南無煩悩大菩薩

今日是好日也

ろ。

2020-04-30 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
(picture/source)

水が深ければ、服を脱ぎ泳いで渡る。

浅ければ、裾をまくり歩いて渡る。

櫓は浅瀬では役に立ちません、竿は挿そうとしても深みでは届きません。

時折々に従い、無理してことをやる必要はないのです。

求めても得られぬものは、青空や雨や花咲くころ。求めなくても来るものは生病老死。

それは道理。道理と言うものには従うしかありません。

G minor Bach/ピアノタイル2【オルゴール】
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Numb

2020-04-29 | 意匠芸術美術音楽
(gif/source)

Oh, that’s just how it goes
Risin’, risin’ up
Right until we fall …..

Elderbrook - Numb (Official Video)
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かつてわが悲しみは

2020-04-28 | 世界の写窓から
(gif/source)

かつてわが悲しみは かの丘のほとりにいこへり
かつてわが悲しみは かの丘のほとりにいこへり

五月またみどりはふかく 見よ
かなたに白き鳥のとぶあり

おのが身ははやく老いしか
この日また何にいそぐや

あてどなき旅のひと日の
夕ぐれの汽車のまどべに

かの丘はしづかに來り
かの丘は來りぬかづく

見よかしこに なつかしきかの細路は 木の間をいゆきめぐりたり
見よかしこに なつかしきかの細路は 木の間をいゆきめぐりたり

されど今はなし 今はなし 今はなし
かの遠き日の かずかずのわがもの思ひ

あはれ 今はなし
今はなし げに

あはれげに わが思出はかの丘の木かげに眠れり
あはれげに わが思出はかの丘の木かげに眠れり

-三好達治「かつてわが悲しみは」より

レッツゴーライダーキック(RIDER CHIPS Ver.)
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酒好きの矜(つつし)み

2020-04-27 | 酔唄抄。
(photo/source)

夜おそくまで、おじいさんは仕事をしていました。寒い冬のことで、外には雪がちらちらと降っていました。風にあおられて、そのたびにさらさらと音をたてて、窓の障子にあたるのが聞えました。
家の内に、ランプの火はうす暗く灯っていました。そして、おじいさんが槌で藁を叩く音が、さびしいあたりにおりおり響いたのであります。
 
このおじいさんは、たいそう酒が好きでしたが、貧しくて毎晩のようにそれを飲むことができませんでした。それで夜なべに、こうして草鞋を造ってこれを町に売りにゆき、帰りに酒を買ってくるのを楽しみにしていたのであります。
 
野原も、村も、山も、もう雪で真っ白でありました。おじいさんは、毎晩根気よく仕事を続けていたのであります。
おじいさんは、しんとした外のけはいに耳を傾けながら、「また、だいぶ雪が積ったとみえる。」と、独りごとをしました。そしてまた、仕事をしていたのであります。
 
このとき、なにか窓の障子にきて突きあたったものがあります。雪のかかる音にしては、あまり大きかったので、おじいさんはなんだろうと思いました。
これはきっとすずめかやまがらが、迷って飛んできたのだろう。こう思っておじいさんは障子を開けてみますと、暗い外からはたして、一羽の小鳥が部屋のうちに飛び込んできました。
 
小鳥はランプのまわりをまわって、おじいさんが仕事をしていた藁の上に降りて、すくんでしまいました。
「まあ、かわいそうに、この寒さではいくら鳥でも困るだろう。」と、おじいさんは小鳥に近づいて、よくその鳥を見ますとそれは美くしい、このあたりではめったに見られない-こまどり-でありました。
「おお、これはいいこまどりだ。おまえはどこから逃げてきたのだ。」と、おじいさんはいいました。

こまどりは、野にいるよりはたいてい人家に飼われているように思われたからです。おじいさんはちょうど籠の空いているのがありましたので、それを出してきて口を開いて小鳥のそばにやると、籠に慣れているとみえてこまどりはすぐに籠の中へはいりました。
 
おじいさんは小鳥が好きで、以前にはいろいろな鳥を飼った経験がありますので、雪の下から青菜を取ってきたり、川魚の焼いたのを擂ったりして、こまどりに餌を作ってやりました。
こまどりはすぐにおじいさんに馴れてしまいました。おじいさんは自分の寂しさを慰さめてくれるいい小鳥が家に入ってきたものと喜んでいました。
 
