どんなことでもならべてみろ。百千あろうとも、どれもこれもゆきづまる。あれもこれもゆきづまる。どの方向へ向いて行ってもゆきづまるものばかり。そんなゆきづまるものはみんな捨てる。そして何も持っていない。そこが絶学無為の閑道人である。
とは興道禅師。
出づるとも入るとも月を思わねば心にかかる山の端もなし
とは無窓国師。
どんなことでもならべてみろ。百千あろうとも、どれもこれもゆきづまる。あれもこれもゆきづまる。どの方向へ向いて行ってもゆきづまるものばかり。そんなゆきづまるものはみんな捨てる。そして何も持っていない。そこが絶学無為の閑道人である。
とは興道禅師。
出づるとも入るとも月を思わねば心にかかる山の端もなし
とは無窓国師。
屁ひとつだって人に貸し借りできんやないか、人人はみんな「自己」を生きねばならない。
興道さんの語録には好きなのがたくさんあるが、そのうちでも私のお気に入りをもう二つ。
「われわれのたった今の生活態度がインチキならば、今まで飯を食べさせた人も、今まで教えてくれた人も、今までものをくれた人もみなインチキをさせるためにしてくれたことになる。もし今日の生活態度が立派ならば、その立派なことをさせるために私を産み、私を育て、私を教え、私にものをくれたことになる。このたった今の生活態度が全過去を生かしていくのじゃ」。
「自分はもう一生ものを欲しがらぬ。頭を下げて人にものをくれと言わぬ。あるいはまた人の欲しがるものを惜しがらぬ。食わしてくれれば食う、食わねば食わぬ。生きられるだけ生きる。死なんならんときは死ぬと心がハッキリ決まった。このとき広々とした天空を仰いだような何のひっかかりもない人生がそこに展開した。これほどの喜びはなかった」。
(picture/original unknown)
君の全生涯を心に思い浮かべて気持ちをかき乱すな。
どんな苦労が、どれほどの苦労が待っていることだろう、と心の中で推測するな。
それよりも一つ一つ現在起こってくる事柄に際して自己に問うてみよ。「このことのなにが耐え難く忍び難いのか」と。
まったくそれを告白するのを君は恥じるだろう。
つぎに思い起こすがよい。君の重荷となるのは未来でもなく、過去でもなく、つねに現在であることを。
しかしこれもそれだけ切り離して考えてみれば小さなことになってしまう。
またこれっぱかしのことに対抗することができないような場合には、自分の心を大いに責めてやれば結局なんでもないことになってしまうものである。
-マルクス・アウレーリウス「自省録」より
私の身の上に起こる数々の事柄は、そのすべては偶然も必然であるとともに、この私という存在にとってそれは最善なはずだ。
と観じればこそ私たちは、それに対してこれを嫌ったり拒んだり退けたりせず、素直に受け入れて、そこに隠されている神の意思を読み取らなければならない。
ここで謂う神とは、この大宇宙をその内容とするその根本的な統一の力のことであり、宇宙に内在している根本的な生命力のことを謂う。そしてそのような宇宙の根本的な統一力を、人格的に考えた時、これを神と呼ぶ。
したがってそれはまた、自分に与えられた全運命を感謝して受け取って、天を恨まず人を咎めず、否、恨んだり咎めないばかりか、楽天知命、すなわち天命を信ずるが故に、天命を楽しむという境涯を指す。 -参照/森信三「最善観」より
私は思う。善では足らない、最善とおぼしめよ。と。
今日1月11日はえべっさんの残り福である。
「商売繁盛笹もってこい」の音声に戎神社の境内は包まれる。
えべっさんは恵比寿神という海の神様である。明日の大漁に掛けて商売繁盛をお願いする神様でもある。そう、明日への。
明日といえば、西洋の神様の教え、マタイ福音書第6章34節にはこんな件がある。
「さすれば、明日のために思い煩うことなかれ、明日は明日自ら、己のために思い煩わん、その日はその日の労苦にて足れり」
つまり、明日のために心配するな。明日は、明日が自分で心配するであろう。1日の苦労は1日で足りる。
今の私にとってはこれぞ「福音」だ。
(画/月岡芳年)
語録の中では、
「我に七難八苦与えたまえ」
がつとに有名だが、
「憂きことのなほこの上に積れかし 限りある身の力試めさん」
泣きっ面に蜂、苦境重なりもがく、そんな時この言葉に、励まされる。
寒い暑い栄えたり枯れたり、これ天や地の呼吸のようなもの。
苦しい楽しい恵まれたり辱められたり、これ人の生の呼吸のようなもの。
と観じて、達者は、これらの感のどこに至ってもにわかに驚くことはないという。
