敵の敵は味方になることも多いとよくいいますが、
味方に愛想を尽かして敵につくことを、寝ガエル と申します。
細胞で言うと突然変異みたいなものですが、
敵を叩こうとすると味方も被害をこうむりますので、
できることなら、そんなことはよしにして寝て済むものなら寝ていたいと思ったりするのであります。
藤の花房色よく長く 可愛いがろとて酒買うて か
あたたかくなりましたねぇ。
服装も軽く、ふところも軽く、おつむも軽く
軽くといやあ、ふくよかな女性が、「わたし、軽い女と思われたくないの」とおっしゃてたので、「いやぁ、十分重そうですよ」といったら、睨まれました。
「学問的体系に基づいた高度な技能を依頼人の為に活用して成果を出し、対価として報酬を得る。それを倫理感が裏打ちしている」-古代の聖職者に始るプロフェッショナルの定義-
誰でもそれを生業とするものはその道の精通者となるべく研鑽を積むでしょう。
そして其の努力と成果を社会に活かすのは、それに報酬をあたえる消費側の行動です。
よい民衆から良い指導者が生まれるように、審美眼のある観客がいてこそ、演じる側の所作も洗練されていくというものです。
もちろんプロフェッショナルを育んだり雇ったりするにはコストがかかります、しかしプロの報酬が高いと思うなら、ためしにアマチュアを起用してみればわかりますが、終いには「安物買いの銭失い」を実感するはずです。
伝説の、最強の、とも言われた元ハッカーのケビン・ミトニックという人は、こういっています。
「企業の中で最もハッキングに弱いところは、ソフトウェアでもシステムでもない。それは善良ながら不注意な一般社員である。」
この人は不法なハッキングで逮捕された後、今ではコンサルタントとしてその有能さを社会の為に役立てています。
社会人として、善良であることはもちろん美徳ですが、それと周りに迷惑をかけないということとイコールともいかないようです。
善意でしたことを咎められ、憤慨してしまうようなこともままあることです。
意識を注ぐ、果たしてどのような影響下にあるのか、注意はするときもされるときも注意してみる事が大事なようです。
人が行動を起こすのにたいそうなものは必要ありません。
たったひと粒の「意味の種」があれば十分です。-カールE.ワイク-
塵を拾う、お礼を言う、人の力になる、といったする行動。
腹を立てない、愚痴を言わない、独り占めしない、といったしない行動。
お雛様を飾ったり、鯉幟を揚げたり、先祖を奉ったり、そこにも同じ意味の種。
その一粒は社会に溶け込み、大きな意味を持つようになる。
先日、医療チームとして再度被災地に赴くドクターと話す機会があった。
初回の緊急医療から今回は往診を中心に心のケアも含めた継続医療に従事するようだ。そこで問題になるのはコミュニケーションだという。
彼は生粋の大阪人だから日本語はかなり大阪弁だし、東北の特におじいちゃんおばあちゃんの言葉はわからないことが多いと言っていた。
親身になって聞き接するのがこの場合の基本だが、そこらへんがもどかしいと。
そんな問題もあるのかと思いつつも、そういうことを思える人なら、充分親身で頼もしく思われるのではないですか。
葦の群生の中に大木を根付かすかわやぎ。
湿地特有の対の妙味。
足元の悪い中すっくと立ってくれる大きなものに、鳥たちはありがたいよりどころを得る。
かわやなぎ ああかわやなぎ かわやなぎ
漢字で川柳と書くかどうかは、私は知らない。
(photo by newyork times)
http://lens.blogs.nytimes.com/2011/04/04/pictures-of-the-day-libya-and-elsewhere-17/
As snow fell, a Buddhist priest prayed for the souls of victims still not found in the rubble of the tsunami-devastated city of Yamada,japan
(ニューヨークタイムズより引用)
・・・念に念を重ねて、なげゝばあだに成るほどに。其あだをかえりみず、なげかふやうは、なきはづじゃわいの。是でもなげかふか。なげかれはせまい程に。其なげきのかはりに、一遍の経をもよみ、一座の座禅をもつとめて、香花をとりて、其人の跡を弔ふが、是こそ死んだ人を、いとをしいとおもひ、かはいひと思うと、いうものじゃわひの。-盤珪禅師語録(岩波文庫)より抜粋-
http://lens.blogs.nytimes.com/2011/04/04/pictures-of-the-day-libya-and-elsewhere-17/
As snow fell, a Buddhist priest prayed for the souls of victims still not found in the rubble of the tsunami-devastated city of Yamada,japan
(ニューヨークタイムズより引用)
・・・念に念を重ねて、なげゝばあだに成るほどに。其あだをかえりみず、なげかふやうは、なきはづじゃわいの。是でもなげかふか。なげかれはせまい程に。其なげきのかはりに、一遍の経をもよみ、一座の座禅をもつとめて、香花をとりて、其人の跡を弔ふが、是こそ死んだ人を、いとをしいとおもひ、かはいひと思うと、いうものじゃわひの。-盤珪禅師語録(岩波文庫)より抜粋-
ふいに人と高架下で出会う。
別に良くも悪くも無い、単なる事実。
ところが、腹を空かせたライオンや借金取りやらと出会うとどうだろう。
または、愛しの君や落ちた財布と出会えば。
単なる事実が、特別に感じられたりする。
しかし、単なる事実は、単なる事実でしかない。
良くも悪くも意味は自分の中にある。
判断基準を見つけられないとき、どのように選択するか。
松竹梅なら、たいていの人は竹を選ぶ。
そこに比較検討の提示物の無い場合は、なおさら難しい。
ノアの箱舟は、雨が降るずっと前から造られ始めていた。
松竹梅であっても、時には椿を選ぶということをしなくてはいけないかもしれない。
あったら頼りになるものと、あっても仕方ないものとがあったりします。
いざというときになって、改めてその働きを見直したり頼もしく思うことは多い。
最新の機器や大型の車両船舶、統制の取れた戦闘集団などにその感を新たにしたのは私だけではないでしょう。
必要、不要を見極めるときに、なるほど不用意な感性や意見は慎まなければいけないと。
その昔、賢帝が一日千里を走るという駿馬を献上された時、彼はこう言って断ったという。
「私一人が早く遠くに行けたとしてなんになろう。そんなものは不要だ。」