魂よ 謎を解くことは お前にはできない
さかしい知者の立場になることはできない
せめて酒と盃でこの世に楽土を開こう
あの世でおまえが楽土に行けるとは決まっていない
いつまで一生をうぬぼれておれよう あるなしの論議などに耽っておれよう
酒を呑め
こう悲しみの多い人生は 眠るか酔うかして過ごしたがよかろう
魂よ 謎を解くことは お前にはできない
さかしい知者の立場になることはできない
せめて酒と盃でこの世に楽土を開こう
あの世でおまえが楽土に行けるとは決まっていない
いつまで一生をうぬぼれておれよう あるなしの論議などに耽っておれよう
酒を呑め
こう悲しみの多い人生は 眠るか酔うかして過ごしたがよかろう
昨日夜半こんな夢を見た。
どこかで聞き齧っていたのだろう、隣の酔っ払いが私に説教をした。
「いいかい、仕事は金脈じゃない人脈だぞ。人脈の中から金脈を探せよ、金脈の中から人脈を探すなよ」。
いやにリアルであった。この頃深酒をしていないせいかも知れない。
ついでに金脈の脈絡でカーネギーのこんな言葉も思い出した。
「人間は金の採掘と同じ方法で開発される。一オンスの金を採掘するのに数トンの土砂を取り除かなければならないが、土砂を求めて鉱山に入るのではなく、金を求めて鉱山に入るのである」。
・・ところで残念ながら未来のスナックの勘定、どちらが金主になったのか、夢はさめた。
酒に逃げるのは、酒飲みとしては禁忌である。
それゆえ、酒飲みは、隠喩、暗喩、揶揄、比喩、換喩、を駆使してそれと共に生きるのである。
酔うたり醒めたりあればこその人生である。
喩:①たとえる。たとえ。 ②さとす。教えさとす。①②諭 ③よろこぶ。やわらぐ。
(picture/source)
それは酒である。
百薬の長といわれたり、般若湯といわれたり、酒中の趣人知らずなどと謳歌されたり、酒は神秘教の象徴である。
酒に宗教があり、詩があり、精神の良薬であるなどというと、この詩趣神秘を知らぬ人は不思議に思うだろう。もっともである。彼らは飲酒の本来の意義を忘れたのみならず、また解するだけの宗教心もない。
ここにひとり酒の理解者がいる。普段はいかにも戦々恐々としている、まことに温良で模範的な人物である。
ところが、一杯やると忽然として人物が違ってくる。その妙所に入るときは、本来の面目をいかんなく発揮する。洒脱自在の活人物が現れる。
今まで自分で作った縄に縛られかしこまっていた男が、ただちに無限者へと進化し、まわりもまきこまれる。
第一に自他の区別を超越する。すなわち空間的に自在となる。
それから時間に囚われなくなる。時計が5分10分1時間2時間と刻みゆくのを何とも思わない。つまりだらしなくなる、電車に間に合わなくても構わない。それで時間の制約を飛び越える。
酔っても酔っていないという、明日のことを考えない、借金を忘れる、王侯の前でも憚らない、この男はこれで完全に道徳や因習や因果をその足の下に踏みにじる。
こんな人間は自在者、無限者でなくて何であろう。昔から酒が感傷的な人に好かれ、また日々労働の圧迫に堪えた人に好かれるのももっともなことではないか。
有限から無限へのあこがれが宗教であり、芸術であるなら、酒飲みは宗教そのもの、芸術そのものである。
晩酌を少しやると薬になるなどといって飲む連中はけちな連中である。酒は有限から無限に至る道行であることを忘れて、有限の生命に肥料するなどは、信心が足りない。
しかしそれでもなにか陶然としてくるなら、自覚はないとしても有限の拘束を離れた気分になるそこに、一種の美的趣がないとはいえない。この点からみると酒はその材料の穀物と同様、人間に必要なものかもしれないので、あまり税をかけないほうが良いと思われる。
と、誰だったかは知らんけどそんなことをある酒飲みがゆうておった。
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そんな、夢を見た。今の年老いた脳みそでありし日の若者の身体を持っているような。その時の誰やらも知れない夢の相方との会話を思い切り脚色してみるとこんな感じであったような気もするものの定かではない・・・なにしろ夢でも確かに酔っぱらいであった。
