「多くの人は、熟慮していると思いながら、実は偏見を整理しているに過ぎない」-ウィリアム・ジェームス-
よくよく考えてみてもよくわからないとしかいいようのないことは多い。
安楽死など尊厳に関することや、犠牲の容認など道義的なことや、男女や老若など優劣に関することなど。
見たことも無い漢字を「なんてよむの?」と聞かれたときには、「ごめんわからない」ときっぱりということはできるが、どこかでみたような字であれば、つい適当に憶測を交えて答えてしまいやすいのはなぜだろう。
理解できる事柄を使って、理解できない事象をつい説明しようとする、我々には欲望からくる謬見があるという。
答えは遅くなってもいいから、熟慮してみたいと思う、秋の夜長。
妄執の雲晴れやらぬ朧夜の恋に迷いし我が心
-長唄「鷺娘」より-
表現の世界というものは、つくりてとうけてとの間合いにおいて成立するある種の虚構との一期一会でもあるらしい。
でも、その虚構は、無意識の現実の実感を反映しているようでもある。
「みなまでいわんでよろしいがな。」という部分がかならずあって、それが艶やかさと豊穣と深遠さを醸し、その時々における思慮を導くようだ。
幾重もの時間という風雪に耐え、生きながらえてきたものには、万感に資する何かがある。
「それをいっちゃあおしめえよ」という野暮はないのである。
この2週間の間に、あなたはどのぐらいの「怒り」を感じましたか?
ブータンという国には国民総幸福量と呼ばれるものがある。
その調査の一つが上記のアンケートらしい。
「怒りに値したものを述べよ」といわれると私は困ってしまう。
「怒る」ということと、「笑い飛ばす」いうことが、自分の幸せな毎日というものへの収支関係にどう影響するのかが複雑だからだ。
犬は、ほえている間は噛み付かない。ほえるのをやめるから噛み付くのであって、噛み付いている間はほえることはできない。
怒りと喜びの間にも、そんな関係性はあるのではなかろうか。
裁判などでは、「根拠の無い証言」は、「根拠の無い証言」として、却下される。
病院にいったら、「病気だという根拠無し」、というのはあってもそれが「病気なしの根拠」ということにはならない。
日常生活では、「いいところがある」という根拠が無いのを、「いいところなんてない」という根拠があることと取り違えたりもする。
なにをその根拠としているかによって、その判断・行動が、洗練されたものであるかどうかに関わってくるような気もしてならない。
証拠のアリバイは捏造できても、根拠のアリバイの捏造はできないだろうと思える。
何を根拠に?
その木は自分を火だと思っていた。
生まれたときから自分は燃えていると信じ込んでいた。
お前は火じゃないんだ木なんだよ、といくらまわりの木に言われても頑として受けつかなかった。
へんなやつ。やがてその木はそうよばれるようになった。
ある日一閃の稲妻がその木に火柱を立てた。
その木は目覚めた。僕は火じゃない、木だったんだと火だと思っていたその木は気付いた。
しかし逆にその木以外のみんなはその様子を見て、あいつはやっぱり火だったとささやくようになった。
・・・。
こういうこと、なんていいましたっけ?
そうそう。「ひきこもごも」と申します。
もしも、自分で思考し進んで物事に就く状態を促すなら、ムチは放棄するほうがいい。
「各人による自己の理性の行使が物質的生の必要かつ充分な条件であるような社会は、各人の精神にとって完全に了解可能なものとなろう。
疲労や苦痛や危険を克服するのに必要な動機については、各人はそれを仲間に尊敬されたいという願望のうちに、いや、それ以上の自己自身のうちにみいだすだろう。
精神の創造というべき労働の場合、外的な強制は無用にして有害となり、ある種の内的な強制がこれにとって替わる。
未完成の仕事の光景は、ムチが奴隷を追いやるのと同じ強烈さで、自由な人間をひきよせる。」-シモーヌ・ヴェイユ-
もちろんアメも、「無用にして有害な外的な強制」になるようなら、放棄すべきだろう。