南無煩悩大菩薩

今日是好日也

環境適応。

2009-01-31 | 有屋無屋の遍路。

お。すずめやないか。


そういやぁ。やきとりやのおばちゃんがゆうとった。

この頃はええすずめが入らんようなったから、出すとこないやろ?ゆうて。


わし。等身大で尾頭付のあれはどうも苦手でしたけど、好きな人は、残念がっていましたなぁ。

なんでも、山の中で、穀類しか食っていない奴で飢えているぐらいでないと、食用にはならんらしい。

日本のすずめちゃんは、遠の昔からだめになっておって、手付かずの自然が残るアジアが輸入先やったらしいわ。

そこも近年は、発展で環境がおかしゅうなって、食えんすずめちゃんになったんやて。

雑食よってに、何でも食えるようになると、食われんようになって、そりゃええのかわるいのかちゅうことですわ。


人間にとってのええすずめはおらんなったけど、すずめちゃんにとっては褒めてもらわんでよろしいわな。

おばちゃんの嘆きは、すずめちゃんの喜びですわ。


すずめちゃんには、天敵が減って、住みやすい世の中んなったんかもしれまへんなぁ。



お。相変わらず、ちゅんちゅんゆうてかわいらしゅう啼いてはるわ。

なんや。わしにはこう聞こえます。

「私がかわったのちゃうちゅんねん。環境がかわったちゅんよ」と。



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はじめとおわり。

2009-01-28 | 有屋無屋の遍路。

はじめ君は言いました。

こうすればいいじゃないか。

おわり君は反論します。

そうしたら後で困るじゃないか。


何の話だろうと、耳をすませて聞くと、二人ともその言い分には、もっともな理由がありました。

ただ、はじめるまえのことと、おわったあとのことの意見を主張する二人に接点はなかなか見出せません。


難しく言うと、二人は、「事前合理性」と「事後合理性」について述べているのです。


そんなはじめ君とおわり君の間に、「幸運」君と「チャンス」君と「災難」君がわって入りました。

ほんとにそれは、「偶然」の出来事といえるものです。


はじめ君は、チャンス君ととても話が合いました。おわり君は災難君の話を熱心に聴いています。

そしてそのうちはじめ君は災難君の話も聞いてみようと思いました。同じようにおわり君はチャンス君のいうことも聞きたくなりました。

幸運君には、それが「必然」のように見えました。


このことを、「偶然を必然がつかまえる」といいます。


はじめ君とおわり君の考えがちょっとづつ変わっていくのを見て、幸運君は微笑みながらうなずいていました。


そのうち二人はきってもきれない仲となり、はじめのおわりかおわりのはじめかわからなくなりました。

丁度、東の人にとっての日没が、西に住む人にとっては、朝日になるように。


そして両方とも互いに意見を尊重し受け入れてなごやかに過ごしたそうです。


このような状態を、「はじめ、おわりで、あとなごやか。」というそうでございます。

初め尾張であと名古屋か。


人も地名も変わっていくものでありましょう。

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遠くから。

2009-01-26 | 有屋無屋の遍路。

湾を遊覧する観光船が、その航跡を雄大な波形で描いている。

乗船している当事者にこの波形はおぼつかないだろう。


音が聞こえるのは、音の波長が描く振動数に由来するが、可聴範囲は限られている。

物が見えるのは、紫外線から赤外線の枠内の可視光線の波長の相互干渉の結果を捕らえるからである。

音は、音源から発せられたものであり、色は光とその物体との共同作業であるから、光はあっても物がなければ、何も見えない。その逆も真である。

物そのものが自ら、波形を送れるとすれば、視覚を曲げて塀の向うを見ること、つまり透視することも理論的には可能になるだろう。

覗き込まなくても、スカートの中のパンツを見ることが出来るということだ。

それはよろしくない。

みたくないものまで見えるのは、考えものである。



受容器官があって、受け取った波長を信号化して、意味のある情報として伝達する場合に、それはほとんど、波形という信号を読み取るということと同義だといえる。

波はそれそのものであるが、受け取りかたは、波形の感度という受容体に依存する。


ある意味、鈍感になる。ということは、所謂可視可聴可能な波形への受容体としての機能幅が衰えたきたということでもあるだろう。

若しくはこの遊覧船の乗船者のように、近くにいすぎるということもあるかもしれないし、見えない場所にいるからかもしれないし、聞こえない範疇だからかもしれない。


それ自体はいいことともわるいことともいえないが、可能な範囲で遠ざかってみることで、それそのものの広がりを経験する事は、少なくとも航海の仕方、航跡を発見する機会とはなる。


