南無煩悩大菩薩

今日是好日也

ほんとし御礼。

2009-12-30 | 日日是好日。
あ。
とはじまりあれよあれよの、またそろり歳を重ねようとしております。


先様におかれては如何でございましたでしょうか。



ん。
とおもいかわらぬかさねがさねのまたの御縁、またの千載万載幾年万歳天年を祈念致しまして。


よいお年をお迎えくださいますよう。


無屋 拝。
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独座年の暮れ。

2009-12-28 | つれづれの風景。

有るとも無いともいえず。


動じざるを真似るは山。

偽らざるを真似るは柳。

曇らざるを真似れば晴。


見るとも無くて性。


おのれはおのれに寄っかかるよりほかなし。


独り座す、年の暮れ。
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ウィンタースカイ。

2009-12-26 | つれづれの風景。

すばらしいですね。

冬のあなたの空透けて。

いつもよりよけいに息をしてみたくなります。


正月事始に向けて、街にも清新な空気が流れ込んできそうです。

こんな空の日は、ぴかぴかに頭を剃ろうと思います。

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能力を見る。

2009-12-25 | つれづれの風景。

この梅ノ木は、春には芽吹き、花咲かすだろう。

その能力があるといえる。

だから今はこうでも、やがての咲き誇る梅花を楽しみにできる。



能力があるかどうかは、継続と繰り返せるかどうかが鍵になる。

まぐれではない、やみくもではないというところに能力があるということができる。

ただ、気をつけなければ見誤ることもある。


壊れた時計でも日に二回は正しい時間を指す。


そこにいただけで、たまたまそうであることに目を奪われてはいけないだろう。

他者の能力を見て思うことは、とりもなおさず、己の能力を疑うことにつながるようだ。


おのれに、いかなる能力あるやなしや。
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雲天下の男達。

2009-12-24 | つれづれの風景。

東を向いて腕を組んで前を見る男。

西を向いて飲み物を抱きつ語る男。


北米原住のたしかブラックフット族の人たちは、個人名がこんな感じに長い。

彼らは、いじめのない社会性をもつ部族だ。

ひとりひとりが尊重される為には、誰とも違う個性を受諾し、役割を分担する知恵が欠かせない。

そして、男達は部族を円満に運営し、女子供を守り、毅然として、自然と外敵に対峙する。


そんなことを思い出した。


雲天急を告げ、みぞれ降り、日が差し込む不安定な午後というのは、どうも男にとっての、思いは馳せる。

どこへ行くのか。

男達は。

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カンダタ。

2009-12-22 | 有屋無屋の遍路。

君は知っていたかい?

この古めかしい太古の面影を残す木は、こんな葉っぱをしていても、実は針葉樹なんだ。

まるで広葉樹のようだろう。針葉できるかい?


くもの糸は思い切り引っ張ると手の上で切れてしまう。

でもゆっくりひっぱると、手の下で切れるんだ。

いや。逆だったかもしれない。

どうも、カンダタは、知らなかったようだ。


ただ、イチョウが落葉針葉樹だということは、知っていたかもしれないね。

でも、カンダタにとっては、くもの糸を知っていた方がよかったとは思わないか?

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甘そうで渋いもの。

2009-12-21 | 有屋無屋の遍路。

私が紅顔の美少年の頃は、

柿が食いたくなれば、八百屋ではなく、山に分け入り木に登った。

ガシラという魚が食いたくなれば、魚屋ではなく、海に潜って突いてきた。


やがて仕事が欲しくなった時、わたしは木も海も越えて、食べていけるものを探しに出かけた。


流通に乗ったものよりも、きれいであんしんでそのぶん高いものよりも、整えられたものよりも、人の思惑がはいったものよりも、

そうでないほうにうつつをぬかすようになったのは、田舎者だったせいか、なんでも安易に手に入れちゃあいけないと思ってきたせいかもしれない。


今も仕事を何とか続けられているのは、案外そんなことが役に立っているかもしれないと思えなくもない。

八百屋や、魚屋に買いに行って、手に入ったような儲けは、目に見えない損を抱え込んでいるようなものだということに、なんとなく気付いてきた。




今はすぐに八百屋がある。

柿が食いたいが、金はない。

金のないのは、ないのだからそれを嘆いたり政府に頼んだりしてでも柿が食いたいか。

紅顔の美少年だった頃を思い出している。


やっぱり、こんなときは、山に分け入ったり、海に潜ったりしているほうがいい。

そしてそのうち、案外こんなことが役立ったといえるようになるのではないだろうか。


あわてて見境なく食いついてしまった柿は、いつも、とても「しぶい」ことがあるから。

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わはははっの風景。

2009-12-19 | つれづれの風景。

あるとわかっているもの(インド)への新しい行き方を探していて、

あるとおもわなかったもの(アメリカ大陸)を見つけてしまう。


インド人ではないのに、インディアンなんていう名前をつけられた先住の民達には気の毒なことだが、そういうことは人生においてもよく起こる。


あるとわかているもの=認識上における自己の限界規定と目標。

あるとおもわなかたもの=遭遇したものが、想像と考慮を超えた新たな発見を促進させる驚き。

そんな遭遇は、たまらなくおもしろい。

それまでの艱難辛苦は吹き飛ぶくらいおもしろいだろう。

わはははっ、がははははっっと笑える。これに越したことはない。

そう。何が起こるわからんから、多少のことは笑い飛ばしておきなさい。

びんずるさんは、それがわかっているから、なにをされても、笑い飛ばしているのかも知れない。


卵を立てようとしたら、

私たちは、皆コロンブスのように生きられる。

かもよ。

わはははっ。
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惹かれる。

2009-12-18 | つれづれの風景。

哲学者のアリストンは、「禿げ頭」とよばれていた。
話によると彼は日射病で死んだという。

「いったいなぜ、アリストンよ、あなたは年老い、頭は禿げているのに、額を太陽に焼かせるのか?だから、あなたは必要以上に暖かいものを求めて、はからずも死という本当に冷たいものに出会ってしまったのだ。」-ディオゲネス・ラエルティオス-


