私が紅顔の美少年の頃は、
柿が食いたくなれば、八百屋ではなく、山に分け入り木に登った。
ガシラという魚が食いたくなれば、魚屋ではなく、海に潜って突いてきた。
やがて仕事が欲しくなった時、わたしは木も海も越えて、食べていけるものを探しに出かけた。
流通に乗ったものよりも、きれいであんしんでそのぶん高いものよりも、整えられたものよりも、人の思惑がはいったものよりも、
そうでないほうにうつつをぬかすようになったのは、田舎者だったせいか、なんでも安易に手に入れちゃあいけないと思ってきたせいかもしれない。
今も仕事を何とか続けられているのは、案外そんなことが役に立っているかもしれないと思えなくもない。
八百屋や、魚屋に買いに行って、手に入ったような儲けは、目に見えない損を抱え込んでいるようなものだということに、なんとなく気付いてきた。
今はすぐに八百屋がある。
柿が食いたいが、金はない。
金のないのは、ないのだからそれを嘆いたり政府に頼んだりしてでも柿が食いたいか。
紅顔の美少年だった頃を思い出している。
やっぱり、こんなときは、山に分け入ったり、海に潜ったりしているほうがいい。
そしてそのうち、案外こんなことが役立ったといえるようになるのではないだろうか。
あわてて見境なく食いついてしまった柿は、いつも、とても「しぶい」ことがあるから。