あくる日からおじいさんは、こまどりに餌を作ってやったり、水をやったりすることが楽しみになりました。そして太陽がたまたま雲間から出て、暖かな顔つきで晴れ晴れしくこの真白い世の中を眺めますときは、おじいさんはこまどりの入っている籠をひなたに出してやりました。こまどりは不思議そうに雪のかかった外の景色を頭を傾むけて眺めていました。そして日が暮れてまたあたりがもの寂く暗くなったときは、おじいさんはこまどりの入っている籠を家の中に入れて、自分の仕事場のそばの柱にかけておきました。
 
二、三日すると、こまどりはいい声で鳴きはじめたのであります。それはほんとうに響きの高い、いい声でありました。
おそらくだれでもこの声を聞いたものは、思わず足を留めずにはいられなかったでしょう。おじいさんもかつてこんないいこまどりの声を聞いたことがありませんでした。
 
ある日のこと、酒屋の小僧がおじいさんの家の前を通りかかりますと、こまどりの鳴く声を聞いてびっくりしました。それは主人が大事に大事にしていた、あのこまどりの声そっくりであったからです。主人のこまどりは、雪の降る朝、子供が籠の戸を開けて逃がしたのでした。
「こんなに、いい声のこまどりはめったにない。」
と、主人はいつも自慢をしていました。その鳥がいなくなってから主人はどんなに落胆をしたことでありましょう。
「どこへあの鳥は行ったろう。」と、主人は朝晩言っているのでした。
 
小僧は、思いがけなくこのこまどりの鳴き声を、道を通りすがりに聞きましたので、さっそくおじいさんの家へやってきました。
「お宅のこまどりは前からお飼いになっているのでございますか?」と、小僧は尋ねました。仕事をしていたおじいさんは頭を振って、
「いや、このこまどりは雪の降る寒い晩にどこからか窓の灯りを見て飛んできたのだ。きっとどこかに飼ってあったものが逃げてきたと思われるが、小僧さんになにか心あたりがありますか。」と、おじいさんはいいました。
 
小僧は、これを聞いて、
「そんなら、私の家のこまどりです……。」と、彼は、雪の降る日に子供が逃がしたこと、主人がたいそう悲しがって毎日いい暮らしていることなどを話しました。
おじいさんは、柱にかかっているこまどりの籠をはずしてきました。
「このこまどりに見覚えがあるか。」と、小僧に尋ねました。
 
小僧は、自分が朝晩餌をやったり水を換えてやったこともあるので、よくその鳥を覚えていましたから、はたしてそのこまどりに違いないかどうかと調べてみました。すると、その毛色といい、ようすといい、まったく同じ鳥でありましたので、
「おじいさん、この鳥に相違ありません。」といいました。
「そんなら早くこの鳥を持って帰って主人を喜ばしてあげたがいい。」と、おじいさんはいいました。
 
小僧は、正直なやさしいおじいさんに感心しました。お礼を言ってこまどりを貰って家から出かけますと、外の柱に酒徳利がかかっていました。それは、空の徳利でありました。
「おお、おじいさんは酒が好きとみえる。どれ、主人に話をして、お礼に酒を持ってきてあげましょう。」と思って、小僧はその空の徳利をも一緒に家へ持って帰りました。
 
主人は、いっさいの話を小僧から聞いて、どんなに喜んだかしれません。「おじいさんにこれから、毎日徳利にお酒を入れて持ってゆくように。」と、小僧にいいつけました。
 
小僧は、徳利の中へ酒を入れておじいさんのところへ持って参りました。
「おじいさん、柱にかかっていた徳利にお酒を入れてきました。どうかめしあがってください。」といいました。
 おじいさんは、喜びましたがそんなことをしてもらっては困るからといいました。
「私は、町へ草鞋を持っていって帰りに酒を買おうと思って、徳利を柱にかけておいたのだ。」と、おじいさんはいいました。
小僧は、主人のいいつけだからといって酒の入っている徳利をまた柱にかけて、
「おじいさん、酒がなくなったら、やはりこの柱に空の徳利をかけておいてください。」といいました。
 
