南無煩悩大菩薩

今日是好日也

身空。

2009-02-28 | つれづれの風景。

身に美しいと書いて躾。しつけ。

身に空っぽと書いて躻。うつけ。

躾を責められるも、躻と笑われるも、おのが身上。


今では虚け若しくは空けと書き慣わすが、躻のほうがよろしかろうと思う。

室町期の古本によれば、「ウットリ」という振り仮名がある。
うっとりとは、魂の抜けた様。ぼんやり者、気抜けした者の意であるという。

うっとりとうつけは、同じように捉えられていたようである。

アンニュイな風景や、綺麗なねえちゃんをみてうっとりとすることはたまにあるが、うつけになっていたとは。いやはや。

たわけであることは、自覚していたが、うつけとの自覚は余りなかったのである。


たわけもうつけもおっつけしつけねばなるまい。

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マスト。

2009-02-27 | つれづれの風景。

must:マストとは必要なことやものをいう。

ある社会学者が言うには、国民が幸せに過ごし得る国家を作るためには、絶対に必要なものが三つあるという。

良い教師に、良い医者に、良い聖職者。

学校が信頼でき、病院を信用し、先導に安心するということであろうか。

知と体と精神においての社会資本の充実は、なるほど幸せの根幹である。

不安定で不幸せな国とは、教育と医療と宗教において、その質に問題があるのだともとれる。

必要とは、欲求ではない。

欲しいものか必要なものかの区別がつかなくなれば、欲しいもののために必要なものをないがしろにしてしまう。

先ず取り組むべきは、そこであると、その社会学者はいいたかったのではなかろうか。

マストビー・・・をもう一度見直すのに良い機会かも知れない。

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叙述性。

2009-02-24 | つれづれの風景。
山下清画伯は、文字を書くとき句読点を使いませんでした。

理由をこう述べています。

「僕はおもうんだけれど僕は話すときに点とか丸とかは言わないんだなだから書くときも使わないんだな」

ということだそうです。


叙述性とは、述べたいことの必要なだけの全体像を必要なだけの言葉によって過剰にならず紡ぎだすことで高まるものだと思っています。

単語を連ねて文を創る、その文の集積によって叙述を創る。それが単なる集積以上の意味を持つところが叙述性の成り立ちといわれます。

展覧会で初めて見た、画伯の手紙や文章は、強くストレートでした。
てにをはに多少の難がありかつ句読点のない、平易な単語と文の集積ながら、画伯の手紙や文章や語録は、叙述において明確なメッセージを発していたのであります。

