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殺は刹である。突如として来たり、倐忽(しゅっこつ)として去る。
殺は刷である。いわゆる蘇生の義である。一切の事物、みな殺によりてその面目を改め、その停滞を疎通し、その腐食を防止する。殺は一切事の元機であり活機である。
殺は潜む。ゆえに力がある、熱がある。およそ何物でも表われたるものにロクなものはない、虚偽でなければ死物である。目に見ゆる日月はただ人間を眩惑するに止まり、我々踏みえる大地は一個の死塊に過ぎない。溺死者の水面に浮かび出るはこと切れた後である。多数の耳目に触るるの時は、業に己に生命の滅んだ後である。
これ世にまつられるものに生命なき所以であって、みなこれ、偶像でなければ虚偽の塊である。虚偽の塊は虚偽の塊たるを知らず、真の悪人は悪の悪たるを覚(さと)らず、真の善人は善の善たるを暁(さと)るものではない。世に悪人と貶されるものに悪人なく、善人と讃えられるものに善人のないことをみても明らかだ。真悪人は神にまつられ、真善人は悪魔として呪われる。「人生勿人為 終生痛苦眞難堪」
殺は黙す。ゆえに生命がある。生命は語らず、語るものに生命にあらず。誰かものを言いて影の薄らがざる者やある。語れば語るほど、影が薄い。言は言を呼び、語は語を葬らせて、しかも心中、いよいよ不安を加え、衆愚に埋没さるる黙裡の人に会心の笑あるまた当然。されば自己陥穽(かんせい)の秘訣は自己賛美に如かず、自己掩蔽(えんぺい)の妙案は自己弁護に如くものなく、能弁の極致は無弁にして多策の奥義は無策にある。「千余年此戸開かず白蛇の祠」
ゆえに口禍を免れんと欲せば、三寸の舌殺すにあり。心福を全うせんと欲せば、一切の邪念妄想を殺すにある。人生の除禍獲福、畢竟(ひっきょう)これ殺の一字に尽く。
殺は脅威である。非凡である。しかも潜動し静長す。諸有る事物は殺に萌え殺に活く。自然にあっては熱時熱殺、寒時寒殺、人生にあっては歓時歓殺、哀時哀殺、与に真理に適う殺の極意である。
山岳に崩壊なく、河川に氾濫なくして、大地はたして安穏なりや、花に狂風なく、月に群雲なくして天候つつがなきを得るや否や。いつも天気で暗い夜がなかったならば、誰しも生きているのが辛かろう。
一殺多生は宇宙の大法、生は畢竟(ひっきょう)殺の所生。極陰は極陽に裏(つつ)まれ、至剛は至柔に含まれる。太陽の深闇に触れざれば太陽の真相を覚ることはできない。水の剛性に接せざれば水の本性を識ることは難しい。真の生命の死中に存し、真の獲得の絶対放棄に宿るもまたこの道理。
破壊は天の活動である。自然の偉業である。されば生まれたるものは死し、生くるものは滅ぶ。諸有る事物はみなその発生の当初において、すでに腐朽破滅の芽をそなえている。けだし、天の万物を愛護撫育する目的は、最後の破壊、最終の滅亡にある。天といわず、人といわず、人生の痛快事、またすべての全滅破壊にある。一切の事物は破壊せられんがために作られ、殺戮されんがために生き、滅亡せんがために栄えている。
誰か云う、生の肯定なくして死の肯定なしと。ならば、滅を肯定するの生は又生を肯定するの滅ではないか。要するに生滅一如、存亡同籠である。
中心を美しくするものは背景である。花を美しくするものは凋落である。
切抜/岡田播陽 「殺哲学」より