ーある種の人間関係の理想はバーで気付いたりする。なんていうか傍若無人と敬意とが両立する場所とでも言えるようなところや。
なるほど、たとえば人間関係を先験的に友・敵に分けるという意識は、好きなものと怖いものという二通りの反応しか知らない幼児の段階に後退しているようなものやからね。
せや、その結果、他人との関係が貧しくならざるを得んのですわ。他人を他人として認める能力、実り豊かな対立の才能、反対者を包み込むことによって自分自身を超える可能性といった面が退化することになるおもいます。
つまり、黒白いずれかを選び取るのではなく、所定の選択の圏外に出るのが酔いの良さであり、自由な関係の理想とするところもそこらへんあるんやろね。
その観点からすれば、最善の人間でも比較的ましな災厄のようなもの、逆に極悪人でも最大の悪ではないというようなところに落ち着いてしまいますわな。
ん、自然体の人間関係ほど愉快なものはおまへん。なぜなら、人間そのものの方が人間観で作った文化より上等やさかい。ー
おい、おい、じいさん、壊れかかってるんちゃうんかい、と思ったりしとる次第です。
Sinéad O'Connor - Downpressor Man (reggae)
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僕は毎日酒を飲む。そして次の朝には必ず後悔する。しかし、後悔しながら酒を飲むからこそ僕は詩人なんだ。
萩原朔太郎さんはそういいつつ酒を飲んだ。また「酒に就いて」彼はこんなことも書き残している。
酒といふものが、人身の健康に有害であるか無害であるか、もとより私には医学上の批判ができない。だが私自身の場合でいえば、たしかに疑いもなく有益であり、如何なる他の医薬にもまさつて、私の健康を助けてくれた。私がもし酒を飮まなかつたら、多分おそらく三十歳以前に死んだであらう。青年時代の私は、非常に神経質の人間であり、絶えず病的な幻想や強迫観念に悩まされていた。そのため生きることが苦しくなり、不断に自殺のことばかり考えていた。その上生理的にも病身であり、一年の半ばは病床にいるほどだつた。それが酒を飮み始めてから、次第に気分が明るくなり、身体の調子も良くなってきた。酒は「憂いを掃う玉箒」というが、私の場合などでは、全くその玉箒のお蔭でばかり、今日まで生き続けて来たようなものである。
酒が意志の制止力を無くさせるという特色は、酒の万能の效能であるけれども、同時にまたそれが道徳的に非難される理由になる。実際酔中にしたすべての行為は、破倫というほどのことでなくとも、自己嫌忌を感じさせるほどに醜劣である。酒はそれに酔っている中が好いのであって、醒めてからの記憶は皆苦痛である。だが苦痛を伴わない快楽というものは一つもない。醒めてからの悔恨を恐れるほどなら、始めから酒を飲まない方が好いのである。酒を飲むということは、他の事業や投機と同じく、人生に於ける一つの冒険的行為である。そしてまた酒への強い誘惑が、実にその冒険の面白さにも存するのだ。平常素面の意識では出来ないことが、所謂酒の力を借りて出来るところに、飲んだくれ共のロマンチックな飛翔がある。一年の生計費を一夜の遊興に費ひ果してしまった男は、泥酔から醒めて翌日に、生涯決して酒を飲まないことを誓うであらう。その悔恨は鞭のように痛々しい。だがしかし、彼がもし酒を飲まなかったら、生涯そんな豪遊をすることも無かったろう。そして律義者の意識に追ひ使はれ、平凡で味気のない一生を終らねばならなかった。酒を飲んで失敗するのは、始めからその冒険の中に意味をもっている。夢とロマンスの人生を知らないものは、酒盃に手を触れない方が好いのである。
酒飲みどもの人生は、二重人格者としての人生である。平常素面で居る時には、謹厳無比な徳望家である先生たちが、酔中では始末におえない好色家になり、卑猥な本能獣に変わったりする。前の人格者はジキル博士で、後の人格者はハイドである。そしてこの二人の人物は憎み合つてる。ジキルはハイドを殺そうとし、ハイドはジキルを殺そうとする。醒めて酔中の自己を考える時ほど、宇宙に醜悪な憎悪を感じさせるものはない。私がもし醒めている時、酔ってる時の自分と道に逢ったら、唾を吐きかけるどころでなく、動物的な嫌厭と憤怒に駆られて、直ちに撲り殺してしまうであろう。