作品しかり。その叙述性の秀でていること、なるほどと頷いた次第。

自分の言葉で自分の思いを誠実に語っているということでありましょうか。



さすが、野に咲く花は強いと感じられたのであります。

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発見。

2009-02-21 | つれづれの風景。

そこに行くたびに、もう何十年もこの作品を僕は目にしてきた。

イサム・ノグチ氏の丸い巨大な作品である。

サッカーボールかと思いきや、作品名は、月 である。

ほんの最近まで、この作品に対する僕の態度は、気にはなるものの、一瞥以外のものではなかった。

じっくり眺めてみて初めて、僕には彼の意図が理解できたような気がしている。

大きなクレーターだと思っていた穿たれた丸い窪み。

!。 太陽の運行によって、それは新月から満月までの月の表情を見せるのだ。

氏の本当のところの芸術性は違う処にあるのかも知れない。しかし、僕はこの発見を無邪気に喜ぶのである。

提示されてあるものに、我なりに何かを発見することは、すべからく楽しい。

芸術も人間の営為も饒舌ではないから、それもこんなで妙に嬉しいのである。

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誘手。

2009-02-17 | つれづれの風景。

柳に飛びつこうとする蛙には、このように見えているはず。


蜂のムサシや、カモメのジョナサンは太陽に挑んだ。

目の前に人参ぶらさげられた馬はよく走るともいう。


理屈ではなく、そこにあるから動機付けられることは多い。

なければならぬものではなく、あるからなければならぬことだったようにおもえる。

ぶらさがっているものに、触手を動かすのは、いたしかたもない。

げんにあたしも、揺れる柳に必死こいてこのアングルを撮っている。

おおきな口開けて。


据え膳食わぬは武士の恥、ともいうが、要は、単に誘いに乗るのか、もしくは挑戦や開拓といった意気込みの有無が、かっこよくも、アホヅラにもするのではなかろうか。


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無彩。

2009-02-16 | つれづれの風景。

薄墨を垂らし颯となでる

近景には濃を遠景には淡を

一筋の蒸雲立ちて 楓林を羨まず

雲天開けき朝衣の白もさえざえと

風途絶え雨上がりひととき弛む。


私は無彩なれども色ある景色を愛す

何ぞ一人彩色に狂せむや

墨に五色あり。

余は好きぬ。

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がんかけじぞう。

2009-02-14 | つれづれの風景。

どうでっしゃろ。

わし。似合いますやろか。

こうじぞう、いいます。

近視に乱視が少し、このごろすすむは老眼。

眼鏡(がんきょう)借りましてん。

貸したほうは、カメラのピントがあわん!ゆうてさわいでます。

そりゃそうや。わしに貸してるんやし。

たまにこんな人おります。


かけるもんがちゃうんですわ。

がんきょうじゃなく、がんかけるのが、地蔵ですよってに。


などといわずもなく。

地蔵は黙して語らず。

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誉れ。

2009-02-13 | つれづれの風景。

強烈な横顔である。

しかし悪い人には見えない。

しかし抱かれたいとも思わない。

顔全体が筋肉である。

笑えばどんな顔になるのだろう。

わりとすごくチャーミングになるのではなかろうか。

エレガントさには程遠いかもしれないが、ストイックさにかけては抜群だ。

後ろに控える本尊を守り通す気概に満ち溢れている。

誉れというものを感じる。

気概のある顔はしかし、ほれるのである。

彫像でなくても、ほれぼれする。

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席。

2009-02-12 | 有屋無屋の遍路。

ある男がいた。

その男は、蛙の鳴き声を聞きたいと思った。

庭に小さな池を掘り、おたまじゃくしを買ってきてそこに放した。

おたまじゃくしは手も足も生えてきて順調に育っていた。

ある日男は、ある出来事から、アヒルのひよこ達を買うはめになった。

その男はそのうち、ある事情からその場所を引っ越していった。

或る日、成長したヒヨコ達が小さな池で騒いでいた。

アヒルの水浴びで濁った水がやがて澄んでくると、そこにはもう、一匹のおたまじゃくしの姿もなかった。

・・・。


魯迅さんの短編に確かこのようなストーリーがあった。


私はふとそんな考えが浮かんだ。

椅子はあれども席は無し。

おたまじゃくしやひよこやあひるからみれば、その男は椅子は用意したけれども席は用意できなかった。

そのおたまじゃくしやひよこやあひるからみれば、その男は運や縁の創造者とも映る。



席を確保する。

こしかける ものでありながら、なにかを けしかける ものでもある。


蛙の鳴き声が、アヒルの鳴き声に変わっても、それが意図したことではないとは、誰も言い切れないだろう。

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丸窓。