おじいさんは酒が好きでしたから、せっかく持ってきたものをと思って、さっそく徳利を取ってすぐに飲みはじめたのであります。
 
酒を飲むと、おじいさんは本当にいい気持ちになりました。いくら家の外で寒い風が吹いても雪が降っても、おじいさんは火の傍らで酒を飲んでいると暖かであったのです。
酒さえあればおじいさんは、寒い夜を夜なべまでして草鞋を造ることもしなくてよかったので、それから夜も早くから床に入って眠ることにしました。おじいさんは眠りながら、吹雪が窓にきてさらさらと当る音を聞いていたのであります。
 
あくる朝、おじいさんは目を覚ましてから戸口に出て柱を見ますと、きのう空の徳利を掛けておいたのに、いつのまにかその徳利の中には酒がいっぱい入っていました。
「こんなにしてもらっては気の毒だ。」と、おじいさんは初めのうちは思いましたが、いつしか毎日酒のくるのを待つようになって、仕事は早く片づけてあとは火の傍らでちびりちびりと酒を飲むことを楽しみとしたのであります。

ある日のこと、おじいさんは柱のところにいってみますと、空の徳利が懸っていました。
「これはきっと小僧さんが忘れたのだろう。」と思いました。
しかし、その翌日もその翌日もそこには、空の徳利がかかっていました。
「ああきっと長いあいだ酒をくれたのだが、もうくれなくなったのだろう。」と、おじいさんは思いました。
おじいさんは、また自分から働いて酒を買わねばならなくなりました。そこで夜は遅くまで夜なべをすることになりました。

「なんでも他人の力をあてにしてはならぬ。自分で働いて自分で飲むのがいちばんうまい。」と、おじいさんは知ったのであります。
 
しばらくたつと酒屋の小僧がやってきました。
「実は、せんだってまたこまどりがどこかへ逃げてしまったのです。もうここへはやってきませんか?」といいました。
おじいさんはそれではじめてもう酒を持ってきてくれないことがわかったような気がしました。
「どうして大事なこまどりを二度も逃がしたのですか。」と、おじいさんは怪しみました。
「こんどは主人が、ぼんやりかごの戸を開けたままわき見をしているうちに外へ逃げてしまったのです。」と、小僧は答えました。
「それがもしおまえさんが逃がしたのならたいへんだった。」と、おじいさんは笑って、

「どんな人間にもあやまちというものがあるものだ。」といいました。

おじいさんは毎晩夜遅くまで仕事をしたのであります。また折々ひどい吹雪もしたのでした。
おじいさんはうす暗いランプのしたで藁をたたいていました。吹雪がさらさらと窓に当る音が聞こえます。
「ああ、こんやのような晩であったな。こまどりが吹雪のなかを灯りを目あてに飛び込こんできたのは。」と、おじいさんはひとり言をしていました。

ちょうどそのとき、おりもおり窓の障子にきてぶつかったものがあります。バサ、バサ、バサ……おじいさんはその刹那、すぐに、小鳥だ……こまどりだ……と思いました。そして急いで障子を開けてみますと、窓のなかへ小鳥が飛びこんできてランプのまわりをまわり、いつかのように藁の上に降りて止まりました。
「こまどりだ!」と、おじいさんは思わず叫んだのです。
 
おじいさんは、このまえにしたように、また、かごの空いたのを持ってきて、その中にこまどりを移しました。それから雪を掘って青菜を取り、また川魚の焼いたのをすったりして、こまどりのために餌をつくってやりました。
 
おじいさんは、そのこまどりはいつかのこまどりであることを知りました。
そしてそれを酒屋の小僧に渡してやったら主人がどんなに喜ぶだろうかということを知りました。
そればかりではありません。おじいさんはこのこまどりを酒屋へやったら、先方はまた大いに喜こんで、いままでのように毎日自分の好きな酒を持ってきてくれるに違いないということを知りました。
 
おじいさんはどうしたらいいものだろうと考えました。
こまどりは、おじいさんの処へ来たのを嬉しがるように見えました。そしてそのあくる日からいい声を出だして鳴いたのであります。
おじいさんは、このこまどりの鳴き声を聞きつけたら今にも酒屋の小僧が飛んでくるだろうと思いました。
 
寒い寂しかった長い冬も、もうやがて逝こうとしていたのであります。たとえ吹雪はしても空の色に早や春らしい雲が晩方などに見られることがありました。
「もうじきに春になるのだ。」と、おじいさんは思いました。
 