船の跡は先ではなく、後ろにたちあがる波形で理解できる。時間経過による変節と密接に結びつき、それを形として知らせている。


こういうものを、こうかい先にたたず。というのだろうか。

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自己考課。

2009-01-24 | 有屋無屋の遍路。

人は自分が何をしているか、ほんとうにはわかっていない。

この事実を隠さない方がいい。

相手を身構えさせないばかりか、相手を旅の道連れにする大きな吸引力になるからだ。

自分は自分が何をしているかわかっていると思っている人間を、人は早く嗅ぎつけ、直感的にそんなことは不可能だとわかるので、おそらく、それを疑うようになる。

-ポール・ボルン-



私はなにがしたいんだ。

私はなにをやっているのやら。

ただ、道行く連れ人に、疑われるであろうことも否めない。


そう思うかもしれないし、そうは思わないかもしれない。

それは欲しいかもしれないが、必要ではないかもしれない。

それが必要ではあるが、欲しいとは思わないかもしれない。


いったい私はなにをしているというのだろう。

ぜんたい私に何ができるといえるのだろう。

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おたべやす。

2009-01-22 | 有屋無屋の遍路。

織田がこね、豊臣つきし、天下餅

棚から落ちて 食うは徳川。


江戸初期の落首である。いわゆる世論。



はたから見てる庶民感情を、せろんというらしい。

それにある種の専門性を持たせ、統合感およびサゼスチョンの加わったものを、よろんというらしい。


倣って、個人的にせろんをひとつ。


あべがこねなし、ふくだつきなし、天下餅

あそうかと くっても腹の足しならず。



おたべやす。

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環境と宇宙。

2009-01-20 | つれづれの風景。

環境とは、誰にとっても自己以外のすべて。

宇宙とは、それとは反対に自己を含むすべて。

宇宙と環境との唯一の境界は、自己。

それは経験する観察者。


と。

定義した思想家がいた。


他に交わるときは、環境の中に自己がある。

一人自分に向き合うとき、自己をも含めた宇宙がある。

そういうことかもしれない。


環境(まわり)を観察するより自己を観察する事で、大きな者となれ。

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助かる関係。

2009-01-19 | 有屋無屋の遍路。

助け合いやチームワークについて、めくらとつんぼといざりを題材にした古典の教えがある。

今様で言えば、目が見えない、耳が聞こえない、歩くことが出来ない、ハンデを背負った三人の物語である。

その話のすじはこうだ。

三人が一緒にいるときのこと。

その長屋から、火が出て家事になった。

「火事だ火事だぁ!」と近隣のものが口々に叫ぶ。聞こえるのはめくらといざりだ。

しかし、めくらは逃げる方向がわからない、いざりは逃げ遅れるだろう。つんぼははなから知りようがない。

めくらが闇雲に逃げようとし、いざりが這って逃げようとし、つんぼが訳のわからないままにいれば、やがては三人とも焼け死ぬだろう。

幸いこの三人は、自分をよく知り、かつ知恵があった。

どうしたか。


めくらはいざりにたのんでつんぼに身振りで火事を教え、めくらがいざりを背負いつんぼがめくらの手を引いて逃げたのである。




目が見え、耳が聞こえ、歩くことが出来る人は、簡単に逃げられたかといえば、そうもいかないのが、世の中面白いところであります。

かえって、先を争い共倒れ。なんていう結末なきにしもあらず。

見えていても見ず。聞けども聞こえず、歩んでも進まず。であります。



馴れ合いや競争を越え、一人では出来ないから寄り添う。

助かる関係とはこのようなもの。

あいみたがい。というものではございませぬか。

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遠望。

2009-01-17 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。

