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‘‘歴史とはこれでいいのであろうか?’’
文字の霊などというものが、一体、あるものか、どうか。
アシュル・バニ・アパル大王は巨眼縮髪の老博士ナブ・アヘ・エリバを召めして、この未知の精霊についての研究を命じた。
文字に霊ありや無しやを、彼は自力で解決せねばならぬ。博士は書物を離れ、ただ一つの文字を前に、終日それと睨めっこをして過した。凝視と静観とによって真実を見出そうとしたのである。そのうちに、おかしな事が起った。一つの文字を長く見つめているうちに、いつしかその文字が解体して、意味の無い一つ一つの線の交錯としか見えなくなって来る。単なる線の集りが、なぜ、そういう音とそういう意味とをもつことが出来るのか、どうしても解らなくなって来る。
ナブ・アヘ・エリバは、生れて初めてこの不思議な事実を発見して、おどろいた。今まで七十年の間当然と思って看過していたことが、けっして当然でも必然でもない。彼は眼から鱗の落ちた思がした。単なるバラバラの線に、一定の音と一定の意味とを持たせるものは、何か? ここまで思い至った時、老博士は躊躇なく、文字の霊の存在を認めた。一つの霊がこれを統べるのでなくて、どうして単なる線の集合が、音と意味とを持つことが出来ようか。
この発見を手始めに、今まで知られなかった文字の霊の性質が次第に少しずつ判って来た。文字の精霊の数は、地上の事物の数ほど多い、文字の精は野鼠のように仔を産んで殖える。
ナブ・アヘ・エリバはニネヴェの街中を歩き廻まわって、最近に文字を覚えた人々をつかまえては、根気よく一々尋ねた。文字を知る以前に比べて、何か変ったようなところはないかと。これによって文字の霊の人間に対する作用を明らかにしようというのである。
さて、こうして、おかしな統計が出来上った。それによれば、文字を覚えてから急にシラミを捕るのが下手になった者、眼に埃が余計はいるようになった者、今まで良く見えた空の鷲の姿が見えなくなった者、空の色が以前ほど青くなくなったという者などが、圧倒的に多い。
「文字の精が人間の眼を食い荒らすこと、それ、ウジムシがクルミの固き殻をウガチて、中の実をタクミに食い尽くすが如し」と、ナブ・アヘ・エリバは、新しい粘土の備忘録に記した。
文字を覚えて以来、咳が出始めたという者、くしゃみが出るようになって困るという者、しゃっくりが度々出るようになった者、下痢するようになった者なども、かなりの数に上る。「文字の精は人間の鼻・咽喉・腹等をも犯すものの如し」と、老博士はまた記した。文字を覚えてから、にわかに頭髪の薄くなった者もいる。脚の弱くなった者、手足のふるえるようになった者、顎がはずれ易くなった者もいる。しかし、ナブ・アヘ・エリバは最後にこう書かねばならなかった。「文字の害たる、人間の頭脳を犯し、精神を麻痺させるに至って、即ち極まる」
文字を覚える以前に比べて、職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、猟師は獅子を射損うことが多くなった。これは統計の明らかに示す所である。文字に親しむようになってから、女を抱いても一向楽しゅうなくなったという訴えもあった。もっとも、こう言出したのは、七十歳を越こした老人であるから、これは文字のせいではないかも知れぬ。ナブ・アヘ・エリバはこう考えた。エジプト人は、ある物の影を、その物の魂の一部とみなしているようだが、文字は、その影のようなものではないのか。
獅子という字は、本物の獅子の影ではないのか。それで、獅子という字を覚えた猟師は、本物の獅子の代りに獅子の影を狙い、女という字を覚えた男は、本物の女の代りに女の影を抱くようになるのではないか。
文字の無かった昔、歓びも智慧もみんな直接に人間の中にはいって来た。今は、文字のヴェールをかぶった歓びの影と智慧の影としか、我々は知らない。近頃人々は物覚えが悪くなった。これも文字の精の悪戯である。人々は、もはや、書きとめておかなければ、何一つ憶えることが出来ない。着物を着るようになって、人間の皮膚が弱く醜くなった。乗物が発明されて、人間の脚が弱く醜くなった。文字が普及して、人々の頭は、もはや、働かなくなったのである。
ナブ・アヘ・エリバは、ある書物狂の老人を知っている。その老人は、博学なナブ・アヘ・エリバよりも更に博学である。彼は、スメリヤ語やアラメヤ語ばかりでなく、パピルスや羊皮紙に書かれたエジプト文字まですらすらと読む。およそ文字になった古代のことで、彼の知らぬことはない。彼はツクルチ・ニニブ一世王の治世第何年目の何月何日の天候まで知っている。しかし、今日の天気は晴か曇か気が付かない。
彼は、少女サビツがギルガメッシュを慰めた言葉をもそらんじている。しかし、息子をなくした隣人を何と言って慰めてよいか、知らない。彼は、アダッド・ニラリ王の后、サンムラマットがどんな衣装を好んだかも知っている。しかし、彼自身が今どんな衣服を着ているか、まるで気が付いていない。何と彼は文字と書物とを愛したであろう!読み、そらんじ、愛撫するだけではあきたらず、それを愛するの余りに、彼は、ギルガメッシュ伝説の最古版の粘土板を噛砕き、水に溶かして飲んでしまったことがある。
文字の精は彼の眼を容赦なく喰い荒し、彼は、ひどい近眼である。また、彼の背骨をも蝕み、彼は、臍に顎のくっつきそうなセムシである。しかし、彼は、おそらく自分がセムシであることを知らないであろう。セムシという字なら、彼は、五つの異った国の字で書くことが出来るのだが。
ナブ・アヘ・エリバ博士は、この男を、文字の精霊の犠牲者の第一に数えた。ただ、こうした外観の惨めさにもかかわらず、この老人は、実に――全く羨ましいほど――いつも幸福そうに見える。これが不審といえば、不審だったが、ナブ・アヘ・エリバは、それも文字の霊の媚薬のごとき狡猾な魔力のせいと見做した。
ある日若い歴史家のイシュデイ・ナブが訪ねて来て老博士に言った。歴史とは何ぞや? と。
若い歴史家は説明を加えた。先頃のバビロン王シャマシュ・シュム・ウキンの最期について色々な説がある。自ら火に投じたことだけは確かだが、最後のひと月ほどの間、絶望の余り、言語に絶した淫蕩の生活を送ったというものもあれば、毎日ひたすら潔斎してシャマシュ神に祈り続けたというものもある。第一の妃ただ一人と共に火に入ったという説もあれば、数百の婢妾を薪の火に投じてから自分も火に入ったという説もある。何しろ文字通り煙になったこととて、どれが正しいのか一向見当がつかない。近々、大王はそれらの中の一つを選んで、自分にそれを記録するよう命じるであろう。これはほんの一例だが、歴史とはこれでいいのであろうか。
賢明な老博士が賢明な沈黙を守っているのを見て、若い歴史家は、次のような形に問を変えた。歴史とは、昔、在った事柄をいうのであろうか? それとも、粘土板の文字をいうのであろうか?