山からいろいろの小鳥が里に出てくるようになりました。日の光は日増しに強くなって空に高く輝いてきました。おじいさんはこまどりの籠をひなたに出してやると、さも広々とした大空の色を懐かしむように、こまどりは首を傾むけて止まり木にとまって、じっとしていました。

「ああ、もう春だ。これからはそうたいした吹雪もないだろう。昔は広い大空を飛んでいたものを一生こんな狭い籠の中に入れておくのはかわいそうだ。おまえは籠から外へ出たいか?」と、おじいさんはこまどりに向って言っていました。
こまどりは、しきりに外の世界に憧れていました。そしてすずめや他の小鳥が木の枝にきて止まっているのを見て、羨やましがっているような様子に見えました。
 
おじいさんは、酒屋へ行って籠の中に住むのと、また、広い野原に帰って、風や雨の中を自由に飛んで住むのと、どちらが幸福であろうかと、小鳥について考えずにはいられませんでした。
 
また、酒の好きなおじいさんは、この小鳥を酒屋に持っていってやれば、これから毎日自分は夜なべをせずに酒が飲めるのだということをも思わずにはいられませんでした。しかしおじいさんはついにこまどりに向って、

「さあ、早く逃げてゆけ……そして、人間に捕まらないように、山の方へ遠くゆけよ。」といって、かごの戸を開けてやりました。

もう気候も暖くなったのでこまどりは勇んで夕暮がたの空を、陽の落る方に向って飛んでゆきました。

そののちまた吹雪の夜はありましたけれど、こまどりは、それぎり帰ってはきませんでした。

-小川未明「こまどりと酒」より
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妄念掃えば屈託なし

2020-04-26 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
/鳥山石燕)

むかし飛騨の山中に、檜の木の長枌(ながへぎ)をこしらえ、世渡りとする男がいました。ある日例のごとく、山に入りて、細工をする折から、前なる杉の木の陰に、背の高い山伏が、おもいがけなく立っていました。

かの細工人大いに怪しみ、さても山伏は、天狗そうなと思ううち、かの山伏大声をあげて、「我を天狗そうなと思いおるぞ」と言う。細工人いよいよ怪しみ、これは嫌なことじゃ、早く逃げ帰らんと思えば、かの山伏また声をかけ、「これは嫌なことじゃ、早く逃げ帰らんと思いおるぞ」と言う。

細工人、慌て騒いで、長枌をたわめ、急に荷ごしらえするとき、手が外れて、枌板一枚はずみに飛んで、かの山伏の鼻柱へきびしく当たれば、山伏一驚を食らい、「さてさておのれは、気の知れぬ男かな」と言うかとおもえば、かき消すように失せました。

・・是、かの天狗も、人の念慮の起こるところは、忽(たちまち)に知りますれど、念慮の起きぬさきには、長枌のはじけることは夢にも知らぬ、これ知るべき道理がないによってです。さるによって、一念起こると、天地神明に通じ、世界中へ、筒抜けになりまする。

この一念の萌(きざ)さぬうちは、鬼神も計り知ることができません。

なぜなれば、測り知るべきすべがないからであります。

念慮萌(きざ)されば、鬼神も知ることなし。

-抜粋/「鳩翁道話」より
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目的因

2020-04-22 | 古今北東西南の切抜
(gif/original unknown)

アリストテレスが論じた、物事の四つの原因(アリストテレスの4要因)を説明しましょう。それは、質量因、作用因、形相因、目的因の四つです。

家を建てることを例にすると、質量因とは、素材・材料ですので、木材、石材、鉄骨や釘などに相当します。作用因とは、事象を生起するための操作、力であり、家の場合、大工さん、様々な工作機械の操作に相当します。形相因は設計図に相当します。目的因は、家の場合、誰々さんが住むため、という建築目的に相当します。家の存在理由を問われるなら、目的因は、人が住むためと想定可能でしょう。

しかし例えば、熱帯低気圧の存在理由、カブトムシの存在理由、わたしの存在理由、と言われるとき、目的因とは何なのでしょうか。質量因、作用因、形相因については指定できます。熱帯低気圧の質量因は、それを発生させる局所的な気圧配置であり、形相因は流体力学、作用因は、結果的に熱帯低気圧をもたらすまでの、エネルギー供給などとなるでしょう。カブトムシもわたしも、同様に、質量因、作用因、形相因はなんとかなります。