この心理を巧みに映画で描いたものが、チャップリンの近作「街の灯」であつた。
この映画には二人の主役人物が登場する。一人は金持ちの百萬長者で、一人は乞食同樣のルンペンである。百萬長者の紳士は、不貞の妻に家出をされ、黄金の中に埋れながら、人生の無意義を知って怏々として居る。そして自暴自棄になり、毎夜の如く市中の酒場を飲み回り、無茶苦茶にバカの浪費をして、自殺の場所を探している。それは人間の最も深い悲哀を知ってるところの、憑かれた悪霊のような人物だった。そこで或る街の深夜に、ぐでぐでに酔って死場所を探している不幸な紳士が、場末の薄暗い地下室で、チャップリンの扮している乞食ルンペンと邂逅する。ルンペンもまた紳士と同じく、但し紳士とはちがった事情によって、人生にすっかり絶望している種類の人間である。そこで二人はすっかり仲好しになり、互に「兄弟」と呼んで抱擁し、髭面をつけて接吻さえする。酔っぱらった紳士は、ルンペンを自宅へ伴い、深夜に雇人を起して大酒宴をする。タキシードを着た富豪の下僕や雇人等は、乞食の客人を見て吃驚し、主人の制止も聞かないふりで、戸外へ掴み出そうとするのである。しかし紳士は有頂天で、一瓶百フランもする酒をがぶがぶ飮ませ、おまけに自分のベッドへ無理に寢かせ、互に抱擁して眠るのである。
朝が来て目が醒めた時、紳士はすっかり正気になる。そして自分の側に寝ているルンペンを見て、不潔な憎悪から身震いする。彼は大声で下僕を呼び、すぐに此奴をおもてへ掴み出せと怒鳴るのである。彼は自殺用のピストルをいじりながら、昨夜の馬鹿げた行為を後悔し、毒蛇のやうな自己嫌忌に悩まされる。彼は自分に向って「恥知らず。馬鹿! ケダモノ!」と叫ぶのである。
けれどもまた夜になると、紳士は大酒を飲んでヘベレケになり、場末の暗い街々を徘徊して、再度また昨夜の乞食ルンペンに邂逅する。そこでまたすっかり感激し、「おお兄弟」と呼んで握手をする。それから自動車に乗せて家へ連れ込み、金庫をあけて有りったけの札束をすっかり相手にやってしまう。だがその翌朝、再度平常の紳士意識に帰った時、大金をもっているルンペンを見て、この泥坊野郎などと罵るのである。そしてこの生活が、毎晩同じやうに繰返されて続くのである。
宿命詩人チャップリンの意図したものは、この紳士によって自己の半身(百萬長者としてのチャップリン氏と、その社会的名士としての紳士生活)を表象し、他の乞食ルンペンによって、永遠に不幸な漂泊者であるところの、虚妄な悲しい芸術家としての自己を表象したのである。つまりこの映画に於ける二人の主役人物は、共にチャップリンの半身であり、生活の鏡に映った一人二役の姿であった。しかもその一方の紳士は、自己の半身であるところのルンペンを憎悪し、不潔な動物のように嫌厭している。それでいて彼の魂が詩を思う時、彼は乞食の中に自己の真実の姿を見出し、漂泊のルンペンと抱擁して悲しむのである。
チャップリンの悲劇は深刻である。だが天才でない平凡人でも、こうした二重人格の矛盾と悲劇は常に知っている。特に就中、酒を飲む人たちはよく知ってる。すべての酒を飲む人たちは、映画「街の灯」に現れて来る紳士である。夜になって泥酔し、女に大金をあたえて豪語する紳士は、朝になって悔恨し、自分で金をあたえた女を、まるで泥棒かのように憎むのである。酔って見知らぬ男と友人になったり、兄弟と呼んで接吻した酔漢は、朝になって百度も唾を吐いてうがいをする。そして髮の毛をむしりながら、あらゆる嫌厭と憎悪とを、自分自身に向って痛感する。