獅子狩りと、獅子狩の浮彫とを混同しているような所がこの問の中にある。博士はそれを感じたが、はっきり口で言えないので、次のように答えた。歴史とは、昔在った事柄で、かつ粘土板に記されたものである。この二つは同じことではないか。
書漏らしは? と歴史家が聞く。
書洩らし? 冗談ではない、書かれなかった事は、無かった事じゃ。芽の出ぬ種子は、結局初めから無かったのじゃわい。歴史とはな、この粘土板のことじゃ。
若い歴史家は情けない顔をして、指し示された瓦を見た。それはこの国最大の歴史家ナブ・シャリム・シュヌ記す所のサルゴン王ハルディア征討の一枚である。
ボルシッパなる明智の神ナブウの召使い賜う文字の精霊共のおそろしい力を、イシュディ・ナブよ、君はまだ知らぬとみえるな。文字の精共が、一度ある事柄を捉えて、これを己の姿で現すとなると、その事柄はもはや、不滅の生命を得るのじゃ。反対に、文字の精の力ある手に触れなかったものは、いかなるものも、その存在を失わねばならぬ。
太古以来のアヌ・エンリルの書に書上げられていない星は、なにゆえに存在せぬか? それは、彼等がアヌ・エンリルの書に文字として載せられなかったからじゃ。大マルズック星(木星)が天界の牧羊者(オリオン)の境を犯せば神々の怒りが降るのも、月輪の上部に蝕が現れればフモオル人が禍を被るのも、みな、古書に文字として記されてあればこそじゃ。
古代スメリヤ人が馬という獣を知らなんだのも、彼等の間に馬という字が無かったからじゃ。この文字の精霊の力ほど恐ろしいものは無い。君やわしらが、文字を使って書きものをしとるなどと思ったら大間違い。わしらこそ彼等文字の精霊にこき使われる下僕(しもべ)じゃ。しかし、また、彼等精霊のもたらす害も随分ひどい。わしは今それについて研究中だが、君が今、歴史を記した文字に疑いを感じるようになったのも、つまりは、君が文字に親しみ過ぎて、その霊の毒気にあたったためであろう。
若い歴史家は妙な顔をして帰って行った。老博士はなおしばらく、文字の霊の害毒があの有為な青年をも損おうとしていることを悲しんだ。文字に親しみ過ぎてかえって文字に疑いを抱くことは、決して矛盾ではない。先日博士は生来の健啖に任せて羊の炙肉をほとんど一頭分も平らげたが、その後当分、生きた羊の顔を見るのも厭になったことがある。
青年歴史家が帰ってからしばらくして、ふと、ナブ・アヘ・エリバは、薄くなったちぢれっ毛の頭を抑えて考え込こんだ。今日は、どうやら、わしは、あの青年に向って、文字の霊の威力を讃美しはせなんだか? いまいましいことだ、と彼は舌打をした。わしまでが文字の霊にたぶらかされておるわ。
実際、もう大分前から、文字の霊がある恐しい病を老博士の上にもたらしていたのである。それは彼が文字の霊の存在を確かめるために、一つの字を幾日もじっと睨み暮した時以来のことである。その時、今まで一定の意味と音とを持っていたはずの字が、忽然と分解して、単なる直線どもの集りになってしまったことは前に言った通りだが、それ以来、それと同じような現象が、文字以外のあらゆるものについても起るようになった。
彼が一軒の家をじっと見ている中に、その家は、彼の眼と頭の中で、木材と石と煉瓦と漆喰との意味もない集合に化けてしまう。これがどうして人間の住む所でなければならぬか、判らなくなる。人間の身体を見ても、その通り。みんな意味の無い奇怪な形をした部分部分に分析されてしまう。どうして、こんな恰好をしたものが、人間として通っているのか、まるで理解できなくなる。
眼に見えるものばかりではない。人間の日常の営み、すべての習慣が、同じ奇体な分析病のために、全然今までの意味を失ってしまった。もはや、人間生活のすべての根柢が疑わしいものに見える。
ナブ・アヘ・エリバ博士は気が違いそうになって来た。文字の霊の研究をこれ以上続けては、しまいにその霊のために生命をとられてしまうぞと思った。彼は怖こわくなって、早々に研究報告をまとめ上げ、これをアシュル・バニ・アパル大王に献じた。
(切抜抜粋/中島敦「文字禍」より)