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心は火に似ています。
火はそれ自体では燃えませんし、これといった形もないものですが、火が付くというように、それが物に着いて初めてその体を成すようになります。
炭火があり、焚火があり、燈火などいろいろありますが、炭を取り去り、薪を取り去り、燈を取り去ってしまって、火というものを掴むことはできません。それぞれ、炭に着いて、薪に着いて、蝋燭に着いて、初めてその形を表すのです。
心もまた同じように、必ず何かに着いてその形を表すもので、単に心というものだけを掴むことはできないのです。
善いものに着けば善となりますが、不善に着けば不善となるのです。
心こそ心惑わす心なり、こころ、こころに、こころゆるすな。
行く末に 宿をそことも 定めねば 踏み迷うべき 道も無きかな
今日はあそこの宿まで行って泊まろう、と思って急いでいるといかんせん、途中で道に迷ってしまった。結局そこまで行けず、ああなんてこった。
しかし、既定、予定、思い入れ、などの定めをするから、迷い、焦りが生まれるのであって、それがなければ、そもそも「迷う」ということに意味はない。失敗と言うこともなければ、後悔と言うことも生まれない。
行く当てのない旅は楽しい、と昔誰かが言っていたが、先を急ぐと、粋な発見や綺麗な風景を見落としてしまう。
行く末は死ぬことにあっても、たぶんそう変わりはない。
腰かけて「みる」か。とは何事です。
腰かけてみるのも、腰かけるのも、結果においては同じじゃないか。
疑いながら試しに右へ曲がるのも、信じて断固として右へ曲がるのも、その運命は同じです。どっちにしたって引き返すことはできないんだ。
試みたとたんにあなたの運命がちゃんと決められてしまうのだ。人生には試みなんで存在しないんだ。やってみるのは、やったのと同じだ。
実にあなたたちは往生際が悪い。引き返すことが出来るものだと思っている。
-太宰治「御伽草子」より
将棋はとにかく愉快である。
盤面の上で、この人生とは違った別な生活と事業がやれるからである。
一手一手が新しい創造である。冒険をやってみようか、堅実にやってみようかと、いろいろ自分の思い通りやってみられる。
しかもその結果が直ちに盤面に現れる。そのうえ遊戯とは思われぬくらいムキになれる。将棋は面白い。
金のない人がその余生の道楽として、充分楽しめるほど面白いものだと思う。
将棋を指すときは、怒ってはならない、ひるんではいけない、あせってはいけない。
あんまり勝たんとしてはいけない。
自分の棋力だけのものは、必ず現すという覚悟で、悠々として盤面に向かうべきである。
そして、たとえ悪手があっても狼狽してはいけない。どんなに悪くてもなるべく、敵に手数をかけさすべく奮闘すべきである。
そのうちには、どんな敗局にも勝機がぼつぼつと動いて来ることがあるのである。
-談/菊池寛
宇宙(自然)のことをおもえば、そこには決して悪と言うものはないのです。ただ過ぎるとと及ばざるとがあるばかりです。この過ぎたるところ、及ばざるところが即ち悪と言う。
また同じように宇宙(自然)のことは、別に善と言うものがあるのではありません。ただ過ぎたると及ばざるとがないところが即ちこれが善であるというのです。
例えば、徳川家康が女中達に対し、世の中で一番うまいものは何かと問うた時、お梶の局が、「それは塩でございます」と答えましたので、「それでは一番まずいものは何か」と問うと、やはり「塩でございます」と答えたということです。
なるほど、塩は調味料でこれが過不足なければ美味、もし過不足あればこれほど不味いものはないのであります。
-出典不詳
水面に月が映っている、月影が水底に宿っている、いま月光は水中に広まっているが、月が隠れると、水そのものにはなにも残らず、月も光も痕跡を残すことも無い。
いささかも執着の跡がない、このような境地を求める、これを水月の道場と言うらしい。人間に心があり、眼、耳、鼻、舌、身、意、の欲がある以上、財宝も、名誉も、美人も、酒も、もとより心の水に映ってくる。
