自己実現は若い人には生じない。
少なくとも我々の文化では、若者はまだ自己同一性あるいは自律性を達成していない。
忍耐し、誠実であり、ロマンティックを通り越した愛情関係を経験するのに充分な時間を経てもいない。
天職を見出してもいない。
彼らは彼ら自身の価値体系も確立していない。
完全論的幻想を払い、現実的になるに充分な経験(他者に対する責任・悲劇・失敗・達成・成功)もしていない。
一般に死と和解してもいない。
彼らは耐え方を学んでもいない。
彼ら自身や他者のなかにある哀れむべき悪に就いて十分に学んでもいない。
両親や年長者、力や権力について両面感情を経験し終える時間を過ごしてもいない。
賢明になる可能性を切り開くに十分聡明で博識にもなっていない。
公然と高潔であることについて、たとえ嫌われても恥じない勇気を獲得してもいない。-A.H.マズロー-
若い人に限らず、人の魅力を増すために押さえるべき要点を内包した、稀有な名文である。
息子よ、娘よ、若者よ、挑みし同志よ、愛しき人よ。
人生探求への条件であるこの言葉を噛締めたほうがいい。
そして、これからおきる身の回りの苦い経験を自己実現の一里塚と捉えることが、本当の意味で、自分らしく生きることに繋がるのだと思っておいたほうがいい。
自己実現、忌憚無く自分らしく生きることの道は険しく、到達というものはない。
かくいう私のようなおっちゃんにおいてさえ、その端緒でも掴めているかどうかは、かなり怪しい。
しかしマズローさんによると、そういう道を歩んでいる人々が、多くは無いが確かに存在すると言う。
ただ思えることは、地道な積み重ねの苦行ともいえるほどに、自分を見つめなければならないことは確かだろう。
そしてその過程においては、多分、嫌気・憤怒・意気消沈・復讐などの副作用を起こす「幻滅」というものが多々生じるだろう。
考えておいて欲しい。「幻滅」が生じると言う事は、「幻想」が存在したことを意味するということだ。
幻想は自己が産みだすものだということを。
本当の意味での自己実現を体現しているような偉い人にならなければいけない必要は無い。
それには様々な、環境の要素もきっと大きいから。
かといって、絶対に放棄してはいけない欲求が、自己を実現してみたいということだ。
幸せな生き様とは、実際に幸せでいることに他ならない。
私にはこの言葉が、桃源郷のように思えてならないのである。