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笛吹かず太鼓叩かず獅子舞の あと足になる胸のやすさよ
ー売茶翁
Every individual matters. Every individual has a role to play. Every individual makes a difference.
-Jane Goodall
喜びと悲しみは互いに連続している。双子のようなものだ。人間万事塞翁が馬、禍福はあざなえる縄のごとし、だから、深く人生を知るものは喜んでも、多く喜ばない。悲しんでも、多く悲しまない。
故事にある、その昔、唐に北叟(ほくそう)という老人がいた。君に仕えて名利を貪るような心もなければ、私利を営んで財宝を蓄える思いもない。ただ、都の北に庵を結んで身を宿し、麻の衣を着て寒さをしのぎ、草を摘み実を拾って日また日を送った。
喜ぶべきことを聞いても少しく笑う。憂うべきことを聞いても少しく笑う。畢竟、人間の事は喜びも憂いも、久しいものではない。是非、善悪、すべて夢になってゆくという、無常の理を知っていたからである。俗に、少しく笑うことを「ほくそ笑み」というのはここから出た言葉だという。
2004年の9月15日から始めたこのブログの最初が猫の「寅」であった。
過日、寅をゴミ捨て場から拾ってきた娘に娘が出来、婆さんがその世話のため暫く家を空ける日の前日、寅は17年の生涯を終えた。
孝行猫である。喜び悲しみもさることながら私は静かにほくそ笑んだ。
ほくそ笑む、と、ほくそ笑み、は違うものだということにわたしはうすうす気づきつつあるような気がする。
不顧が茶は無茶なり。有茶に対する無茶にはあらず。
然るに無茶ということは何ぞや。若し人無茶の佳境に入り給わば無茶はすなわち大道なり。
道に生死迷悟是非取捨の備えなし。備えなきの域に至らば無茶の道なり。備えなきを知って行うは無茶の徳なり。
されば貴きことも無茶の道より貴きはなく、美なることも無茶の徳より美なるはなし。
-誠拙禅師
知らずにあるがままのおこないが無茶である。生死迷悟是非取捨を知りつつおこなうのは、それはヤンチャであり、しまいにワヤクチャとなるのである。ということであろうか。
ああしてそうしてこうすれば こうなることとはしりつつも ああしてそうしてこうなった。
(cartoon/Shigeru Mizuki)
まだ吉原在りしの時分のこと、容姿は人並み以下なのにとても売れっ子の花魁がおったそうだ。
絢爛豪華容姿端麗のを押しのけての贔屓万来であったという。
皆が「なぜ?」と問えばその花魁はこういったという。
「皆は自分に惚れさせようとしりゃんす。人にはすき好みもありんす。そうではなくて、お客がお客を好きになるようにすればよござんす」
つまり、自分を売り込まずに、お客のいいところを心よりほめて気持ち良く自分に自信を持って自分を好きになるように過ごしてもらうということだ。
その昔、ナルシスと言う男は自分の顔を川面に見てそれに惚れこんで自分を糞づまりにしたという悲劇もあるが、
あるボス犬が不敵に暮らして御馳走を盗るがままにしていた。その日も仲間からぶんどった獲物を口にくわえて歩いていてふと橋の上から川面を観た。そこに美味そうなものを咥えている犬を観て吠えかかった。ポチャン。元も子もなくなったということである。
これらの噺にはいやに共通することがあるようだ。
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刹那はサンスクリット語で意味は念頃だという。
信念が始まるまでの時間の長さを指すようだ。
ユクスキュルによると、「われわれ人間の時間は、瞬間、つまり、その間に世界がなんの変化も示さないような最短の時間の断片がつらなったものである。一瞬がすぎゆく間、世界は静止している。人間の一瞬の長さは十八分の一秒である」ということになる。
映画のコマも18分の一秒で、それ以上を我々は瞬間瞬間としては認識できず、一蓮托生と感得するらしい。
18分の1秒は、約0.056秒である。一刹那は、75分の一秒と言われもするから、凡人の感覚を超えている。
ー色即是空空即是色茶屋達磨詠うも舞うも般若波羅密。
南無煩悩大菩薩、どうしようもないわたしのなりわい。
《心經》Heart Sutra - 王菲 Faye Wong
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タクシーを捕まえようとして、駆け足で走れば「自動的に」心拍数が上がる。
聴衆の前に立って話をしようとすると「自然に」副腎からアドレナリンが分泌される。
魅力的な異性を見ると「反射的に」瞳孔が拡張する。
自動的に、自然に、反射的にとは、身体の自動システムが環境の変化に反応するときの様子を表した言葉である。
その様子を抱いて生きている。先祖の墓参さえ思う様子にならないこの夏にしても。
Chris Rea ~ Looking For The Summer (1991)
(gif/source:https://www.newpaltz.k12.ny.us/domain/1134)
ここでちょっとお話したいのですが、人を斬る呼吸ですな。これはとても一朝一夕にお話は出来ませんし、先祖伝来の秘伝もありますが、もとより万物の霊長の首を斬るのですから、気合呼吸、こいつに真念覚悟ということが何より大事なのです。
それゆえ刑場へ参りますと多くは罪人のほうを見ません。罪人を見るとどうもいけませんから、まず自分の役廻りとならない間は、刀を手挟んで空を仰いだり草木を眺めたりしています。
