南無煩悩大菩薩

今日是好日也

ある刹那。

2009-06-29 | つれづれの風景。

セツナ「刹那」(梵語)
:仏教ニ時ノ極メテ短キノトナエ、壮士ノ一弾指ノ間ヲ云フトゾ(極メテ長キ劫(ゴウ)ニ対ス。)
-言海より-


「刹那(せつな)」:瞬間瞬間。
「銭に恋着して―忘るること能はず/福翁百話(諭吉)」

「刹那(せつな)」:刹那におこる思い。一念一念。
「我等がこころに―のほしきままに来りうかぶも/徒然 235」
-大辞林より-



ある刹那の風景。
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その刹那。

2009-06-29 | つれづれの風景。

時(とき)は、時に私をふりかえらせる。

急ぎすぎた瞬間(とき)でさえ、永すぎた数多(とき)でさえ、その刹那(とき)は一時(いっとき)に凝縮された「念」を残すようだ。


一所(生)懸命でがんばる。という言葉があるが、一時一念でがんばる。ということもよろしいのではないかと、よい意味での刹那的にふと思う。
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考える童(わらべ)。

2009-06-27 | 有屋無屋の遍路。

うーん。

我社がわらしべ長者になるためのアプリケーションとはどうあるべきか。

慎ましやかに又親しく人に交わり、元気に解かりよく物をいい、自らは加わらないが若いものの喜悦を真面目に庇護し、色々と気を用いて世話を心がけ、周囲が喜ぶことに満足と好感とを示すことのできる老人になるためには何が必要か。

うーん。

転んだことで掴んでしまった藁(わら)と、大事に持っていなさいという観音様を信じたことと、物心ともに需要と供給に逆らわなかったこととに核心が潜んでいそうでもある。

うーん。


考えるとき大人は困難を思い易く。
考えるとき童は希望を思い易いのではなかろうか。


そんなことを、考えるあっしである。

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崇高と美の感情性について。

2009-06-26 | 日日是好日。

満足や嫌悪などの色々の感じは、それを引き起こす外因というよりも、むしろそれを快不快と感じる各人に固有の感情性に基づくものである。

ある人々の喜びを感じるものに、他の人々が胸をむかつかせたり、恋愛の情熱がしばしば一般人にとって謎であったり、又あるひとが激しい反感を持つことに、他の人は全然無関心であったりするのはこの故である。

人というものは、愛欲を満足させる限りにおいてのみ、自ら幸福を感ずるものであるから、別段の才能を必要としないで、大きな満足を授けてくれるこの感情性というものは、確かに教訓にもなれば、面白くもある発見の資料を豊富に蔵している。」

-イマヌエル・カント-


カントさんはこうおっしゃっている。そして、次のように、


「下品な猥談や、粗野な諧謔で激しい喜悦を感じる肥え太りの人物、自分が楽しいという理由だけで、人を翻弄愚弄する気楽人、利得を得ることが利口でそれ以外の満足をくだらないと思う商人。異性を肉欲の対象となる限りにおいて愛する男、いずれにしても自分流儀の感情性を持っている。ただし私が注意を向けるのは、このような全く頭のない者にでも生起する低級な感情性ではない。」

小生ではなく、カントさんがそうおっしゃっているのであります。

そうまえおきしたのち、崇高と美の感情性の存在を説く。

「もっと高尚な種類の感情性があるのである。かく高尚な種類と呼ばれる所以は、飽くことなく、疲れることなく、永く享楽しつづけることができ、道義的昂奮に役立ち、魂の反応を呼び、才能と悟性の卓越を引き起こすものである。」

と。

そしてこう続ける。


「高尚な感情性というのは、主として、崇高の感情性と美の感情性の二種類である。聖なる森林の高い楢樹と寂寥たる影は崇高である。花壇、綺麗に刈り込んだ樹木は美である。夜は崇高で、昼は美である。崇高は揺るがし、美は唆(そそのか)す。崇高なるものは常に大きくなくてはならぬ、美なるものは小さくてよい。崇高なるものは単純でなければならぬ、美なるものは磨かれ、飾られてもいい。」