すべての酒飲みたちが願うところは、酔中にしたところの自己の行為を、翌朝になって記憶にとどめず、忘れてしまいたいという願望である。即ちハイドがジキルにしたように、自己の一方の人格が、他の一方の人格を抹殺して、記憶から喪失させてしまいたいのだ。しかしこのもっともな願望は、それが実現した場合を考える時、非常に不安で気味わるく危険である。現にかって私自身が、それを経験した時のことを語ろう。或る朝、寢床の中で目醒めた時、私は左の腕が痛く、ひどくづきづきするのを感じた。私はどこかで怪我をしたのだ。そこで昨夜の記憶を注意深く尋ねて見たが、一切がただ茫漠として、少しも思い出す原因がない。後になって友人に聞いたら、酔って自動車に衝突し、舖道に倒れたというのである。もっとひどいのは、或る夜行きつけの珈琲店に行ったら、女給が「昨夜遅くなってお帰りが困ったでしょう」という。昨夜その店へ来た覚えがないので、私が妙に思って反問すると、女給の方が吃驚して「あら! だって昨夜来たくせに」という。不思議に思ってだんだん聞くと、たしかに昨夜来て居たことが、少しづつ記憶を回復して解って来た。それがはっきり解った時、私は不思議な気味わるさから、真っ青になって震えてしまった。
こうした記憶の喪失ほど、不安で気味のわるいものはない。なぜなら或る時間内に於ける自己の行為が、一切不明に失喪して、神かくしになってしまうからである。昨夜の自己がどこで何をしていたか、どこを歩きまわり、何を行動していたかということが、自分で解らない時の気味わるさは、言語にいえない種類のものだ。夢遊病にかかった人は、自己の行為に対して記憶を持たず、病気が治った後で、その過去の生活と、その半身の自己とをすっかり忘れてしまっている。ウイリアム・ゼームスの心理学書には、こうした夢遊病者と人格分裂者の実例がたくさん出ている。或る患者等は、病気中の自己をB氏という他人名で呼び、自分とすっかり別の人物として語っている。しかもそれを批判し、罵倒し、その生活について客観的の見方をしている。すべての酒のみ人種は、一時的の夢遊病者であり、人格分裂者であるのだ。
シャルル・ボードレールは、酒と阿片とハシシとに就いて、その薬物学的比較観察をした後で、酒がいちばん健全であり、毒物的危険性がない上に、意志を強くするといって推奨してゐる。阿片やハシシに比べれば、酒はたしかに生理的であり、神仙と共に太初から有ったところの、自然の天与した飲物である。猿のような動物でさえも、自らかもして酒を飲むのだ。支那人が酒の精を猩々に象徴し、自然と共に悠遊する神仙の目出度さに例えたのは、まことに支那人らしく老莊風の思想である。この「酒の目出度さ」という思想が、キリスト教の西洋人には解らない。そこで彼等のピューリタン等は、酒を悪魔のように憎悪するのだ。酒の宗教的神聖の意味を知ってるのは、世界で支那人と日本人としか無いであらう。
ー抜粋/萩原朔太郎「酒に就いて」より
(photo/Sabine Weiss)
アルコールがわれわれに有益な効果をもたらすということは、私も間接的には認める。
セネカは、ワインを飲み酩酊することが平静さを維持する手段である、と言っている。彼はこう書いた。
「時折、われわれは酒に溺れることなく、それらをたらふく飲み酩酊状態に達するべきでさえある」。
だから、あなたが今度酒をたらふく飲むときには、酒に溺れないで、セネカを思い、平静さを維持するよう試みてほしい。
と、ある哲学者は提案している。
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そこはかとなしにはあってもこれぞ上善、と酒が飲める、私の大願はまずまずひとまず成就といえる。
Lianne La Havas - "Starry Starry Night" (Loving Vincent OST)
(source/God Vector)
ほんとうに人の心に触れたときほど嬉しいことはない。
お互いの心と心がとけあってそこにあたたかい情が流れる。
信じあった人たちと語り合っていると、時間のたつのもなにもかも忘れてしまう。
まして酒の友よ。
じっくりと振り返る緊急事態宣言の下、時勢による変化というものはある意味において普通だったことが実はとても豊かであったことを教えてくれる。
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蓬莱の酔いというは心持よろしゅうしてなお酒の法を超えずにあり。
ええ酒場にええ常連おれば、友となるに他機あらず故に蕭々となるをも厭わぬこそ、いと可笑しけれ。