目的因はどうでしょう。熱帯低気圧やカブトムシ、わたし自身は、なんらかの存在理由があって存在しているとは思えません。それらの存在を手っ取り早く納得させるような理由はみつからない。それらは、それ自体として存在するという事実だけでしか、その存在を根拠づけられない。むしろ、「存在それ自体」こそが、目的因だと思われるのです。

-郡司ペギオ幸夫「天然知能」

翻って、新型でも旧型でも今はやりのウィルスについてはどうでしょう。

質量因は一万分の一ミリくらいで細菌と比べ生物と呼べるかどうかもまだよくわからない。作用因は何らかの都合で宿主を必要として活動し共生を目指しながら、形相因はある種のたんぱく質に覆われているRNAと呼ばれるもので・・・、なるほど、質量因、作用因、形相因はなんとかなりそうです。目的因はどうでしょう。

熱帯低気圧やカブトムシ、わたし自身とおなじように、なんらかの存在理由があって存在しているとウィルス氏自身も知る由なきに違いありません。

目的は「存在それ自体」、というところに妙にひかれている今日この頃です。

ART OF NOISE: MOMENTS IN LOVE (THE ORIGINAL)
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創発的特性

2020-04-21 | 日日是好日。
(picture/Here today, gone tomorrow.)

渋滞を緩和しようと道路の本数を増やすと、実際には渋滞が悪化するかもしれない。というのも、道路が増えれば、より多くの人が道路を使おうと思うからだ。

これはシステム理論の研究者が「創発的特性」と呼ぶ現象だ。

ひとついいたいことがある。

今日はここに有るが、明日にはもう無い。

ということについて。

Ólafur Arnalds - Árbakkinn ft. Einar Georg
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えらいこっちゃで進歩する。

2020-04-18 | つれづれの風景。
(gif/source)

周囲の環境が動的かつ予測不可能かつ前例のない形で進展するときがある。

そんな状況下でこそ、個々人に常に実験を繰り返せしうる安心感と、選択の自由を容認し、進歩を促すべき機会である。

人生の方から欲しいものが何なのか、訪ねてくれるわけではない。人生は選択肢を提示するだけである。

ということを自覚するには憚りながらも良い機会がおとずれているとみるべきだろう。

ええこともわるいこともいつまでも続いたことはかってないようだから。
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異なる必需品の定義

2020-04-16 | 古今北東西南の切抜
(picture/source)

ほとんどの国においてスーパーマーケット、薬局、銀行は営業を続けている。その他どのような店が営業を許されているかは、政治家の判断によるものが大きい。

お酒は必需品だろうか。ペンシルバニア州やインドではそうではない。これらの地域の居酒屋は閉まっている。だがフランスのワイン専門店は営業している。

また、オランダとカリフォルニア州では大麻ショップも営業を認められている。カリフォルニア州の大麻販売額は三倍に増加した。マリファナ愛好家は、家族と共に家に閉じ込められ、人生について思いを巡らせているのだろう。

ベルギーでは書店の営業が許可されているが、英国では閉鎖を命じられている。「(書店が市民にとって重要なのは)スーパーマーケットや薬局となんら変わらない」といった訴えも、功を奏さなかった。対照的なのがフランスで、書店の営業を例外的に許可しようとしたところ、書店組合はアマゾンやスーパーマーケットでの書籍販売を中止することを条件に、営業禁止令を継続してほしいと要請したという。

クリーニング店やコインランドリーは、ニューヨークを含めてほとんどの地域で営業を続けている。だが、こざっぱりとした身なりでいることは、不要不急のニーズではない。欧州の多くの地域で、理美容院は閉められている(ただ、ドイツでは営業が続けられていた)。業界団体も理美容師が顧客に触れないでいるのは極めて難しいと、引き続き休業を命じるよう政府に要請している。休業すれば従業員の人件費を政府の賃金保証制度で肩代わりできるので、経費を抑えることができる。

韓国は商店に休業を命じる厳しい措置は取っていない。だが営業を続けるスポーツクラブやナイトクラブなどは、来店者記録を作成し、客同士が一定の距離を維持するようにしなければならない。施設内で感染者が出た場合は、施設側が治療費を負担する義務を負うという。

食料品店以外の商業施設は、たとえ営業を継続していても客足は落ちるだろう。人々は子育てと在宅勤務を両立しなければならない。所得を失った人もいるし、もうすぐそうなる人もいる。景況感は落ち込むばかりだ。したがって景気が回復するまで、政府の支援に頼る方が得策だと、多くの商店の経営者が考えるのも自然な流れといえよう。

-切抜/2020 The Economist Newspaper Limited May.28-Apr.3 2020
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詩情・・beating.. It’s beautiful.