いやはや。勉強になりました。さすが哲人カントさん。

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崇高と美についての男女感。

2009-06-26 | 日日是好日。

悟性は崇高であり、機知は美である。

勇猛は崇高で、偉大であり、奸策は卑小であるが美である。

クロンエルは、慎重は市民の長の徳だといった。

真実と誠実とは単純で高貴である。

諧謔と丁寧な会釈とは、雅にして美である。

行儀は徳の美である。

己を捨てて他のために尽くすことは高貴である。

洗練と尊重とは美である。

崇高な性質は尊敬を、美なる性質は愛を起こさせる。

-イマヌエル・カント-


そしてその男女両性に於ける崇高と美についてこう語っている。

「女性は優美な性であり、男性は高貴なる性という名称を要求する権利をもっているだろう。」

「女性においては、全ての他の長所は美の性格を高めるために合一されるべきものであり、これに対し、男性の特質の内では、その目標として、崇高が明晰に現れていることになるべきだ。」

「この二つの性についてのあらゆる判断は皆、賞賛も非難もこの点に関係してこなければならず、あらゆる教育も指導も、これを目安としなければならぬ。」

「この二種の区別については、自分の前にいるのは人間だという観念を持つだけでは充分ではなく、人間は一種ではないいうことを忘れてはいけないのである。」

と。

小生ではなく、カントさんがそうおっしゃっているのであります。

いやはや、まったくもって、勉強になりました。

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儘に受ける。

2009-06-24 | つれづれの風景。

つゆでんなぁ。

そうでんなぁ。

雨落ちてきますやろか。

そりゃきます。つゆですよってに。

そりゃそうと傘ありまへんで。

なけりゃしゃあない。顔で受けましょ。

そりゃそりゃそうじゃそらそうじゃ。


そりゃそうじゃの雨は、儘に受けてみよう。

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シトピッチャン。

2009-06-22 | つれづれの風景。

蓮の葉が雨を受けている。

ぱらぱらと落ちている。

驟雨のようだ。

そのうち小降りになるだろう。


やがて。

篠づく雨が雫となって蓮を伝って落ちてくる。

しとしとぴっちゃん。

シトピッチャンは、目を閉じてその風景を思うのがなんとも落着く。

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八咫(やた)の鏡。

2009-06-20 | つれづれの風景。

天照大神は、女神の胸も陰部も妖艶裸々の踊りでその気になって、八咫(やた)の鏡に興味を惹かれ、天の岩戸から引き出されたという。

日本の神々は、その原点にして、かくも微笑ましく爽快である。

「あけっぴろげ」なのである。

神とは本来、そういうものであってこそ、「拝みたい」という信仰につながるのではないだろうかともおもえる。


自分を映す。という鏡が、ご神体であるという発想も大変良いのではないだろうか。

「鏡で自分の今の姿を見てみなさい」という神のお告げなのである。


かがみみて わがみをみたれ 醜きは やだぁのかがみ
かがみみて わがみをみたれ 嬉しきは やったのかがみ。 

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ベンチのある風景。

2009-06-14 | つれづれの風景。

木漏れ日とベンチと木々の緑の按配と一陣の風も気持ちよかったので、そのベンチに座るのをためらった僕は、それを遠くから座って眺めることにした。

この風景に僕が割って入っては何故かいけないような気がしたからである。

結局、ベンチに座ることなく眺めるだけで一休みして立ち去ることにした。

奇妙でかすかな安心感が僕を一瞬捉えたのは、ベンチのせいだろうか木漏れ日のせいだろうか、それとも僕が歩き疲れていたせいだろうか。

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おたきさん。

2009-06-13 | つれづれの風景。

シーボルトさんは、日本原産のあじさいの学名にOTAKUSAとつけました。

そんな呼び名は当時の日本にはなかったようで、愛妾のお滝さんの名を忍ばせたのではないかと言われています。

持ち帰った植物に持ち帰れない名前をつけたわけでありますなぁ。

学問に私情を持ち込むのはけしからんという向きもあるようですが、そこはそれ、ロマンスの薫りゆかしき梅雨の花。

水辺に淡きやさしきあじさい笑う。

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おつ。

2009-06-10 | つれづれの風景。

竹を切って、一節のこし、酒を入れて、焚き火で焼く。
野にさがり、風に吹かれてやる一献のかっぽ酒は、おつなもの。

その昔の小料理屋の凝り性の主人(あるじ)なんかは、ありきたりの庭下駄では面白くないからと、竹を二つに割って、シュロの鼻緒をすげ、それではなれまで、お客を案内したりしたそうで。