東洋の尊者も西洋の哲学者もアプローチは違えども、近似点は多い。

びんずるさんは、身体中触りまくられる親近の尊者である。

頭はよく撫でられるのでピカピカだ。


かしこまって、まつりあげられる先導者より、私はやっぱり、アリストンさんやびんずるさんのような飾らないキャラクターに惹かれる。

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偽りのこのみ。

2009-12-17 | つれづれの風景。

人々は自分の好みを偽ろうという動機を持つようだ。


不安ゆえに、背伸びしてみたり、

場の雰囲気で、すりかえてみたり、

評判に釣られて、無理したり、



本当の好みを偽ることで受ける居心地の悪さよりも、偽ってでも得る利点が勝るからだろう。

でも、果たしてそうだろうか。

確かに好みの多様性は、口論を産む。

また、特殊な好みは、村八分の対象にもなる。


だが、自分の好みをしっかりと主張することで、得られる爽快感は病み付きになる。

たとえそれが、間違ってたとしても、それは偽りよりも実になる教訓となるようだ。

多様性を受け入れ、自己革新に繋げるヒントはそんなところにもある。



ツンドラ原産のこの木の種のこのみは、いびつで黒く、まるでうんこのようだ。

しかし、偽りでない本物のこのみなのである。


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軽重の待て。

2009-12-16 | つれづれの風景。

すすきの穂は軽い。軽いということは、重くないと言うことだが、風に吹かれて飛ぶ軽さは、軽やかであり、きれいでさえある。

ただ、風に飛ばされないと役に立たない。

軽くなくてはいけないのに重いと用をなさない。


文鎮は重い。重いということは、軽くないということだが、風に吹かれても紙を飛ばさない重さであり、たのもしくさえある。

ただ、風に飛ばされると役に立たない。

重さが軽いのだ。




軽い重いとは、その用途と機能と期待される責任の所在によって、その重さや軽さが求められる。

重すぎる文鎮は、使い勝手が悪く鬱陶しくさえある。

軽すぎるすすきの穂は、実にならないし、信用できない。


自分のなんたるかと、その軽重を理解しないものは、その世界での活動を制限されるだろう。



犬のようにお座りや「待て」を指図されなければならなくなるのだ。

そのウェイトでは、ウェイト。である。
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松翁を望む。

2009-12-15 | つれづれの風景。

朝霧にむせぶ松樹千年の緑。

枯淡彩墨霊妙なり。

萬(よろず)のことも堪えて久し

頌松(しょうしょう)として自ら語らず。

-無山人-

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偶然。

2009-12-14 | 有屋無屋の遍路。

自然の産みだす造形には驚きがある。力がある。完全性がある。

風の有無、光の角度が水面の状態をその瞬間時に留め、魚体の大きさ、その背びれの形、そして水面との絶妙な距離と遊泳速度。

それらすべてのものが、絶妙の配分を伴って産み出されたカタチの状景。

おそらく、うねりたゆみゆれる、全く同じ情景に、二度とお目にかかることはないだろう。

写真には残っている。

ただ、それは、あったと言う事実の弁証に過ぎず、再びそれを手に入れたいとする望は儚い。



偶然の産みだす造形には驚きがある。力がある。完全性がある。

自然の織り成す営みは、至る所に偶然というしろものを用意してくれているらしい。


まだ見たことも無い、そしてイメージする事すらできない、美しい偶然を願いつつ、僕らは食べて眠って旅をする。
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野焼きの子守唄。

2009-12-12 | つれづれの風景。

秋の豊穣の恵を産んだ土は、来る春までしばしの眠りにつく。

枯れてその生を全うしたものたちが、狼煙を上げている。

燃えなくなるまで焼き尽くすことで、それらは再生の灯を萌やす肥やしとなる。



目覚めよくねむれよねむれ里山の

萌える夢みしまだみぬ朝が

おはようさんと告げるまで。

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しあわせもみじ。

2009-12-11 | つれづれの風景。

以前何かの本で目にした収入と幸せの研究のリサーチ結果がおもしろい。

確か、年収20万ドル(約2000万)の人達と、2万ドル(約200万)近辺の人達千人からのアンケート結果だ。

面白いのは、設問の中で、「あなたは今の仕事が辛いですか」と、「あなたは今の職務内容と収入は妥当だと思いますか」など、充足感と不満感などにおいては双方とも全く同じような分布になっていた点だ。


幸せの研究によると、何かを楽しもうというとき、最適な楽しみ方をしようと自分にプレッシャーをかけるとむしろ苦痛を覚えることになるという。

幸せな人たちは充足化するタイプの人たちであることが多い。

自分は人生で何がしたいかを知っていて、満足したら其処で立ち止まることのできる人たちだ。

彼らの求めるものは地位と共に変わらない。つまり、欲に限度があり、飽くことを知っているのであろう。


確かに、かっこつけようとするとしんどい。

過度の緊張や、極度の装飾や、張りぼての尊大さは、自分をよく見せなければという、欺瞞的なプレッシャーに由来するようでもある。

なかなか難しいが、人は人に対して過剰に恐れるべきではない。

運子もすれば屁もひる、よだれだってくれば、鼻糞目糞、耳糞まみれだ。

勝手に自分が恐れることを、恐れる方がいい。


話は変わるが、

私は禿にしたおかげで、ヘアースタイルにだけはかっこつけることはない。


幸せは、春に桜で秋もみじ、肝臓元気で、毎度呑む酒。

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