2020-04-14 | 意匠芸術美術音楽
gif/a kiss view on IRM )

見えぬために無視される完璧なダイヤモンドもある。

逃げているはずの死が慌てず隣を走っている。

ー床にまで詩を書いてある。床では書いた詩は消えるじゃないかー

すべては消える。魂もそれを望んでいる。

それでいいんだ。夢も消えていく。俺たち自身も少しずつ ー溶けていく。

空を飛ぶ鷲の影が地面に残らないのと同じなんだ。

ーsource/ Poesía sin fin

Pascal comelade L'Argot del Soroll
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従容として道に中る

2020-04-13 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
(picture/source)

天の命これを性という、性に率うこれを道という、道を修むる之を教えという。-中庸

中庸では、従容(しょうよう)として道に中(あた)るは聖人なりと云っている。

従容とは、無造作、無分別、無知、無心のことで、ただ、何ともなく、時に中るの自然の妙を云う。

誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり。誠は天理自然の道、すなわち本心の事。

本心を思い、本心のごとくありたい、と顧みるのがこれを誠にする人の道。

誠は勉めることなく中るを思わずとも得るとは、何の造作もなく、また思慮分別もいらず、唯本心の指図に従えば、萬(よろず)のことみな程よく出来る。

これですでに中庸に叶うので、はなはだ楽である。この楽な味が、すなわち聖人の心持である。

これこのこころもち、楽というものなのであります。
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僕らはどう生きるか。

2020-04-12 | 古今北東西南の切抜
picture/original unknown)

生き残るものと死ぬものを選別するのは誰なのか。

新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、人類はもう一つの厳しいジレンマに直面しつつある。

イタリアの現状はこれを垣間見せている。問題の本質は、以下のように要約できる。

医師Aの手元には人工呼吸器が一台しかない。だが、コロナウィルスに感染し重篤化している患者は二人いる。最初に到着したのは患者B。65歳で既に職から退いている。この患者が生き延びられる確率は小さいものの、ゼロではない。患者Bは今、人工呼吸器を装着することで生命を維持している。患者Cは35歳の教師だ。患者Bよりも後に病院に到着した。病状は急速に悪化しているが、人工呼吸器をつければ回復する確率は大きいと判断される。

このような板挟みに直面した時、多くの人はおおむね次のような実利的な見方をすると筆者は考えている。

医師は人工呼吸器を患者Cにつなぎ替えるのが正しい選択だろう。恐らく、つなぎ替えるよう医師に強いるべきだとの意見もあるの違いない。

医師は、命を守るとの崇高な誓いの下に、懸命な努力をする。患者Cに人工呼吸器を付け替えることは、その誓いを実現するのに最も蓋然性の高い方法と考えられる。

次に、この選択を違う視点から見てみよう。患者Bはあなたの両親の一方だ。患者Cに人工呼吸器を付け替えるにあたって、医師は患者Bの家族であるあなたに人工呼吸器を停止する許可を求める。もし許可を与えれば、あなたの母親もしくは父親が生き続ける可能性は完全に断たれる。わずかとはいえ、確かに存在する可能性だ。あったかもしれない残り20年ほどの人生を奪い去ることになる。

筆者が実施したまったく科学的ではない調査は、多くの人々、もしくはほとんどの人々が、この時点で考えを変えることを示唆している。一般的な倫理による判断と、大切な人に関わる生と死の選択は全く別だ。親は子供を守るためなら、自らの命も含めて、すべてを犠牲にすることをいとわない。そうした例を、我々はしばしば目にする。他方、患者の子供たちは、重篤な状態に陥った年老いた両親の命を少しでも長らえさせるべく、あらゆる措置を講じてほしいと懇願する。筆者は複数の医師からこのように聞いた。

人工呼吸器をめぐるこのジレンマが先進国の病院においても今現実のものとなり得ている。そこで重要な問題に答えなければならない。神に代わってこの判断を下す役割を我々はだれに求めるのだろうか。