おつだねぇ。

おつ。は「乙」と書いたり「異」でおつと読ませたりしたようですが、ちょいとひとひねりあるところがよろしいもんでございます。

野暮に落ちず、無粋にならずに、ひとひねりするのはなかなかむずかしいようで、ひとひねりが、ねじりすぎちゃあかえって醜くなってしまうもの。

衆参のあれや、「山といえば川」とはいかぬ総務と社長のねじれなんかも、どっちが「ゆうせい」かわかりゃしませんが、異すぎて、甲乙でいやぁ、丙の部類のねじりかただとおもうのですよ。あっしは。

ひとひねりのよさはどこへやら、もうねじきれてるかんじで。
ねじきれて、ひねくれてしまっっているようにも受け取れるのでございます。


この花のように、こううまいぐあいのひとひねりともなりゃ、それこそ、お。おつなもんじゃあねぇか。といっていられるんですがねぇ。

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間の効用。

2009-06-09 | つれづれの風景。

間というものは大事だ。

植林事業での間伐(かんばつ)は、人工林の安定と健康な生育には欠かせない、間を確保する作業である。

枝打ち間伐の作業を怠った植林は、栄養不足によるひ弱な木をつくりやがては土壌の崩壊を招くようになる。

不健全な密集から間引かれるものがなければ、健全な大木は産まれない。

都度都度に間引かれる間伐材は、植林山の輪廻を健全に全うさせる為、ロケットでいえば、段階的燃料ブースターの切り離し作業でもある。

間伐材利用の推奨が、エコ活動である由縁も、流通を促すことで、植林を手入れする原資を確保し、健全な森林による二酸化炭素の吸収量を増やすからであり、一石何丁にもなるサイクルを生むからである。

だからといってむやみに間伐してもいけない。それは、間違いという。
間引いてはいけないとこを間引いては、間抜けと呼ばれる。

効用を生むには上手な間のとりかたの習練も大事だろう。

きが利きすぎて間が抜ける。ということもある。


思考の間、話の間、行動の間、関係の間、時間の間。うまく間を作ることで健全性を取り戻した経験は誰にでもあるのではないだろうか。

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いなせ。

2009-06-06 | つれづれの風景。

ボラの背と書いて、鯔背(いなせ)という語源のようである。

幕末頃の文献の中には、「侠」と書いていなせと読ませているものもある。

なるほど漢字の受け取り方としては、後者の方に軍配を上げたい。

いきでいなせだねぇ。は粋(いき)で侠(いなせ)のほうがよろしい。
活きのボラの背だねぇ。ではなんや生臭い。

仁徳を尊び勇み肌も義侠心。粋でいなせに人生道中。と洒落込んでみたいものではある。

ボラの背だけではなく、それぞれの生き物の背中というものは、それぞれのいなせを表現するものかもしれない。

どちらにしても、その姿勢の問題といえようか。

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やりがい。

2009-06-05 | つれづれの風景。

利得や損失とは、希少な資源の有効活用の成否だろうとおもう。

経済社会では希少な資源を最大限活用しない企業のトップや決裁者には「損失」という結果での排除圧がかかる。

「利得」とは、希少な資源の有効活用に成功し、その資源にプレミアムがついた状態といえようか。

そういう意味でいえば、利得や損失といったものは、業務の「やりがい」というものにたいする理由の原因や根拠ではなく、妥当性の尺度ともいえる。


はっきりといっておこう。
目先の利害に執着もしくは無頓着なものにやりがいは生まれない。

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いきがい。

2009-06-04 | つれづれの風景。

日常業務の中で、夢を見たり、創造したり、探求したり、発見したり、想像したりする。


冷笑的になったり、自らを哀れんでみたりはもうよそう。
いつになったら、自分の周りのそのことに気づけるのだろう。
いつになったら、行動を起こせるのだろう。
いつになったら自分のアイディアを実行に移すのだろうか。


はっきりといっておこう。
気概がなければ何も変わりはしない。

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