明朝何か覚えずただ鳥声に空を知る。
【古琴Guqin筝笛鼓】《空山鸟语》'Birdsong in hollow valley'——Beautiful Chinese court music style宫廷雅乐风 宋代装束 秦时明月
(photo/source)
お昼時分に、酒飲みが、酒飲みと会うた。
「どうです一杯」
「いや、実は、このまえ3年禁酒しようと思い立ちましてね、しかし随分苦しいものでした。すると先だって隣の酒飲みがね、昼も夜も一滴も飲まないのはかえって身に毒で病気になる、そこで、昼は飲まずに夜だけ飲んで、3年のところを6年にすればと言いますから、そりゃ名案だと思いましてね、今は夜だけにしております」
「なるほどそうでしたか。しかしそれならいっそ、夜も昼も飲むことにして、その代わり、6年を12年に延ばしたらどうです」
「そりゃそうですな、では一杯やりましょか」
The Speakeasy Three - When I Get Low, I Get High (Official Music Video) - (ft. The Swing Ninjas)
(photo/source)
今日でも我々の仲間で赤裸々な生活をやって見たくなるという例を申しますと、酒を飲むということである。
なぜ酒を飲むかと言うと、我々が原始生活に戻りたい、一元的生活へ戻りたいという要求が無意識の間に働いているからである。
無意識だから意識はしないが、その表面に出て来たところでは、酒を飲みたいということになるのである。
酒は束縛感を麻痺させて、一時眩惑的に飲み手に自由感を与えるのである。
それはどうかというと、眩惑的でもなんでも、酒を飲んで酔っ払うと、今日の文明人が持っている圧迫感から逃れて、「ちょっと」天地を狭しとする気になる。
すなわち一元の生活へ幾分なりとも近づいたような心持になって、圧迫感が飛んでしまう。
酔う、というのは、圧迫の自覚が無い、二元的生活が解消したと云う意味である。
ー鈴木大拙「一真実の世界」より
(calligraphy/source)
洒洒落落の担山和尚、酒を始めているところへ持律堅固の雲照律師が訪ねてきた。
すぐに和尚は、杯を差し出して「まあ、一杯」と言う。
律師は不興のていにて「拙者は佛弟子ゆえに酒は飲まぬ」と答える。
和尚は笑って「酒もよう飲まぬようなものは人間ではない」
律師憮然として「貴公は佛戒を犯しながら、まだ我を人間ではないとは失言である」と詰め寄る。
和尚また笑って曰く「人間でなければ佛様じゃないか」
律師もまたついに笑って、共に時を忘れて清談したということである。
(picyure/source)
酩酊正体離脱の折の調べは、仏性顕在である。
「泰然自若」はその実「茫然自失」なのである。
知らんけど。そう思っている。
Akira Ifukube: Kugo-Ka (1969)
(picture/Lascaux painting)
「芸術はそれ自体、発展することはない。思想が変わり、それとともに表現形式が変わるだけである」
とは、パブロ・ピカソの言葉だそうだ。
変化はするが発展したわけではない。という知見、「生(き)」というものに対する含意は深い。
芸術家の芸術も酒飲みの呑み方も本人の中で完結する、多くとも一生80年やそこいらの個人のなかでは伝統ではなく自分のクリエイティビティだけが拠り所である。しかし、科学や技巧などと言うものは先人の上に塗り重ねて行けるから何万年もの時を経てそれなりの重層を為して「発展」している。
それでいえば、「酒飲み自体、発展することはない、酒が変わり、それと共に酔い方が変わるだけである」と言い換えても損酌とはおもわれない。
ラスコーの壁画を描いた人は2万年前ぐらい前の人と言われているが、その人と今の芸術家と、2万年前にもいたであろう酔っ払いと、今の酔っ払いと、
「それ自体、発展してはいない」ということでは共通しているのではなかろうか。
そう考えると、真似のないあくまでも「自分らしい」酔っぱらい方ができれば、それは「芸術的」なものと言っても差し支えないと私は酔夢するのである。