南無煩悩大菩薩

今日是好日也

アウトオブコントロール。

2009-09-30 | つれづれの風景。

枯れ草にあれば、枯れ草の

青草にあれば、青草の

みまがうばかりの したたかさ


情勢はコントロールできない。だが自らをコントロールする事は出来る。

ん。これは経済活動にも当てはまる。

メーカーは価格をコントロールできない。だがメーカーはコストをコントロールできる。
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自己実現。

2009-09-28 | 有屋無屋の遍路。

自己実現は若い人には生じない。
少なくとも我々の文化では、若者はまだ自己同一性あるいは自律性を達成していない。
忍耐し、誠実であり、ロマンティックを通り越した愛情関係を経験するのに充分な時間を経てもいない。
天職を見出してもいない。
彼らは彼ら自身の価値体系も確立していない。
完全論的幻想を払い、現実的になるに充分な経験(他者に対する責任・悲劇・失敗・達成・成功)もしていない。
一般に死と和解してもいない。
彼らは耐え方を学んでもいない。
彼ら自身や他者のなかにある哀れむべき悪に就いて十分に学んでもいない。
両親や年長者、力や権力について両面感情を経験し終える時間を過ごしてもいない。
賢明になる可能性を切り開くに十分聡明で博識にもなっていない。
公然と高潔であることについて、たとえ嫌われても恥じない勇気を獲得してもいない。-A.H.マズロー-



若い人に限らず、人の魅力を増すために押さえるべき要点を内包した、稀有な名文である。

息子よ、娘よ、若者よ、挑みし同志よ、愛しき人よ。

人生探求への条件であるこの言葉を噛締めたほうがいい。

そして、これからおきる身の回りの苦い経験を自己実現の一里塚と捉えることが、本当の意味で、自分らしく生きることに繋がるのだと思っておいたほうがいい。

自己実現、忌憚無く自分らしく生きることの道は険しく、到達というものはない。

かくいう私のようなおっちゃんにおいてさえ、その端緒でも掴めているかどうかは、かなり怪しい。

しかしマズローさんによると、そういう道を歩んでいる人々が、多くは無いが確かに存在すると言う。

ただ思えることは、地道な積み重ねの苦行ともいえるほどに、自分を見つめなければならないことは確かだろう。

そしてその過程においては、多分、嫌気・憤怒・意気消沈・復讐などの副作用を起こす「幻滅」というものが多々生じるだろう。

考えておいて欲しい。「幻滅」が生じると言う事は、「幻想」が存在したことを意味するということだ。
幻想は自己が産みだすものだということを。


本当の意味での自己実現を体現しているような偉い人にならなければいけない必要は無い。
それには様々な、環境の要素もきっと大きいから。

かといって、絶対に放棄してはいけない欲求が、自己を実現してみたいということだ。

幸せな生き様とは、実際に幸せでいることに他ならない。

私にはこの言葉が、桃源郷のように思えてならないのである。
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夜長にて。

