人は折々裏腹の表情を見せる。
表情の裏にあるもの、心の躊躇に焦点を当てる。
例えば認知症の人が歩き回るのがなぜ問題なのか。不用意に歩かれて困る人が周りに存在するからだ。
言葉そのものででなく、誰かが乱暴な言葉と決めつけて初めて、それは暴言と呼ばれるようになる。
優劣は、そこに優と劣の線を引かない限り存在しない概念でしかない。
そんなここんなを待つ心の庵、それが妙喜庵である。
人は折々裏腹の表情を見せる。
表情の裏にあるもの、心の躊躇に焦点を当てる。
例えば認知症の人が歩き回るのがなぜ問題なのか。不用意に歩かれて困る人が周りに存在するからだ。
言葉そのものででなく、誰かが乱暴な言葉と決めつけて初めて、それは暴言と呼ばれるようになる。
優劣は、そこに優と劣の線を引かない限り存在しない概念でしかない。
そんなここんなを待つ心の庵、それが妙喜庵である。
(photo/source)
笛吹かず太鼓叩かず獅子舞の あと足になる胸のやすさよ
ー売茶翁
Every individual matters. Every individual has a role to play. Every individual makes a difference.
-Jane Goodall
喜びと悲しみは互いに連続している。双子のようなものだ。人間万事塞翁が馬、禍福はあざなえる縄のごとし、だから、深く人生を知るものは喜んでも、多く喜ばない。悲しんでも、多く悲しまない。
故事にある、その昔、唐に北叟(ほくそう)という老人がいた。君に仕えて名利を貪るような心もなければ、私利を営んで財宝を蓄える思いもない。ただ、都の北に庵を結んで身を宿し、麻の衣を着て寒さをしのぎ、草を摘み実を拾って日また日を送った。
喜ぶべきことを聞いても少しく笑う。憂うべきことを聞いても少しく笑う。畢竟、人間の事は喜びも憂いも、久しいものではない。是非、善悪、すべて夢になってゆくという、無常の理を知っていたからである。俗に、少しく笑うことを「ほくそ笑み」というのはここから出た言葉だという。
2004年の9月15日から始めたこのブログの最初が猫の「寅」であった。
過日、寅をゴミ捨て場から拾ってきた娘に娘が出来、婆さんがその世話のため暫く家を空ける日の前日、寅は17年の生涯を終えた。
孝行猫である。喜び悲しみもさることながら私は静かにほくそ笑んだ。
ほくそ笑む、と、ほくそ笑み、は違うものだということにわたしはうすうす気づきつつあるような気がする。
不顧が茶は無茶なり。有茶に対する無茶にはあらず。
然るに無茶ということは何ぞや。若し人無茶の佳境に入り給わば無茶はすなわち大道なり。
道に生死迷悟是非取捨の備えなし。備えなきの域に至らば無茶の道なり。備えなきを知って行うは無茶の徳なり。
されば貴きことも無茶の道より貴きはなく、美なることも無茶の徳より美なるはなし。
-誠拙禅師
知らずにあるがままのおこないが無茶である。生死迷悟是非取捨を知りつつおこなうのは、それはヤンチャであり、しまいにワヤクチャとなるのである。ということであろうか。
ああしてそうしてこうすれば こうなることとはしりつつも ああしてそうしてこうなった。
(cartoon/Shigeru Mizuki)
まだ吉原在りしの時分のこと、容姿は人並み以下なのにとても売れっ子の花魁がおったそうだ。
絢爛豪華容姿端麗のを押しのけての贔屓万来であったという。
皆が「なぜ?」と問えばその花魁はこういったという。
「皆は自分に惚れさせようとしりゃんす。人にはすき好みもありんす。そうではなくて、お客がお客を好きになるようにすればよござんす」
つまり、自分を売り込まずに、お客のいいところを心よりほめて気持ち良く自分に自信を持って自分を好きになるように過ごしてもらうということだ。
その昔、ナルシスと言う男は自分の顔を川面に見てそれに惚れこんで自分を糞づまりにしたという悲劇もあるが、
あるボス犬が不敵に暮らして御馳走を盗るがままにしていた。その日も仲間からぶんどった獲物を口にくわえて歩いていてふと橋の上から川面を観た。そこに美味そうなものを咥えている犬を観て吠えかかった。ポチャン。元も子もなくなったということである。
これらの噺にはいやに共通することがあるようだ。
(gif/source)
刹那はサンスクリット語で意味は念頃だという。
信念が始まるまでの時間の長さを指すようだ。
ユクスキュルによると、「われわれ人間の時間は、瞬間、つまり、その間に世界がなんの変化も示さないような最短の時間の断片がつらなったものである。一瞬がすぎゆく間、世界は静止している。人間の一瞬の長さは十八分の一秒である」ということになる。
映画のコマも18分の一秒で、それ以上を我々は瞬間瞬間としては認識できず、一蓮托生と感得するらしい。
18分の1秒は、約0.056秒である。一刹那は、75分の一秒と言われもするから、凡人の感覚を超えている。
ー色即是空空即是色茶屋達磨詠うも舞うも般若波羅密。
南無煩悩大菩薩、どうしようもないわたしのなりわい。
《心經》Heart Sutra - 王菲 Faye Wong
(picture/source)
タクシーを捕まえようとして、駆け足で走れば「自動的に」心拍数が上がる。
聴衆の前に立って話をしようとすると「自然に」副腎からアドレナリンが分泌される。
魅力的な異性を見ると「反射的に」瞳孔が拡張する。
自動的に、自然に、反射的にとは、身体の自動システムが環境の変化に反応するときの様子を表した言葉である。
その様子を抱いて生きている。先祖の墓参さえ思う様子にならないこの夏にしても。
Chris Rea ~ Looking For The Summer (1991)
(gif/source:https://www.newpaltz.k12.ny.us/domain/1134)
ここでちょっとお話したいのですが、人を斬る呼吸ですな。これはとても一朝一夕にお話は出来ませんし、先祖伝来の秘伝もありますが、もとより万物の霊長の首を斬るのですから、気合呼吸、こいつに真念覚悟ということが何より大事なのです。
それゆえ刑場へ参りますと多くは罪人のほうを見ません。罪人を見るとどうもいけませんから、まず自分の役廻りとならない間は、刀を手挟んで空を仰いだり草木を眺めたりしています。
さてそうしているうちに用意万端が整って、よろしいとなると、いきなり罪人の側へ出まして、ハッタと睨み付け「汝は国賊なるぞッ」といって一歩進める。途端に柄に右手をかけます。
これは今まで誰にも口外しませんでしたが、この時涅槃経の四句を心の内で誦むのです。
第一柄に手をかけ、右手の人差し指を下ろすとき「諸行無常」中指を下ろすとき「是生滅法」薬指を下ろすとき「生滅滅巳」小指を下ろすが早いか「寂滅為楽」という途端に首が落ちるのです。
-明治百話「首斬朝右衛門」より
いずれ逝くであろう私の墓床の近くには、人斬り以蔵の墓がある。
防人の詩 ナターシャ・グジー / Sakimori no Uta by Nataliya Gudziy