人。志を立てて社会に挑む。
志。遂げることかなわずとも、もう帰るところは無い。
私。そこに骨を埋める覚悟がなければ、それは志ではない。
人間。誰にでも、志を立てる場所は、無限にある。
立志の本分を目指したものだけが、生き様を見つけ、人生の価値を得るのだ。
私はこう読む。
立志の唄。
幕末から明治への動乱期にも、数多くの人々が、己の志を立てた。
月性和尚も、格調あるこの唄を作り、己の志に殉じ、短い生涯を閉じた一人だ。
天下国家を憂う志はもてねども。
水がめに落ちた、飯粒(めしつぶ)くらいの志なら、私にも持てる。
飯粒が、飯粒の志を捨てたとき。
帰るべきところはなく、行くべきところも無い。
飯粒が本分を忘れない限り、水がめから拾い上げられる分もあろう。
天地人。
志を立て、その本分を全うしようとするならば、叶わぬまでも、夢は夢として、意味のある生き方となりそうだ。
志をたてよ。
まだ遅くはあるまい。
本分を見失うまい。
少しでも気を許すと、すぐに畜生のように易きに流されてしまう。
この愚禿の、覚書。
世の中は。
澄むと濁るで大違い。
はけに毛があり。はげに毛がなし。
ありゃよいよい。
こんなのもありましたなぁ。
親の意見となすびの花は、千に一つも無駄が無い。
あたしの親父がおっちんでから、つくづく思いましたが、
孝行をしたい時には、親は無し。
確かこれも都々逸じゃあございませんでしたかね。
あたしの好きな奴をあと、2,3。
ほんにあなたは、吉野の千本桜。色香はあるが、きが多い。
気と木が上手い具合にからんでおります。
艶のあるのをもう一つ。
信州・信濃の蕎麦が好き。もっと好きなの、あなたのおそば。
いやはや、あてられっぱなしでございます。
ついでに。
点打つところで、大違い。
いや、よして。か、いやよ、して。
どっちか、困るのでございます。
悪乗りでさらに。
彼女と彼氏の危ない言葉。恋する二人にゃ境なく。
おいおまえ、チューしていいかと問いたれば。
「またにして。」とはこれいかに。
ねぇ。あんた。チューしていい?とは甘えれば。
「たまにならいいよ。」とこれいかに。
どのあたりが。美味いものでございましょうや。
宴会で唄われる事が多いと、やはりこのようになってしまうのでございましょう。
とぼけていながらも味がある。なんてぇところが、よろしゅうございます。
ばかばかしい。と思うことなかれ。
ばかばかしいことにまじめに取り組むばかばかしさと。
まじめに取り組んでいること自体、ばかばかしいことと。
いろいろあるようでございますれば。
人というものは、いじらしい。
都々逸都々逸、のべつまくなし生き様ではございませんか。
すがるおひともおりゃせぬみなら。
いだくるおもいはこのきのふうせん。
ふうのきままにいくてをたくし。
ねんげみしょうのかぜのふね。
ながれるかわにせもあるほどに。
あたしゃこのきでうかびもあがらせ。
ういたはれたはこのよのえにし。
どうせのるふねかぜのふね。
ああ風の船。
菜蕗(ふき)というも草の名。
茗荷(みょうが)というも草の名。
富貴(ふき)自在、徳ありて。
冥加(みょうが)あらせたまへや。
-ことほぎのうた-
古事記では、「豊寿ぎ、寿ぎもどし」を「とよほぎ、ほぎもどし」と読むようだ。
「ことほぎ」とは、ことに寿。の意なのかもしれないが、寿寿と書いて「ことほぎ」と読んでみる。
名利(みょうり)を追いすぎて、冥利(みょうり)なく。
富貴(ふき)に目がくらんで、不羈(ふき)ならず。
奪われることなく自分の時間で生きることが、ことほぎ。
名利に使われて、閑(しづ)かなる暇(いとま)なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。
-徒然草-
菜蕗も茗荷も、草でございます。
生き物を含む、すべての有機体の仕組みは、物質、エネルギー、情報、あるいはこれらの組み合わさったものを、摂取し、処理し、排泄するというシステムを持っております。
つまりはとどまらない交換の連鎖。
