low (1956) [Digitally Remastered]
(photo/source)
その昔、迷い込んできた羊を自分の羊と共に育てていた親父がいた。息子はそれを権力者に明かしたことで正直者として報奨を得たが、親父は罪に問われた。
そのことをどう思うかと問われた賢者はこういった。「子は親の、親は子の、不利になることは出来るだけ口を噤みたくなるのが、人の本当の処の正直というものではないかと思います」
大岡さんか板倉さんかの裁きにこんなのがあった。子どもの親を主張する母親がどっちも譲らないときに、そのおさなごの両腕を互いに引っ張らせた。勝った方が本当の親で負けた方は嘘をついたかどで厳罰に処すといって。そのうち痛がる子が泣き叫びはじめると片方が涙ながらにその手を放す。裁きはこうであった、「痛がる子に耐えきれず放したその方こそ本の親御であろう」と。
人を悲しませる本当もあれば、人を喜ばせる嘘もある。
正直と嘘と粋か野暮かの関係は深い。
武満徹 《微風》 / Toru Takemitsu 《Breeze》
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テンポの艶誉れあり、調べは淡々、然れど其の内裏、雛と鄙がと会い極まれるワルツが如し、哉。
ちなみにオダサクは京ことばについては次のように述べていたが、今でもいいよう変わらぬからにしてこそが京都の古都たるゆえんなのであろう。
《私はいつかあるお茶屋で、お内儀が芸者と次のような言葉をやりとりしているのを、耳にした時は、さすがに魅力を感じた。
「桃子はん、あんた、おいやすか、おいにやすか。オーさん、おいやすお言いやすのどっせ。あんたはん、どないおしやすか」「お母ちゃん、あて、かなわんのどっせ。かんにんどっせ」その会話は、オーさんという客が桃子という芸者と泊りたいとお内儀にたのんだので、お内儀が桃子を口説いている会話であって、あんたはここに泊るか、それとも帰るかというのを、「おいやすか、おいにやすか」といい、オーさんは泊りたいと言っているというのを、「オーさん、おいやすお言いやすのどっせ」という。その「I」の音の積み重ねと、露骨な表現を避けたいいまわしに、私は感心した、そして桃子という芸者がそれを断るのを、自分は泊ることは困る、勘弁してくれという意味で「あて、かなわんのどっせ。かんにんどっせ」と含みを持たせた簡単な表現で、しかも婉曲に片づけているのにも感心した。
それともう一つ私が感心したのは、祇園や先斗等の柳の巷の芸者や妓たちが、客から、おいどうだ、何か買ってやろうかとか、芝居へ連れて行てやろうかとか、こんどまた来るよ、などと言われた時に使う「どうぞ……」という言葉の言い方である。ちょっと肩を前へ動かせて、頭は下げたか下げないか判らぬぐらいに肩と一緒に前へ動かせ、そして「どうぞ……」という。「どう」という音を、肩や頭が動いている間ひっぱって、「ぞ」を軽く押える。この一種異色ある「どうぞ……」は「どう」の音のひっぱり方一つで、本当に連れて行ってほしいという気持やお愛想で言っている気持や、本当に連れて行ってくれると信じている気持や、客が嘘を言っているのが判っているという気持や、その他さまざまなニュアンスが出せるのである。ちょうど、彼女たちが客と道で別れる時に使う「さいなアら」という言葉の「な」の音のひっぱり方一つで、彼女たちが客に持っている好感の程度もしくは嫌悪の程度のニュアンスが出せるのと同様である。》 -切抜/織田作之助