(gif/original unknown)
心は火に似ています。
火はそれ自体では燃えませんし、これといった形もないものですが、火が付くというように、それが物に着いて初めてその体を成すようになります。
炭火があり、焚火があり、燈火などいろいろありますが、炭を取り去り、薪を取り去り、燈を取り去ってしまって、火というものを掴むことはできません。それぞれ、炭に着いて、薪に着いて、蝋燭に着いて、初めてその形を表すのです。
心もまた同じように、必ず何かに着いてその形を表すもので、単に心というものだけを掴むことはできないのです。
善いものに着けば善となりますが、不善に着けば不善となるのです。
心こそ心惑わす心なり、こころ、こころに、こころゆるすな。
行く末に 宿をそことも 定めねば 踏み迷うべき 道も無きかな
今日はあそこの宿まで行って泊まろう、と思って急いでいるといかんせん、途中で道に迷ってしまった。結局そこまで行けず、ああなんてこった。
しかし、既定、予定、思い入れ、などの定めをするから、迷い、焦りが生まれるのであって、それがなければ、そもそも「迷う」ということに意味はない。失敗と言うこともなければ、後悔と言うことも生まれない。
行く当てのない旅は楽しい、と昔誰かが言っていたが、先を急ぐと、粋な発見や綺麗な風景を見落としてしまう。
行く末は死ぬことにあっても、たぶんそう変わりはない。
腰かけて「みる」か。とは何事です。
腰かけてみるのも、腰かけるのも、結果においては同じじゃないか。
疑いながら試しに右へ曲がるのも、信じて断固として右へ曲がるのも、その運命は同じです。どっちにしたって引き返すことはできないんだ。
試みたとたんにあなたの運命がちゃんと決められてしまうのだ。人生には試みなんで存在しないんだ。やってみるのは、やったのと同じだ。
実にあなたたちは往生際が悪い。引き返すことが出来るものだと思っている。
-太宰治「御伽草子」より
将棋はとにかく愉快である。
盤面の上で、この人生とは違った別な生活と事業がやれるからである。
一手一手が新しい創造である。冒険をやってみようか、堅実にやってみようかと、いろいろ自分の思い通りやってみられる。
しかもその結果が直ちに盤面に現れる。そのうえ遊戯とは思われぬくらいムキになれる。将棋は面白い。
金のない人がその余生の道楽として、充分楽しめるほど面白いものだと思う。
将棋を指すときは、怒ってはならない、ひるんではいけない、あせってはいけない。
あんまり勝たんとしてはいけない。
自分の棋力だけのものは、必ず現すという覚悟で、悠々として盤面に向かうべきである。
そして、たとえ悪手があっても狼狽してはいけない。どんなに悪くてもなるべく、敵に手数をかけさすべく奮闘すべきである。
そのうちには、どんな敗局にも勝機がぼつぼつと動いて来ることがあるのである。
-談/菊池寛
宇宙(自然)のことをおもえば、そこには決して悪と言うものはないのです。ただ過ぎるとと及ばざるとがあるばかりです。この過ぎたるところ、及ばざるところが即ち悪と言う。
また同じように宇宙(自然)のことは、別に善と言うものがあるのではありません。ただ過ぎたると及ばざるとがないところが即ちこれが善であるというのです。
例えば、徳川家康が女中達に対し、世の中で一番うまいものは何かと問うた時、お梶の局が、「それは塩でございます」と答えましたので、「それでは一番まずいものは何か」と問うと、やはり「塩でございます」と答えたということです。
なるほど、塩は調味料でこれが過不足なければ美味、もし過不足あればこれほど不味いものはないのであります。
-出典不詳
水面に月が映っている、月影が水底に宿っている、いま月光は水中に広まっているが、月が隠れると、水そのものにはなにも残らず、月も光も痕跡を残すことも無い。
いささかも執着の跡がない、このような境地を求める、これを水月の道場と言うらしい。人間に心があり、眼、耳、鼻、舌、身、意、の欲がある以上、財宝も、名誉も、美人も、酒も、もとより心の水に映ってくる。
映るのは当然である。しかしながら、それが映ってきても、痕跡を残さないように、それが水と月との関係のようであったなら、そこに執着は微塵も起こらない。
空華は夢という意味で、人生のすべてを一切夢であるとみる、金も名誉も美人も地位も、ことごとくが夢であると観じたならば、それに執着することは野暮でしかない。
ということで、この句の意味は、「執着のないこの水月の関係のように、人生の一切をうたかたの夢とみてゆけ」ということのようだ。