種の保存方法は、おおむね体液の交換という直接的な方法を取ります。
身を捨ててこそ浮かばれる。というような行為であります。
交換とは、片手で、拍手はできないようなもの。音の種子は両手にございます。
ここでいう「種子」とは、梵語で表されるもの。
私の解釈では、そのことのもともとの起原を指す。可視、不可視問わずのことであります。
私たちは現実に起こりうることを体系的に理解して、その種を蒔いたり蒔かなかったりいたします。
ただし。起原において蒔かれてしまったものは、作為的な妨げに関わりなく、その仕組みに沿って、交換のシステムが作動し始めます。
体系の起原に気付かなければ、現実を制御できなくなってしまうのです。
その種子を掘り起こし、起原にさかのぼろうとすることが、無意味で徒労であることに気付いたとき、種の起源の聡明、壮大さを思い知らされるのでありましょう。
いたるところ、現実というものの儚さ尊さを想うのでございます。
「現実性は思考の尺度である。それは我々がこの世界で立場を明確にする手段である。現実の時の流れは、我々が理解できるものが何であり、また理解できないものが何でるかを、はっきりと示す。」
-モホリ・ナギ-
日本人であれば、誰でも生まれ歳に動物がつく。
えーと?と考えなくても干支と呼ばれる。
十二支のこと。
それぞれには仏説で、守り本尊がある。
守護神ではなく、守護仏。
今年の干支の亥(いのしし)年であれば、戌(いぬ)とおなじ阿弥陀如来。
未(ひつじ)年であれば、申(さる)年とおなじ大日如来。
辰(たつ)年や巳(へび)年なら、普賢菩薩。
丑(うし)寅(とら)年は、虚空蔵菩薩。
子(ねずみ)年は、千手観音菩薩。
卯(うさぎ)年は、文殊菩薩。
丑(うし)年は、勢至菩薩。
酉(とり)年は、不動明王。
などと云うように、それぞれにおらっしゃる。
守っておらっしゃる。
もちろん、わたくしめにもおらっしゃる。
気休め。ということなかれ。
気が休まることこそ、大事なのであります。
気休めに 描いて休まる 守り尊
七生一刻 夢の浮橋 しゃれこうべ。
無上甚深微妙法。
百千萬劫難遭遇。
我今見聞得受持。
願解如来真実義。
むじょうじんしんびみょうほう。
ひゃくせんまんごうなんそうぐう。
がぁこんけんもんとくじゅうじ。
がんげにょらいしんじつぎ。
無手勝手流で詠んでみる。
人それぞれではありますが。
休めてしまうのであります。
むにゃむにゃ。
毛がなくても毛羽立つな。
気持ちよ休め。
16から、18までの学び舎の、校是が、報本反始でありました。
万物の存在は、天に基づく。
人は、祖先に基づく。
その根本の恩に、感謝し、その功を讃える。
-礼記-
その本に報いて、始めに帰る。
ばか者の、若者の折には、なんともうっちゃって過ごしておりましたが、校是だけに、常に目に付き、耳にする言葉でございました。
運動部にいれば、試合のたびに旗が揺らめいていたものでございます。
いわんや、歳を重ね、浮世の波にもてあそばれておりますうちに、これがリフレインする場合がございます。
「私が学んだ筈の校是である。その精神は、へちまの皮ほどでも、私にとって芯となっておる筈である。しがみついてみようではないか。」
何度やり直したことでございましょう。
すべからく、これからも、やり直し続けることでございましょう。
私は想うのでございます。
しがみつける、詞、師、史、を持つことがどれほど助けになるかと。
シッシッシ。とおっぱらってはいけないのでございます。
精神が崩れない限り、人は人でおられるものでございましょう。
ばか者のときに身近に会うものの、功罪を想うのであります。
クラウチングスタートと、スタンディングスタートの混合スタイル。
しかしなんですな。昆虫類というものは、どれが手でどれが足かわかりませんな。
何本もあって、足手まといにならんのでしょうか。
ムカデの100本足なんてことをいいますから、全部足なんでしょうかね。
ムカデ相手に、靴屋を開いたら、大量販売が可能ですなぁ。
ムカデ屋といえば、足袋やさんですから、命名者はとんちが効いております。