イタリア北部のロンバルディア州では、ウィルスの感染スピードがあまりにも速いため、設備が十分に整った医療センターでさえ、危機に瀕している。もはや長々と議論する時間は残されていないと思われる。同州の動向を伝えるメディアの報道によれば、病院と医師は医療配分に関して拙速な決定をせざるを得ない状況にある。報道されたインタビューから判断する限り、医師は皆、まず年齢を判断基準にする。人工呼吸器は衰弱した高齢者よりも、若くて比較的健康な患者に適用される。

多くの国において、医師の組織や病院、医療当局は、限られた医療資源を患者間でいかに配分するかについて倫理面での手順を定めている。

先進国以外では、こうした哲学的な論争は通常あまり意味をなさない。世界の人口の最も大きな比率を占める地域においては、こうした選択はそもそも存在しない。何十億人もの人々が、基本的な医療も受けられない国では、いったい何台の人工呼吸器があるというのだろう。新型コロナウィルスが本当の恐怖を人々に見せつけるのは感染が南半球に広がってからだ。

先進国に話をもどそう。既存の手順は、最も多くの人の命を守るという実利的な目的に基づく。この手順が今、パンデミックという新たな用途に適用されているようだ。このことは、患者Bが人工呼吸器の使用を諦めて患者Cに譲ることを意味する。しかしながら、このことが今後、声高に語られるとは思えない。誰もこの二者択一を目の当たりにしたくはないだろうからだ。

先頃、アンドリュー・クオモ米ニューヨーク州知事は次の質問を受けた。「重症患者が増えて人工呼吸器の数が足りなくなった時、ニューヨーク州はどのような選択をするのか」。同知事は、次のように答えた。「そのような質問に答えざるを得ない状況に追い込まれたくなかった」。あらゆる国の政治家は同じ思いを抱いているだろう。

パンデミックが広がるなか、重篤な患者の家族が命の選択を迫られれば、そして迫られる時、人間の感情の前に、冷徹な実利的論理など吹き飛んでしまうだろう。政治家はそのことを知っている。

モノゴトは曖昧なままにしておく方が好ましい。必要ならば、誰かに責任を転嫁する。我々の多くはおそらく、医師が神の役割を果たすことに満足している。ただし、責任を共有するよう医師が我々に期待しない限りにおいてだ。

それは明らかに不公平だろう。

-切抜抜粋/2020 The Economist Newspaper Limited Apr. 4-10,2020「医療崩壊、救うべき人をだれが選ぶ」日経ビジネス,より-
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緩歩大明神

2020-04-10 | 世界の写窓から
(Water bear (tardigrade)/source)

手のひらを太陽に tiebao
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危険と機会を分かつのチカラ

2020-04-07 | 古今北東西南の切抜
(quote/Ramana Maharshi)

メタ認知能力(Metacognition)、

意味のあるタイミングで、自分が考えていること、感じていること、そして感知していることをシンプルに観察する能力である。

例えて言えば、流れの急な川から崖に上がる能力のようなもので、それによって実際に何が起こっているのかを把握することができる。

それができれば、自分の考え、感情、感覚、そして衝動を正しく観察することができる。

メタ認知がなければ、私たちは無自覚なまま、自動操縦されるがまま行動し続けるしかない。


現実を受容する能力(Allowing)、

起こっていることを、起こっているままに受け入れる能力である。

自分に対しても他者に対しても、オープンで柔らかい態度で経験と向き合うということだ。

受け身の姿勢や弱さの表れではなく、過ぎゆくこの瞬間に生起していることを直視する能力である。

これができなければ、自分や他者を批判的に見てしまい、実際に何が起こっているかを見誤ることになる。


今そこにある危機とは、危険と機会の同居でもある。

ある出来事が起きたか、あるいは起きなかったか、ということが問題なのではない。あらゆるできごとは起こり得る。

重要なのは起こったことの体験から自分が何を学べるかに意識を向けることだ。
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知悉し得ぬところ

2020-04-06 | つれづれの風景。
picture/koukei kojima)

様々のことおもいだす桜かな –芭蕉

たとえば、誰かが「雨が降りそうだよ」と言ったとき、それは次のようなことを伝えたかったのかもしれません。「だから傘を持って行ったほうがいいよ」。

またそうではなくて、「ずっと雨が降っていなかったから、これで畑の野菜も助かるねぇ」と言いたかったのかもしれません。
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