両目の先がしっかり。
ちゃんと二つの目でみているのに。
かたつむり。
・・・。
かたつむり。背伸びした。
雨の季節は終わったんじゃないかい?
勝ち残ったんやね。
・・・。
いや。
かったつもり。
・・・。
何気なく鼻を撫でていて妙な触感を覚えたのはいつぐらいからだったろう。
頭蓋骨に続く鼻腔の骨格から、鼻筋を創る軟骨につながる当り。
生えている。
一本だけ。毛が生えていたのである。
産毛ではない。しっかりとした存在感をもった硬く黒い毛。
剃ってしまうと、しばらくはなりをひそめる。
定期的に常に生えてくるということは無いようだ。
どのような発育リズムを持っているのか、時折顔を出してくる。
毛と呼ぶべきか髭と呼んだら良いものかもわからないその黒い1本の筋が、僕の鼻に生えてくるのである。
僕は毛深いほうではない。剛毛でもない。老化現象で長い毛が生えてくるということを聞いたことはあるが、それとは別格のものだ。
今は1本だけだが、集団で生えてきたらどうなるのだろう。髭剃り痕が鼻にある人間なんて、それは人類と呼べるのだろうか。
とにかく。不思議なことは、不毛の地に生えた1筋の黒く固いこの小さな存在が、その先端を手の指でもてあそんでいると、なぜが古い記憶がよみがえってくるようになった。
何故だろう。その仕草が鼻糞をほじる仕草に瓜二つだからなのか。
・・・。
夏のせいかもしれない。
夏になると想い出す。記憶が生えてくる。
そんな処に毛根はないはずなのに、黒い筋が生えてくる。
憂いの無い幸せな場所に、突き破るような不安が生えてくる。
もてあそんでいる人生に、問題を突きつけるように、冷や汗をかかせる何かが生えてくる。
暑すぎる。暑すぎた時代の追憶。
・・・。
近所に一人の翁がいた。名は鶴馬といった。
僕達は「つるまおじ」と言っていた。つるまおじは、歯が前に1本しかなかった。
それも2~3センチもある長い歯。ツルテン頭にススキのような眉、黒く日焼けした皺くちゃの顔で、歯茎に1本だけの白い歯を誇らしげに見せて笑っていた。
つるまおじは、僕らにもめっぽう優しく、草葺の屋根にのぼって踏み抜こうが、五右衛門風呂の小屋板を刀に遊ぼうが、何も怒らなかった。
そんなつるまおじが、何を想ったかある暑い日につぶやいた。
「わしらが、一番辛かったんは、死ぬ奴と生きるかも知れん奴を自分で決めんとならんかったことじゃきに。こりゃ死なんかも知れん思うたら助けに行き寄ったけんど、今度は自分が死なにゃならんかも知れん。あんなことを人間が決めてええもんかと思うたねゃ。生きてもんてこれたばぁ、拾いもんよ。」
・・・。
僕は、一本の黒い筋を抜いた。
・・・。
アホ面下げて何も考えず、無邪気に遊んだのは、つるまおじのおかげだったのだろうか。
・・・。
ぶらんこ。ぶらんぶらん。おせばゆれる。いったりきたり。おおきくなったりちいさくなったり。
ゆられるだけゆられたら。ゆれるだけゆれたら。とまるぶらんこ。
僕はおしているのだろうか。おされているのだろうか。
ぶらんこをつくってくれたのは誰だろう。僕にも作れるだろうか。
・・・。
継ぎ接ぎのズボンをはいて、袖口に鼻糞をこびりつけて、馬鹿丸出しで一日中走り回ってただけの僕が、今は鼻の穴以外にも毛が生えるような大人になった。
いまのこの僕。喜ぶことだろうか。悲しむことだろうか。
つるまおじは、もういない。
何時頃の作品でしょうなぁ。
滋賀県のある寺で見せてもらったもの。
大津絵と呼ばれる独特の絵を描く絵師が描いたものだとおもわれます。
行司は、何を持って軍配を上げるのでしょうなぁ。
勢い?音?臭さ?