ハエ・カ・アブの類もありゃ全部足なんでしょうかねぇ。
なんやトルコの羊肉の串焼きみたいですな。
シシ・カ・バブ。
イナゴは佃煮で食べられますが、ハエ・カ・アブを食う人はおらんでしょうなぁ。
あたしもよく、昆虫みたいって言われるんですがね。
ありゃあなんですかね。ゴキブリを指しているんでございましょうか。
なんとなく親近感が沸くのはなぜなのでありましょう。
中には、クワガタやカブトムシのようにペットになる虫の仲間もいます。
中には数十万円単位で取引もされるようですなぁ。
こういうものに高い金を払って手に入れる人は、やっぱり大金持ちが多いのでしょうねぇ。
コガネ無視。と申します。
古代のエジプトあたりじゃ、糞コロガシを神の使いにしたりして、なかなか立派な心構えであります。
標準語で考えても、この立派さは、わからんようで、訛りを入れると理解できます。
こげな虫でも、なんとかスカラベ。と申しまして。
人の役に立つものを、益虫。悪さするものを害虫。なぞと勝手に分けてみたりしておりますがね。
居る。ということはです、人の役に立たん言うて、他での働きを無視して人の都合だけで駆除しておったら、後々えらいことになる。
虫(むし)と呼ぶからいかん。チューと呼びなさい。嫌いな人はあんまりおらんようになりませんかね。
さて。愚噺はこれぐらいにして、クラウチングスタートと、スタンディングスタートの混合スタイルで、あたしゃ呑みに行く。
美味い酒に手を染めて、呑みすぎで勇み足。
口八丁手八丁、蛇足の愚禿。
手足違わず、いつまで呑めるや、今生の。
五分の虫にも、一分の魂。
バッタとたおれて、昏中の夢。
葉々清風。虫の息。
ヨーイ・ドン!
身はかるく もつこそよけれ かるわざの
綱のうえなる ひとの世渡り。
-京伝-
みはかるく。は、身あかるく。とも掛けられますなわな。
いらんもんを溜め込まず、借りたもんは返して、身辺を軽くしておくことどす。
身の持ちようで、心も軽うなりま。
軽薄とはちゃいますわな。
軽業師が綱渡りをするように、うまいことバランスをとらなあきまへん。
綱のうえなるほどに、すぐ踏み外しやすいのも、人の世渡りやさかいに、なるべく軽うしといて、気つけてわたろうやないか。ちゅうことでしゃろな。
欲かいて、重いものをあんまりぎょうさん溜め込みすぎると、踏み外しまっせ。
知恵と信用はなんぼ溜め込んでも、かまいませんけど。
天秤棒。上手く担いで渡りまひょ。
養生も 浮世も座頭の 丸木橋。
渡る心が よき手引きかな。
-白隠禅師-
「いやな渡世だなぁ」の座頭市は、勝新太郎さんのはまり役でございました。
座頭。つまり、眼の不自由な人に習え。ということでございます。
座頭が丸木橋を渡るように、まぁそうあわてず、そろりそろりと、慎重に驕ることなく渡ろうとする心構えが、世の中を渡る手引きとなりましょうぞ。
目明きは、それを当たり前と考え、座頭に情けをかけたりもいたしますが、過信していると、情けなくも高転びに転ぶことも多いもんでございます。
特に高所恐怖症の目明きであれば、すくんでしまう丸木橋も、座頭の心持なれば、眼に頼らず、平常心を保てますわな。
かっこつけてる場合やおまへん。
この世に生を受けた限りは、わたしらみんな渡生人。
一寸先は誰にもわかりゃしません。
へたりこんでも、座頭に習い、ちょびっとづつ渡りましょか。
国連世界食料計画(WFP)という組織があります。
http://www.wfp.or.jp/
http://www.jawfp.org/
生命の根源である「食べられさえすえば」という人たちを直接支援しようとする組織だとお見受けいたしております。
戦後直下の日本も飢餓状態を経験しております。
今の62~3歳超の人の中には、ネズミに耳をかじられた方もいらっしゃる。
母親は母乳が出ず、脱脂粉乳を混ぜた。学校給食のミルクにもなった。
脱脂粉乳は家畜用にと米国などから送られたものと聞いております。
