喜びと悲しみは互いに連続している。双子のようなものだ。人間万事塞翁が馬、禍福はあざなえる縄のごとし、だから、深く人生を知るものは喜んでも、多く喜ばない。悲しんでも、多く悲しまない。
故事にある、その昔、唐に北叟(ほくそう)という老人がいた。君に仕えて名利を貪るような心もなければ、私利を営んで財宝を蓄える思いもない。ただ、都の北に庵を結んで身を宿し、麻の衣を着て寒さをしのぎ、草を摘み実を拾って日また日を送った。
喜ぶべきことを聞いても少しく笑う。憂うべきことを聞いても少しく笑う。畢竟、人間の事は喜びも憂いも、久しいものではない。是非、善悪、すべて夢になってゆくという、無常の理を知っていたからである。俗に、少しく笑うことを「ほくそ笑み」というのはここから出た言葉だという。
2004年の9月15日から始めたこのブログの最初が猫の「寅」であった。
過日、寅をゴミ捨て場から拾ってきた娘に娘が出来、婆さんがその世話のため暫く家を空ける日の前日、寅は17年の生涯を終えた。
孝行猫である。喜び悲しみもさることながら私は静かにほくそ笑んだ。
ほくそ笑む、と、ほくそ笑み、は違うものだということにわたしはうすうす気づきつつあるような気がする。