自分の事より他者の事を優先する考えをあらわす四文字熟語に「忘己利他」(もうこりた)というものがある。
この精神を覚悟徹底することで、自分でも思いもよらなかった自分に出会えるかもしれない。
「ただわが身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、これに随いもてゆく時、力をもいれず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる」と、道元禅師の如意。
自分の事より他者の事を優先する考えをあらわす四文字熟語に「忘己利他」(もうこりた)というものがある。
この精神を覚悟徹底することで、自分でも思いもよらなかった自分に出会えるかもしれない。
「ただわが身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、これに随いもてゆく時、力をもいれず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる」と、道元禅師の如意。
運は巡ってくる。と思いながらもそれだけではいかんようで、運ぶということも大事な気がする。
よしあしのだいたいの輪郭は運命によって定まるとしてもだ。
たとえば運というものがコップ一杯の器だとすれば、そこにはコップ一杯分しか運が入らないにしても、これに何を入れるかは自分の目利きにある。
安物よりうまい酒を入れられるかどうかは、自分の腕にあるのだ。
中に入れられる品物によって、そのコップ一杯の価値は定められる。
容量は宿命的に定められているとしても、その内容の品質は自分の運ぶ力いかんによって上下左右に振れる。
提灯が消えて座頭に手をひかれ
漆黒の闇夜、按摩さんは目が見えないので私が送って行きましょう、と出てはみたものの、途中で提灯の火が消えてしまい反対に手を引かれて迷惑をかけた。
こんなのもある、按摩さんが帰りに提灯を貸してくれという、宿の女将が目が見えないのに明かりがいるの?と聞くと、按摩さんは「へぇ、明かりを持っていないとおっちょこちょいの目明き(目の見える人)にぶつかられてかなわんのです」と。
またこんなのもある、偉い横柄な按摩が灯をもって歩いていたら目明きにぶつかられた、こやつ何をけしからん、灯が目に入らぬか、と一括したものの、灯はとうに消えていた。
これということではないけれど、妙(みょう)に明(めい)に影(えい)に残る。
めあきとめくら、の話です。
(花のある風景)
「私が→花を、見る」「花が→私に、見える」
どっちだ。
この花の「この」に力点を置いているのか、この花の「花」にそれを置くかによって、本質が全く違った、あるいは正反対の、方向に展開する可能性も生まれる。
どっちだ。
草冠に化けると書いて「はな」。
「仕事の意味」と言うのは、「意味のある仕事」と言う言葉とは、別物である。
と誰かが宣わっていたが、「仕事」と言う言葉を替えるだけで、この意味違いは何にでも使える。
人生でも、出会いでも恋愛でも結婚でも離婚でも、死までもがそのようだ。
落ち葉は風をうらまない。
座頭の市さんが映画の中で吐いたセリフです。
誰の言葉か同じような言葉に、
気に入らぬ風もあろうに柳かな。
というのもあります。
いつのまにかこんな言葉がシックリときてストンと落ちるようになりました。
先日の王座戦で藤井聡太王座に敗れた永瀬拓矢九段が、試合後のインタビューで語っていた言葉が印象に残っている。
藤井王座の強さを聞かれた永瀬九段は確かこんな風に答えていた。
「私たちは通常未来や将来といったものを考えるから恐怖心のようなものが先に立って思い切った手を躊躇してしまうように思う。藤井王座にはそんなことは一切考えずに、今この瞬間に没頭しつくす凄味がある」。
私は藤井王座の天才肌もさることながら、永瀬九段のこの洞察力に得心と共に敬意を抱くものである。
「時が自らについて考えている、それが光だ」。
そう書いたのは詩人オクタビオ・パスである。自省する時間こそが光となって出現する。深く示唆的な霊感である。
時間は見えない。刻々と時を刻む経過的時間を可視化するためにつくられた装置が時計である。時計の時間は流れすぎてゆく。しかし、私たちが意識する時間とは生の営みのなかでただ直線的に経過するものだけではない。
淡い朝の光が強烈な昼の太陽光線となり、やがて黄昏の光となって暮れてゆく。
光の微細な変容の中で時間が生起し、時間が自らについて思索しているかのように様々な濃淡と色彩を持った光が明滅する。
ー今福龍太「原風景への誘い」より
少年読者諸君に一言する。日本の政治は立憲政治である、立憲政治というのは憲法によって政治の運用は人民の手をもって行なうのである。
人民はそのために自分の信ずる人を代議士に選挙する、県においては県会議員、市においては市会議員、町村においては町村会議員。
これらの代議員が国政、県政、市政、町政を決議するので、その主義を共にする者は集まって一団となる、それを政党という。
政党は国家の利益を増進するための機関である、しかるに甲の政党と乙の政党とはその主義を異にするために仲が悪い、仲が悪くとも国家のためなら争闘も止むを得ざるところであるが、なかには国家の利益よりも政党の利益ばかりを主とする者がある。
人民に税金を課して自分達の政党の運動費とする者もある。人間に悪人と善人とあるごとく、政党にも悪党と善党とある、そうして善党はきわめてまれであって、悪党が非常に多い。これが日本の今日の政界である。
-引用/佐藤紅緑「ああ玉杯に花うけて」1928年発行より
(picture/source)
千里眼という神と順風耳という神を昔の唐の船はみな祀っていたらしい。
西遊記によると、天上の上聖玉帝、千里眼、順風耳はその臣で、千里眼はよく下界の事を見、順風耳はよく下界の事を聞くということのようです。
愁賛鼻とか清濁舌なんていう神も思い描いてみたくなります。