さてそうしているうちに用意万端が整って、よろしいとなると、いきなり罪人の側へ出まして、ハッタと睨み付け「汝は国賊なるぞッ」といって一歩進める。途端に柄に右手をかけます。
これは今まで誰にも口外しませんでしたが、この時涅槃経の四句を心の内で誦むのです。
第一柄に手をかけ、右手の人差し指を下ろすとき「諸行無常」中指を下ろすとき「是生滅法」薬指を下ろすとき「生滅滅巳」小指を下ろすが早いか「寂滅為楽」という途端に首が落ちるのです。
-明治百話「首斬朝右衛門」より
いずれ逝くであろう私の墓床の近くには、人斬り以蔵の墓がある。
防人の詩 ナターシャ・グジー / Sakimori no Uta by Nataliya Gudziy
かたつむりは、精妙な構造の殻を幾重もの渦巻に広げると、そのあとは習熟した殻つくりの活動をぱたりとやめる。
渦巻を一重増やすだけで、殻の大きさは16倍にもふえてしまう。そうなると、この生き物には目方の負担がかかりすぎて、かたつむりという安定した暮らしに貢献するどころか、生産を少しでも増やすと、目的に従って定められた限界以上に殻を大きくするすることからくる困難に対処する仕事のために、文字通り重みがかかりすぎるという結果になるのである。
この点で、過剰成長からくる問題は幾何級数的に増大し始めるのに対し、かたつむりとしての生物の能力はせいぜい算術級数的にしか大きくならない。
-イヴァン・イリイチ「ジェンダー 女と男の世界」より
Alpha Blondy - I Wish You Were Here
それはそうと、ヤドカリと呼ばれる生き物がいる、彼らは成長に合わせて捨てつつ改めつつ生きる。
そもそも疑問の神髄は、オープンマインドかつ気付き気遣い思いの汎用拡大による神妙の境地においてふつふつと沸きふたるもののように思います。
君はどうして、どうして君をしなくてはいけなかったか、このような疑問であります。
わたしはどうして、わたしをちゃんと知ることが出来なかったか、このような疑問であります。
しかし、君について、わたしについて、知る前提が狭ければその疑問にさえも限界を感じます。
自分の身上以上の、疑問がなぜ発想できないのか、そこに疑問の余地があるとは思えません。
私がその若者に出会ったのは精神病院の庭の中だった。彼は青白く、愛らしく、驚きに満ちた顔をしていた。
私は彼の隣のベンチに腰掛け、こう言った。「なぜ、あなたはここにいるのですか?」
彼は驚いて私を見つめ、こう答えた。
「それはここではふさわしからぬ質問ですが、お答えしましょう。私の父は私を自分の複製品にしたいと思っていました。叔父も同じように考えていました。母は私に彼女の高名な父親の生き写しであることを望みました。姉は船乗りの夫を私が手本とすべき完全な規範として挙げました。兄は私が彼のように、立派な運動選手になるべきだと思っていました。
私の先生方もそうでした。哲学教授や音楽の先生、倫理学者は、そろいもそろって皆私を鏡の中の自分の顔の像に仕立て上げようと堅く決心していたのです。そういうわけで、私はこの場所に来ました。ここの方がよっぽど正気だということも分かりました。少なくとも私は私自身でいられます」。
そして突然、彼は私の方に振り向いてこう言った。「あなたはどうなのです?あなたも教育とよき指導のせいでここに追い込まれたのですか?」
私は答えた。「いや、私は訪問者なのです」
すると彼は言った。「ああ、あなたはあの壁の向こうの精神病院に住む人々の一人なのですね」
ーカリール・ジブラン「漂泊者」より
ある日眼が言った。「谷をいくつも越えたところに。青い霧に覆われた山が見える。美しいと思わないか?」
耳はそれを聞き、しばらく熱心に聞き耳を立て、しかる後にこう言った。「でも山なんかどこにあるんだい?僕には聞こえないよ」
すると手が語って言った。「君の言う山を触れたり感じたりできるか試したが、だめだった。僕には山が感じられないよ」
そして鼻が言った。「山なんてないよ、そんな匂いはしないもの」
それから眼はそっぽを向いてしまった。他のものはみんな、眼のおかしな惑乱について議論し始めた。彼らは言った。
「眼はどうかしてしまったに違いない」 -カリール・ジブラン「漂泊者」より
六識(眼耳鼻舌身意)には、それぞれ相手があるものです。
眼には色、耳には声、鼻には臭、舌には味、身には触、意には法(ああはならぬ、こうはならぬという類)、これを六塵という。
目は視るが役、耳は聴くが役、しかも視れども何の色と知らず唯視るのみ、聴けども何の音と知らず唯聴くのみ、これを分別するものは意識でございます。
しかれども、得て悪いほうへ傾き易い意識なれば、俺が俺がが主になって、身贔屓身勝手に使われますと、分別も正しく働かぬのみかかえって固有の明徳を覆い隠して、さまざまの悪しきこと思いつくようになりまする。
「平常の心こそが道である」
「やはり努力してそれに向かうべきでしょうか」
「いや、それに向かおうとすると逆に逸れてしまうものだ」
「しかし、何もしないでいて、どうしてそれが道だと知ることができるのですか」
「道というものは、知るとか知らないとかというレベルを超えたものだ。知ったといってもいい加減なものだし、知ることができないと言ってしまえば、何も無いのと同じだ。しかし、もし本当にこだわりなく生きることができたなら、この大空のようにカラリとしたものだ。それをどうしてああだこうだと詮索することがあろうか」
春に百花あり 秋に月あり 夏に涼風あり 冬に雪あり もし閑事を心頭に掛けねば いつでもこれ人間の好時節
-無門関
春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪冴えて涼しかりけり
と詠んだのは道元禅師であった。
平常心是道。