(photo/
source)
山科の丿観(へちかん)は、利休と同じ頃の茶人だった。
あるとき、丿観が茶会を開いて、利休を招いたことがあった。案内にはわざと時刻を間違えておいた。
その時刻になって、利休は丿観の草庵を訪れた。ところが、折角客を招こうというのに、門の扉はぴったりと閉っていた。
「はてな」
利休は潜り戸を開けて、なかに入った。見ると、すぐ脚もとに新しく掘ったばかしの抗があり、簀子(すのこ)をその上に横たえて、ちょっと見に分らぬように土が被せかけてあった。
「これだな、主人の趣向は」
客はその瞬間、すぐに主人の悪戯(いたずら)を見てとった。
平素から客としての第一の心得は、主人の志を無駄にしないことだと、人に教えもし、自分にも信じている彼は、何の躊躇もなく脚をその上に運んだ。
すると、簀子はめりめりとへし折れる音がして、客はころころと坑のなかに転げ込んだ。
異様なもの音を聞いた主人の丿観は、わざと慌てふためいて外へ飛び出して来た。坑のなかには利休が馬鈴薯のように土だらけになって、尻餅をついていた。
「これは、これは。宗匠でいらっしゃいましたか。とんだ粗相をいたして、まことに相済みません」
「丿観どの。老人(としより)はとかく脚もとが危うてな……」
客としての心得は、主人の志を無駄にしないことだと思っていた利休も、案外その志と坑とが両(ふた)つともあまりに深く、落込んだままどうすることも出来ないで、困りきっていた場合なので、丿観が上から出した手に縋(すが)って、やっとこなと起き上って坑の外へ這い出して来た。
二人は顔を見合せて、からからと声をあげて笑った。
客は早速湯殿に案内せられた。湯槽には新しい湯が溢れるばかりに沸いていた。茶の湯の大宗匠はそのなかに浸り、のんびりした気持になって頭のてっぺんや、頸窩(ぼんのくぼ)にへばりついた土を洗い落した。
浴みが済むと、新しい卸し立ての衣裳が客を待っていた。利休は勧めらるるがままにそれを着けて、茶席に入った。
「すっかり生れかわったような気持だて」
利休は全くいい気持だった。こんな気持を味うことが出来るのも、自分が落し坑だと知って、わざとそれに陥(はま)り込んだからだと思った。これから後も落し坑には精々落ちた方がいいと思って、にやりとした。
丿観は、客が上機嫌らしいのを見て、すっかり自分の計画が当ったのだと考えて、いい心持になっていた。
それを見るにつけて利休は、主人の折角の志を無駄にしなかったことを信じて、一層満足に思った。
-切抜/薄田泣菫「利休と丿観(艸木虫魚)」より-