のこったのこった。臭いがのこった。なんちゃって。
おもしろいなぁ。
フィクションかノンフィクションかは別にして。
遊び心をふんだんに持っていたのでしょう。
当時の人々の余裕を感じます。
まぁ。そう言わずに。
たまには屁相撲でも。してみませんか?
たぶん。ずぶんとすっきりします。はい。
・・・。
へぇー。
点(ドット)が集まって線(ライン)をつくり、線が組み合わされて面(シェープ)をつくり、面が組み合わされて立体(マス)となる。それらそのものは光(カラー)と空間(スペース)によって質感(テクスチュア)を産み出す。
それらはまた、より大きな点(ドット)として一部へと還元される。
およそ我々が眼にし、受け取る形態への思いとは、このような組成の上に描き出される。
視覚効果を謳ったビジュアルデザインの本質とは、点・線・面・光・空間の相互作用が存在する環境に対してどのようなインセンティブを与えるのかということへのアプローチである。
形態の持つすごさ。とは、それがどのように存在しているのか。それがどのような場所で、どのようなタイミングで、どのような行きがかり上にあるのか等ということを全く持って無視するほどの、実体性を質感によって提示し得るということ。
そこにある形態とはなにか?
視覚に偏りすぎた我々の感覚器官に対し、肌触りを約束する「質感」というものの開発と、若しくはその実体験が与えてくれる印象の開拓こそ、我々をもっともっと遠くの文化的な生き物に変えていくはずである。
つまりは。質。の問題なのである。
・・・・・。
そのデザインは何故にそのようなサインを、観る者に与えるのだろう。
ならざるをえない形態と。なってしまった形態と。企てた形態との差はなんだ?
機能美ともしよべるものがあるなら審美との質感の違いはどこにある?
本物を本物と呼び、紛い物を紛い物と断じる強さはどう違う?
もっと飛躍していうならば。満足と感動はどのあたりが分岐点なのだ?
・・・・・。
訳のわからない話はやめにして。
形態的質感が心情的質感に変換されたのであります。
ふと。眼の覚めるような思いを抱いたのであります。
老齢の。松の。幹の。肌目の。その先の。その奥。
うむ。お主。できるな。
薫の君。と匂いの宮。であろうか。
世界で初とも言われる長編小説「源氏物語」
内容の好き嫌いは別にして、そのような文化が芽生えた我が祖国を嬉しく思う。
昔の人は早世だ。若い二人がほのかに思い惹きつけあい、おもいやる。
よろしいじゃないですか。
舞台は、若い人たちで幕を開ける。
雨上がりに。
みずみずしいカップルがおりましたわい。
「どうでおじゃるか」
「ほほほ。いとおかし」
・・・。
さ。帰ろ。
写真家をはじめ数々の芸術家に愛された平等院の鳳凰。
ほーおー。
950年余前の創造とは思えないほどの造詣と造型。
ほー!おー。
甍の優美な傾斜とえもいわれぬ燦然性。
ほぅおぅ。
対の鳳。浮かぶ空。
しぶいなぁ。
かごめかごめ。かごのなかのとりは。
いついつである。
よあけのばんに。つるとかめがすべった。
うしろのしょうめん。だ~れ。
かめ!