飢餓海峡や、ルワンダホテルといった映画が啓示するのは、本人の努力や意志に関係の無い所で、生きる地平線が決められてしまった人々の姿であります。
せめて食い物さえあれば。
努力する意志を持った人々が、不可抗力的な事情によってその場に落ち込んだならば、なんとしても必要な第一が食い物。その地平が見えることなしに、人は人とあることはできないでありましょう。
そして、それは、中間搾取者をみだりに肥え太らすことなく、直接的に支援されなければならないものでございます。
善人づらするつもりは、毛根はあっても毛頭ございませんが、これだけ情報の入る時代に、しまいこむ訳にはいかないと思うのであります。
せめて微力ながらも、忘れず学び想うことで、託すべきところに託せることが、大事だと感じております。
自らが動こうが、政府に委託しようが、そこにある惨悲を窺い知れば、支援にやぶさかな方はまずおりますまい。
ただ。
施して終わり。ではなく、支援するのであれば、その対効果にまで、思いをめぐらせる心がけは肝要かと存じます。
貢献するかしないかよりも、貢献できているかどうかの問題であります。
みだりに与えることが、よいはずもありません。
先般、善意とはなんぞやと思うような出来事も多く見受けられます。
金が動く世界には、ほっとけば必ず悪党がはびこるものと申します。
国際貢献に多大な支出をわが国が行っているのも確かでございます。
しかし、持ちうるものを潤すだけで使われることもなく、さび付き打ち捨てられる「井戸」を掘るような、まぬけな支援が多いように見受けられることも確かでございます。所謂、ばらまきまるなげ。
ちゃんとした使われ方を吟味せず、現場を見ず、噂ばかりの、いいかげんな会議で決めているのでありましょうや。
これがほんとの、井戸端会議と申します。
もとい。
支援の先にある希望。それが命を賭して支援を希求する方たちから、見えない地平線になってしまっていては、浮かばれないのは太陽でございます。
浄財という太陽。
篭ってしまう太陽は、身を焼き尽くします。
昔から言うではありませんか。乞食は三日やったら止められぬと。
見える地平に、昇る太陽。
助けるのではなく、支援する。
世界中の不条理の中で、生と戦わざるを得ない、勤勉で実直足りうる人たちがいる。
1日200円で家族4人が生を維持する為の食料がまかなえるという。
WHPが現在支援できている食料の年間総量は、今の日本の年間残飯量とほぼ同量だという。
支援を必要としている量の10分の1だともいう。
すくなくても、せめて、些細ながらも、食うことだけは、支援したいと思う由縁でございます。
限らず。
様々な支援活動を、現場でご活躍の方々に、心より畏敬と感謝を申し上げる次第であります。
我が歳も 四十でちょうど 暮れにけり。
名残りや 月雪花の しぼり糟。
-自堕落先生(山崎北華)-
生きすぎて 七十五年 喰いつぶし。
限りつくせぬ 天地の恩。
-蜀山人(大田南畝)-
自堕落先生、四十の。蜀山人翁七十五のときの。詠み。
科白を台詞に、見栄を切る。
よろしいなぁ。
狂言や能や歌舞伎の、ある意味清々しい人のあや。
紙屋治兵衛さんを描いていたら、今世の坂田藤十郎さんに近くなった。
やはり、見たことのある人に近づく。
聞いたり見たり、あこがれたものには、近づくのだろうか。
よいものを聞き、よいものを見、よいものにこがれたいものでおます。
そういやぁ。古い南画での説話だったか、こういのもありましたなぁ。
悪企みを持ちかけられた和尚が、怒り断った後、耳が汚れたといって、滝で耳を洗うシーン。
わしの、耳を汚すようなことをけしかけおって、けしからん。
などとせりふを吐きながら洗ったのでございましょうや。
どんなせりふでも。
生き様がなければそのせりふは出ないものでありましょう。
生は絶えても、せりふは、残るものでございます。
カエルをかこうとしたらカネゴンの親戚になった。
出て行っても帰ってケロケロ、銭蛙。
題も無いから、塗りカエル。そりゃ台無し。
お~い。裏の池の蛙が買い物にいったってねぇ。
いや。なにも、かわず。
何を言っているのやら。