2009-09-26 | 酔唄抄。

すすきのひかり さえぎるものなし。

萩はひらひら ゆらゆらすすき 月もうきよの かぜすずし。

くちびるさむし 夜長の秋。
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荒れと凪ぎ。

2009-09-26 | 有屋無屋の遍路。

私は若かりし頃、偏頭痛に悩まされた時期がある。

姉の勤めていた病院の脳神経外科に連れて行かれ受診した際に、知り合いの医者は脳波に異常が見られると言った。

「先生。それはもしかして僕が気違いだということですか?」

と聞くと、その医者はこう答えた。


「それも、ある」


・・・。


今では四六時中酒の麻酔が効いているのか、その当時のような偏頭痛はどこかに消えた。
ただ、その医者の言葉は、私の中で消えてはいない。


大きな波があると、それに飛び込みたくなる。

生きるか死ぬかの2者択一のような選択をする時の高揚感が、スコブル魅力的に感じるときがある。

悪魔の仕業だと思えるような考えが頭をよぎり、自分を蔑むときもある。


親戚連中が荒れていた一時期、当時19代目を継ごうとしていた兄は私にこういった、「うちの一族は気違いの血が流れとる」。


私は落ち込むよりも、この言葉でまずは慰められたことに喜んだ。


荒れた海に飛び込むよりも、凪ぎにちゃぷちゃぷ遊ぶ方を年月は推薦する。

私は、その後、私だけではないような荒れや凪ぎの出来事が誰にでもあるのではないかと思えるほどには年月を過ごしたようだ。


これらのことについて、乱れた脳の波について、私を禿げました、いや励ました言葉を綴ろうとおもう。


「自分の中の狂気を受け入れられる人こそ、リーダーの中でも最も健全なリーダーであると信じているのです。」
-ケッツ・ド・ブリース-

「いま我々には数人の狂人が必要だ。正常な人々が我々をどこに導いたかを見てみるがよい」
-バーナード・ショー-


まだまだ荒れた波の魅力は、私を落着かせてくれそうにない。

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渋滞。

2009-09-25 | つれづれの風景。

幾ら急いでも、渋滞は緩和しない。

往くべき未来が、達すべき場所が、其処に見えているのに。


こうかんがえたらどうだろう。

それが往くべき道であるのなら。

時間は死ぬまである。
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彼岸の風景。

2009-09-24 | つれづれの風景。

花咲くとき 蝶舞い来たり。

蝶舞うとき 花開きゆく。


蝶いずこへぞ去りなば 花枯れ落つる。

花その盛閉ずれば 蝶飛ぶを値わず。


蝶花を育てず。花蝶を産まず。


その期その会は偶然には転んではいない。

必然を偶然とみがもうなかれ。

蝶は蝶なれ。花は花なれ。人は人なれ。

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つくづくぼうし。

2009-09-21 | つれづれの風景。

空は青きしことこのうえなし。

稲穂は黄金色にこのうえなし。

彼岸にはきっちり咲きます彼岸花。

虫は泣く泣くつくつくちんちろりん。

よろしいなぁ。

あたしはつくづくのこのようなあんばいがすきなんやなぁおもいます。
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10年の常明。

2009-09-17 | 有屋無屋の遍路。

時の流れには、節目というようなものがあるらしい。

西行さんが突然家を出たのも、自身の節目を強く感じそれを無心に実行しただけではないか。

導者とは、この節目の思いっきりがもしかしたら人並みはずれているのではないだろうか。


「われわれは、やらなければいけないことを実行しようとは試みないで、やり方を知っていることを実行する傾向がある」と、マズローさんは言った。


10年一昔と言う。

10年前は、10年分若い。尻は青く、嘴は黄色い。

何にしても、10年も経てば、知っていることは増える。

しかしそのことによって、節目を見逃したりすることはないだろうか。

知っていることが邪魔をする。


10年無常明心是捨知。
100年常明如何是拾無。

無心というものを欲し、静かに座してみたいと思う。

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もや。

2009-09-16 | つれづれの風景。

靄(もや)がかかってますなぁ。


あ。せや、知ってますか、紙ありますやろ。

例えばコピー用紙でもかまいませんけど、あれ二つ折りにしますわな、それをまた二つに折る。それを例えば50回折りたたんだら、どれぐらいの厚味になると思います?

50センチ?1メートル?100メートル?1キロ?