映るのは当然である。しかしながら、それが映ってきても、痕跡を残さないように、それが水と月との関係のようであったなら、そこに執着は微塵も起こらない。
空華は夢という意味で、人生のすべてを一切夢であるとみる、金も名誉も美人も地位も、ことごとくが夢であると観じたならば、それに執着することは野暮でしかない。
ということで、この句の意味は、「執着のないこの水月の関係のように、人生の一切をうたかたの夢とみてゆけ」ということのようだ。
気性なのだろうか、立身出世なぞには全く気乗りせず、あるがままに生きている。
袋の中には三升の米、囲炉裏には一束も薪があれば、それで十分。迷いや悟り、名誉や利得ということを聞かれてもわしゃようわからん。
ただ、夜にかけて雨になった晩に、この狭いボロ庵の中で両足をいいかげんに投げ出してみるとこの伸びは案外心地よい。
良寛さんは、年とるにつれて、人々から尊敬されるやうになった。みんなは良寛さんを偉いお方だと思った。
べつだん良寛さんは、人が驚くやうな大きな仕事をしたわけではなかった。良寛さんの偉さはじみで、目立たなかった。
ちょうど眼に見えないほど細い糸で、しみじみと降る春雨のやうに。春雨は土を黒く潤し、草や木を芽ぶかせてやる。良寛さんの人がらも、そのまわりの人々の心を潤し、浮ついていた心をしっとり落着かせ、知らぬ間に希望(のぞみ)と喜びの芽をふかせると言う風である。
世間で偉いと言われている人々の中には、なるほど固い意志の力を持って大きな仕事をしとげはするが、人間らしさを持たないという人もないものではない。しかし良寛さんはそんな人とは違っていた。良寛さんは、飽くまで人間らしさを失わなかった。
或日良寛さんは、野中の一本道を歩いていた。ひさしぶりで懇意にしている家へ訪ねていったのに、あいにく留守だったので、もういく先のあてもなく、ぶらりぶらりと歩いていた。
空に一つの白くふくらんだ雲が流れていた。野には良寛さん、ただ一人の姿が見えた。他に何もなかった。春風が軽く吹いていた。遠くにちらちら光るものがあった。草の葉や水だった。
良寛さんは、ぼんやりして歩いていた。すると、頭に不意と一つのことがうかんで来た。
「お金を道で拾うと大変嬉うれしいものだ。」といつか誰かから、きいていたことである。
それを想い出すと良寛さんは、早速実験して見たくなった。幸ひ、あたりには誰もいなかった
良寛さんは鉢の子の中から、さっきお百姓家でもらったお金をとり出して、道の上に投げた。そして拾った。
「なァんだ、ちっとも嬉しくない」
とひとりごとをいった。実際、少しも嬉しくはなかった。
――もう一ぺんやって見よう。
今度はもう少し遠くへ投げた。お金は石ころにあたって、ちゃりんとひっくりかえった。良寛さんはまたそれを拾いあげた。
「なァんだ、ちっとも嬉しくないじゃないか」
――これはやり方がまずいのかも知れない、もう一ぺんやって見よう。
今度はもっと遠くへ投げた。同時に自分の眼をつむった。ちやりんと音がした。それからそうっと眼をひらいて見た。
「おや。」
お金は何処どこかへ隠れてしまった。もう道の上には見えなかった。
良寛さんは、お金の落ちたあたりへ走っていった。そして探しまわった。
お金はなかなか見つからなかった。
「こいつはしまった」
良寛さんは頭をかきながら、草の中を探しまわった。そのうちに、とうとうお金は見つかった。小さい紫の花をつけている菫(すみれ)の葉の下にそれは隠れていた。
「なァんだ、菫めが隠しておったのか」
そう言いながら、良寛さんは、お金をまたもとの鉢の子の中に収めた。
これで実験は済んだ。そしてその結果、人々が「道でお金を拾うと嬉しい」と言うことは、確に本当であると、良寛さんにわかった。
「いや、全くだ。全くほんとうだ。」
――それにしても、わしはなぜこんな野原の真中で、こんなことをしているのだろう。良寛さんは、雲を見てちよっと考えたが、解らなかった。
-引用/新美南吉「良寛物語」より
魂は抗議する。
「われわれは不運だ。これからどれほどつらい試練に堪えなければならないことか!肉体を満足させるためにどれ程いやなことをしなければならないことか!肉体は間もなく滅びるのに!」
ー「コレ・コスム」ヘルメス古写本より