鶴と亀がすべったのか。ツルッと亀が滑ったのか。
何時である。のか。何時出会う。のか。
夜明けの晩なのか。夜明けの番なのか。
かごめとはなんぞや?カモメか。籠女か。
トマトジュースはなかったでしょうに。
言葉や意味がわかったようなわからないような。
なんともいえず。
魅力のわっぱうた。
わらべ達の謡。
佳き哉。善哉。
僕の前に道は無い。僕の後ろに道はできる。
高村光太郎さんの「道程」の一節。青年の頃の僕には、なかなか失い難きものだった。
詞の解釈と現実の経験に辻褄をあわせられるのか、不安を感じた。
今になって思うに。後ろを振り返れば。
小さな畦道のようなこの道ながら、僕にも道程とよべるものがある。
さて。問題は先行きだ。
道路のように、見通すことはできない。
まっすぐには来ていないので、多分まっすぐに延びることもないだろう。
これまでも。これからも。
・・・。
例えば僕は商売という種類の仕事に従事している。
まっすぐな道を歩むことが、気に入った道程だとも思わない。
もちろん。まっとうな道を歩む努力はしたいと思う。
多くの人は、見通しのよさを欲しがるけれど、高村さんの道程を本意とすれば、そもそも、無いのである。前に道は。
・・・。
僕は想う。
僕の前に道路(ロード)はない。しかし道筋(ルート)は探す必要がある。と。
僕も一人の労働者。日本国内だけでもざっと6000万人の勤労者が、健康で文化的な生活を求めて日夜職務をこなしている。
得る成果によって、幸せを掴もうとしている。果たして全員に行き渡る幸せはあるのだろうか。
・・・。
僕はイメージする。
ロードの上は楽だ。しかし配分される幸せは少ないに違いない。
独自のルートを行くには困難な開拓が待っている。しかし手に入れる幸せは大きいに違いない。
どうも。道は選ぶものではなく、作り上げるものだ。と「道程」は言っている。
・・・。
僕は気付く。
ルート選びとは、現時点と到達点を目標に大まかな道程をイメージすること。
大事なのはそのアタックすることの意味だ。チョモランマの最高峰を目指すルート選びと、天保山(海抜数メートル)を目指すルートの設定では雲泥の差が出るのだ。道程にも幸せの重さにも。
・・・。
僕は悩む。
人生は重い荷物を背負って険しい山を登るのに似ている。
と誰かさんは言うけれど。
人生はおもりもつけずに、海に潜ってさざえを取るのにも似ていないか。
・・・。
僕は考える。
サッカーでは、体力・技術もさることながら、アイディアの良し悪しが重要だという。
1年先より10年先。強いられるより率先。安住よりも挑戦。既存価値よりもニューアイディア。
ルートを定めた足下のロードの建設のための標語。
もちろん。勝ち組の尻馬に乗るのも悪くは無いだろうけれども、やっぱりルートをアイディアと工夫で走破し、ロードを作るほうが面白そうだ。
・・・。
僕らの前に道は無い。僕らの後ろに道は出来る。
青き日の道程。畦道はやがては農道になるだろうか。
道程は、果たしてどのようなワダチを残すだろうか。
お。
イタチの逃げだしっ屁。のような梅雨晩期の豪雨よ。
来るなら来てみろ降ってみろ。
ゴロゴロか。上等ではないか。
光っておるな。
誰に焚きつけられたか。たたきつける雨よ。
なにがあろうとも。わしは変わらぬ。鬼瓦。
鳥が羽休めするからか。鳥居。
鴨が羽を休めたら。鴨居。
かもよ。
とりよ。
知られざる宮よ。
居するは神。お狐様の見守るところ。
途切れた鐘帯に。無鍵の賽銭請に。楓風抜ける奥の殿。
願わくば。心優しき檀家の絶えぬこと。
願わくば。無償の奉仕の絶えぬこと。
神を神達が守っている。
通りすがりの寄りすがり。
旅人の休めるところ。
飄々の居。
ちさき祠にある。寛大の風景。
大きな靖の国では、救いきれない魂が鎮座する。
小さくキリっと結んだ口角。
正面を見据え動じることのないまなざし。
端正に引き締まった頬。
奥ゆかしくも涼しげな鼻筋。
強い意志を秘めておりますぞ。
そりゃ。石ですから。
・・・。
風雪が刻む顔。
ええ歳こいたら自分の顔に責任を持たねばなるまいて。
造作はもう生まれ持ったもので仕方はございませんが。
きちゃないのはいかんなぁ。きちゃないのは。
と。いまさらながら考え込みましたよ。羅漢さん。
何が居るのですか?
いえ。何も。
藻を撮っていますとは、言えませんでした。
水面に揺れる光と、透明な水中で揺れる藻が、何か気を引きましたので。と言えませんでした。
珍しくも。なんとも。無いのですけれども。
藻。なのです。
揺れております。