私たちはいつも曖昧な状況に直面しています。
だからいつも、危険と隣り合わせです。
常に何事にもリスクは潜んでいます。
回避できるものもあるでしょうが、引き受けざるを得ないリスクもあります。
そんなとき私はいつもこう考えるようにしています。
リスク対応は逆張りに限る。そうするとクスリになる。
人の自由を奪うものの一つの暗喩としてしばしば鎖はモチーフとなります。
架けられる鎖もあれば、おのずから掛ける鎖もある。
他人が行動を起こさないことが理由でやる気が失せてしまうというリスクは、悪魔の誘惑です。
暗喩としての鎖は、解き放つべき対象。
もし鎖を感じたら、アインシュタインのこの言葉を思い出しましょう。
「今までと同じ考えや行動を繰り返して、異なる結果を期待するのは狂気である。」
今は昔の足踏み式の自動縫製機。
この輪転を巡回転させるのは、なかなか難しい。
母の居ぬ間にあっちまわしこっちまわしして糸をぐちゃぐちゃにしたことを覚えている。
上手く手と足を連動させることで、思いもよらぬ効率を上げる。
文明の利器 というものを始めて体感したのはこれだったかもしれない。
この頃は連動が悪く、先日も口に運ぶ前にグラスを傾け、あけた口の前で中身を零してしまった。
古きを想えば、懐かしくもあり切なくもあり。
思い辿るにこの経年、佳きか悪しきか、
沈香も焚かず 屁もひらず
「彼らが切望していることは生存することである。
経済学的ならびに発展主義的な見解が考えるような、カロリー単位で計算された単なる生物学的ないし物質的な生存ではなく、人間的な活力という点からみた文化的な生存のことである。
排除されている人々は、可能であれば「良く」生きることを夙(つと)に望んでいる。「良い」ということは必ずしも「より多く」という意味ではなく、また「より良い」という意味でもない。
それは、彼ら自身の価値、規範、文化的選択にしたがって、そして最も高い国民総生産を追求する競争に囚われたり潰されたりすることではなく、尊厳ある生活を営むことを意味する。」-セルジュ・ラトゥーシュ-{経済成長なき社会発展は可能か?}-
「彼ら」とは誰を指すのだろうか。
それはつまり 過去の現在の未来の 「私たち」 ではないか。
客は私だけ。
そこに、もう引退を考えているという教授が一人おみえになる。
静かな店内であるから、自ずと話し声が耳に入る。
「いやあ、年寄りの会合でしたが、抜け出してきました。なんせ話題と言えば、病気と孫の話、酔いがまわると昔の自慢話ですわ。はっはっは。」
店主が答える「そうですか、しかし私も孫がいますが、ありゃかわいい」
「そう、そうなんですわ。」と、その氏もひと瀬、孫を喜び自分の病気を歎き今の仕事の仔細を誇ったのであった。
「しかし、マスター、ひとはみんな同じですね。」
「そういうことでっしゃろなぁ」
今日も、杯は静かに進み、夜は更けていく。
中に何かが居る。
しかしそれに触れることは出来ない。
「脳は触られても何の感覚も生み出さない。
頭蓋骨という骨の枠にきっちりと収まっている脳は、その存在を知覚信号で訴えたりしない。
心臓は鼓動を、肺は拡がる感じを。胃はむかつきを訴える。
だが、運動性も知覚神経の末端も持たない脳は、我々にとって認識不可能な存在であり続けている。
意識の源が、意識の届かない場にあるわけだ。」-ニコラス・G・カー-
何かが中に居る。
はっきりとは捉えられない。
どうしてもフォーカスできないのである。
信じすぎるのもいけないし、信じなさすぎるのもいけない。
疑信と妄信も紙一重だ。
中庸の要とは、そのあたりのバランス感覚にありそうだ。
つまり合理的な釣り合いの取り方ともいえそうだ。
好かれすぎるのも困りものだが、嫌われたら最悪だということもある。
バランスよくピョンと跳ねられるかどうかは、非合理な感覚ではできない。
そのことは経済の世界でもいえるらしい。
「非合理な世界で合理的な投資の方法を考えることほど危険なことはない。」-ケインズ-