・・・。


紙の厚さ0.2mmぐらいとしてもえらいことに5千6百万キロにもなります。

大体14回も折れば大人の身長ぐらいです。44回で月にいけますのや。

えらいこっちゃ。


うすっぺらな紙でも、そないになります。

わしも計算してみるまで、たいした数字思いませんでしたわ。

イメージだけで、ものごとかたづけるとえらい目にあう、ちゅうことですわ。

人間の腸も、ひだひだ広げたら、球技場位になります。ちょーすごい。

金玉のシワシワもえらい拡がります。おったまびっくり。


靄(もや)がかかってきましたなぁ。

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予防と改善。

2009-09-15 | 有屋無屋の遍路。

じぃっと見ていて気付くことがある。

じぃっと聞いていて気付くことがある。

じぃっと考えていて気付くことがある。


「ええ。でも・・」といって、

自分の欲求をすべて正当化することはできる。

だがコスト(懸念)が増えてプロフィット(希望)が減っているなら、それがすべてだ。

懸念を下げて、希望を増やすには、欲求を整理しなくてはるまい。

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一日花。

2009-09-14 | 酔唄抄。

きっぱりと、さっぱりと、くっきりと、一日開く。

くしゃくしゃと、さめざめと身を終う。



酔っても枯れても かまやせぬ

いちにちかぎりもあですがた

まぶたにのこる 芙蓉かな。

-無山人-
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それにしても案山子。

2009-09-12 | つれづれの風景。

かかし しかし かかし。


ワタシとタワシは違う。

女王、エカテリーナ2世に、エテカテシタリーナ、といっても通じないだろう。

アカルイハダカと、アルカイハカハでは、死に際も全く違う。

オジヤは食えても、オヤジは食えんのである。


しかし、このかかし、なかなか愛嬌がある。

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亀を読む。

2009-09-11 | つれづれの風景。

この亀、何かを訴えかけてきている。

只その表情は読めない。


表情は、顔面筋でつくられる。

人のそれは、確か4百数十種にも及ぶ組み合わせの違いを作り出せるらしい。

以前は、笑顔を作るほうが、困惑顔をつくるよりずっと楽ともいわれていたが、最新の研究でわかったことは、笑顔には、12の主な顔面筋を使い、困惑顔は11の顔面筋を使っているらしいということだ。

つまりは、笑顔には一つだけ努力が要るということだろうか。


相変わらず、この亀の表情は読めない。

たのむから、笑ってみてくれよ。

食い物が欲しいと。

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あわてないあわてない。

2009-09-10 | 有屋無屋の遍路。

一休さんはよくそういうではないか。

緊急性が重要性を忘れさせることはよく起こる。

本当にしとかなければいけないことを、目先の用事が駆逐するのである。

反復性再現性のあるものはいつでもできるが、そうでないものは、そのときにやっておかなければ、機会の損失となる。

緊急の事態にあって、「あわてない」ためには工夫がいる。

緊急性と重要性のバランスをとるセンスを磨くことは、日常において普段からしておいたほうがいい大事な訓練だろう。


やることをゆっくりするのではもちろんない。
ゆっくりには、慎重にするという意味がある。

ゆっくりいけば1時間、いそいでいけば丸一日。なんていう経験が誰にでもあるはずだ。
緊急時であればあるほど、経験の無い近道をしようとして、道に迷い、余分な労力と時間と金を使いやすいものである。
ゆっくりいけば落とすことの無い荷物も、急いで落として台無しにするようなものである。



指をくわえて、それちょうだい。

というまえにだ。

わし。あほやからちょっとかんがえてみますわ。

というぐらいの余裕は必要なのである。

あわてない。あわてない。

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Self portrait

2009-09-09 | 有屋無屋の遍路。


男は女を長い間見つめていて、
女も男が自分を見つめていることはわかっていたし、
男は女が、自分が相手を見つめているのを知っていることを知っていたし、
自分が知っていることを相手が知っていることも知っていた。
二枚の鏡を向かい合わせたときにできる像が後退していくように、その像はどこまでもどこまでも、ある種の無限大に向かっていく。
-ロバート・パーシグ「ライフ」-



映っているのは、ガラスに留まっている物体だろうか。その向うのここに立つこの物体までだろうか。

見ている、見えているものの実物大は、ガラスまでの距離に比例するのか、それとも二乗に比例しているのか。

私は、見えている自分に対して、ひとへのそれと同様に、間合いを取れるだろうか。

この焼けた禿頭のしていることを、私ははたして、どれほど見つめ知っていると言えるのだろう。


鏡は一枚では自分を映すだけだが。

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