2009-02-09 | つれづれの風景。

井戸から空を見上げれば、世界は四角に切り取られる。

丸窓から見たそれは、丸い。

まちやなどの、漆喰で丸く抜かれた窓に、四角い障子戸というような趣向も、古くから見受けられ、粋な感じがしたものだ。

望月の月明るき晩に、ま白き障子の丸い光は、まるで月を居間に取り込んだように美しい。

この頃は四角い世界を、みるばかりになってしまっているようにもおもう。

粋の反対は、野暮である。

話は、変わるが、「やにさがる」とは、煙管(きせる)のやにがさがるほど天向けていい気になっていることをもともとはさすらしい。

野暮は、茶にされる。ともいう。

丸窓に差し込む西日に目をくらまされながら、紫煙くゆらし、茶でも飲んで、丸くいきたいもんだなどと思う。

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メッセージ。

2009-02-07 | 有屋無屋の遍路。

情報理論の第一の法則によれば、あらゆる中継器が、雑音を倍増し、メッセージを半減させるという。



機械に限らず、人を介して発せられるメッセージも、数人を経れば、もはや原型は留めない。

雑音の中から如何に純度の高いメッセージ性を抜き取るかは、かなりの高度な技量と性能を要する。

しかし困ったことに、高度情報化社会というものは、シンプルで雑音の少ない純正のメッセージではインパクトが低くなるという傾向もあるように思える。

ストレートに伝えれば伝えるほど、いぶかしきものと受け取られることも多々ある。

かえって雑音の方に価値基準が移ってしまうことも。

単純な疑問に答えられるものがメッセージの本質でありながら、雑音によって全く逆の様相を呈し、それを受け入れてしまうのである。

真の逆は誤、良の逆は不良、である可能性は高くなる。

こういった心理を悪用するのが、いわゆるまやかし専門の知能犯でもある。

嘘である。というメッセージは、雑音を並べ立てることで半減×半減させれば、本当である。に限りなく近い情報としての羊頭となる。

メッセージそのものは、清濁良悪適不適、世に満ち満ちている。自己責任においてその選択は当人に委ねられているものでもある。

処世術のひとつとして、雑音に惑わされず、メッセージの本質を賢明に抜き取れるかどうかの力量は大事だろう。

自分の頭で理解できないようなことに、メッセージ性は存在しないと肝に銘ずる必要がある。


いわれの無い儲け話や、つもりの無い献身や、寄る所の無い自信、その場しのぎのまやかしなどは、単純思考のフィルターを通すことで、かなり取り除けるものでもあるように思える。



昭和20年。レコードとラジオという中継器を通じた、雑音だらけの玉音放送はしかし、敗戦という強烈なメッセージを国民に伝えた。

その多くは話の内容ではなく、現人神(あらひとがみ)の声という、当時の庶民にとっては、信じがたいことを想起させるという、そのメッセージ性によるものだろう。


私は思う。

メッセージをしっかりと受け取ることは、決して難しいことではない。

雑音に耳を奪われないことなのだ。

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岩に花。

2009-02-06 | つれづれの風景。

祝い唄の中でも岩に花とはめでたさの象徴。

君が代は、さざれ石の巌となりて、苔むして花が咲く。

幸せの黄色いハンカチ色の花が岩に咲いている。

ように見える。

実際はどうであれ、岩に花が咲く如く、物事を捉えられると幸せだ。


無理だと諦めていたことが、ある天恵を持って動き始めるかもしれない。

咲くはずのない場所などはなく、一念岩をも通すと思えば花よ。


めでたさは春の桜に秋紅葉、念じて咲かせる岩に花。

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ゆきどけ。

2009-02-03 | 酔唄抄。

人間の心というものは、認知した現状と自分の思いがずれていると、自分の思いを歪めてまでそのギャップを埋めようとする。

環境に適応しようとする人間の心の強さといえる。


「わしは酔ってなんかおらんわい!」

こうのたまう者ほど、もうやめたほうがよろし。

「いやぁ酔っ払っちまった。」

こういう人は案外しらふであります。


もうあかん。もうあかん。という人ほど余裕があり、いやまだまだ大丈夫やから心配せんといてな。ありがとう。という人ほど、実は極冠的に、より辛い状況なのではなかろうかと思う。


人は、思うと思わざるに関わらず、本人も気付かず、嘘をついてしまうこともある。

それは、本人が心のバランスを保つ為の、自己防衛本能であることも多い。

思いを歪めることで、平静を保とうとするけなげな本能と映る。


なにもかもが、自分をさらけ出して、自分らしく生きる。などということは難しい。

せめて、人の気持ちをそういう面からも汲んでみることで、自らも澱のように溜まっているわだかまりが、溶けるかもしれないと思う。


久しぶりに、バーボンくさいバーボンを呑みたくなる。

ロックグラスの中で、カランと氷が回転する。

季節はもう、ゆきどけをはじめている。


ギャップは  埋まるだろうか。

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