眠る山を遠望す。

寒松の下、北風禿を刺し

毛穴まで浸透する冷気、おのずから矜持胆に芽立つ。

春がたち夏がたち秋が立ち冬がたつ。

立たぬは愚息ばかりなり。

云わんや 

遠く望むは、山笑う。

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雪の達磨の問答。

2009-01-16 | 有屋無屋の遍路。

転ぶことや転がすことで、みるみるまに大きくなるのが雪だるま。

だるま造りは、労少なく大きなものができるので、子供にとっては簡易かつ有意義な遊びとなる。

そのメカニズムはいたって簡単ではある。

いたって簡単なゆえにその方程式によって負の生成も雪だるま式にしてしまうことも多いのである。

借金や信用失墜なども気を許せばすぐに雪だるま式だ。

はじめれば、どんどん大きくなる雪だるまの魅力を忘れられずにいると、くっついてきているものの危うさを過小評価してしまう。

きれいで、かわいい雪だるまを造るコツは、充分な雪の料に見合った大きさを維持しつつ、えんの運動を適時適当にまんべんなく描く転がし方にある。

借金も円の使い方、信用も縁の使い方、その問題である。


丸くきれいに治めるためには、それなりの過程を必要とする。

いびつになりいらないものまでくっついてくるということは、いたって簡単な雪だるま造りのメカニズムを理解していないか、そのプロセスのずさんさにある。


なるほど。さすが達磨。雪であっても、解けない問答を仕掛けてくるのである。

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思慕酒。

2009-01-10 | 酔唄抄。

日本に初めてガス燈が灯ったのは、明治5年西暦1872年の横浜だという。

10月であったというから、少し肌寒い街中のガス燈は、文明開化の希望と共に暖かく頼もしく市民の目に映ったことだろう。

明治は遠くなりにけり。か。

いまではもう、昭和は遠くなりにけり。の世となった。

内平らかなるにして、外成る。の平成の世もはや20年。

学を志し、それを立て、不惑の念を信じて天命と知るとてあと幾許(いくばく)や。


素愁を抱き 夕餉の灯もれ温し ガス燈は揺る 冬暮の酒。


こういう処での一杯は、思いに浸みる。

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蜃気楼。

2009-01-08 | つれづれの風景。

新年早々珍しいものにお目にかかった。

無論地図上にはない島が、私の目には映っている。

見えないものが見える。

こいつぁあ春から縁起がええやね。
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丑年。

2009-01-06 | つれづれの風景。

牛はのろいほどゆっくりあるく。

しかしその一歩一歩は、力強く着実だ。

その目的の地まで、まっすぐに歩くのだ。


丑という字は、指先に力を込めた象形であるという。

しっかりと気を込めつつ、泰然と今年を踏みしめたいものだ。

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揺籃の。

2009-01-04 | つれづれの風景。

アンドロメダ星雲は、煌く星々を育む黒き星雲なり。

黒き雲ありしに、尊き黄金いずるや。

暗雲立ち込めるは、黎明の揺籃なり。

いざ待たん。その日出国の神々を。
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いでよ。

2009-01-04 | つれづれの風景。

もうすぐ日出でる。

きざしに胸は高鳴る。

きざしているからきざしである。

めざしではない。めざすところの兆しが揺籃の美しさを見せるのである。
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おはつ。

2009-01-04 | つれづれの風景。

日の出であります。

こくうんは太陽で黄金に輝くのであります。

ソーラー、みてみなさい。


2009、本年がまたひとつ佳き歳であったと思えますように。

合掌。
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