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仁、情 に過ぎれば 弱くなる
義、律 に過ぎれば 固くなる
体、面 に過ぎれば 諂いとなる
智、略 に過ぎれば 虚となる
信、望 に過ぎれば 損となる
誰も観よ 満つればやがて欠く月の いざよいの空や 人の世の中
Nothing Else Matters (Metallica) : MOZART HEROES (Official Video)
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仁、情 に過ぎれば 弱くなる
義、律 に過ぎれば 固くなる
体、面 に過ぎれば 諂いとなる
智、略 に過ぎれば 虚となる
信、望 に過ぎれば 損となる
誰も観よ 満つればやがて欠く月の いざよいの空や 人の世の中
Nothing Else Matters (Metallica) : MOZART HEROES (Official Video)
(photo/original unknown)
若い頃のお顔より、今の顔の方が私は好きです。
嵐の通り過ぎたそのお顔の方が。
-マルグリット・デュラス,「ラマン」より
Nico - Chelsea girls (1967)
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酩酊正体離脱の折の調べは、仏性顕在である。
「泰然自若」はその実「茫然自失」なのである。
知らんけど。そう思っている。
Akira Ifukube: Kugo-Ka (1969)
(photo/JAPON ~ JAPONAIS / Charles-Henri Favrod & Yoichi Midorikawa)
『ある日、沢庵和尚は千代田城に赴いた折、名うての荒武者、伊達政宗に会った。
政宗が「雨の降る日は天気が悪うござるが、どうしたものでござるな」
沢庵和尚はジッと政宗をみた、政宗は瑞巌寺の和尚に参じて禅も出来た武士である。
「左様、雨の降る日は天気が悪うござるな」
と、同じようなことを沢庵も繰り返した」。
ある日鷹狩の帰りに一天俄かに掻き曇り、雨は篠を突くようにザアザア降ってきた。政宗も家来も濡れ鼠のように、眼もあてられない。すると今まで野良かせぎをしていたらしい百姓が、「雨の降る日にゃ天気が悪い・・・」と大声で唄って行った。
その時、政宗は百姓の声を聞いて「ははぁ、ここだな」と、初めて沢庵禅師の言葉の意味が分かった。その時の彼の心持は家来どもが雨に濡れて困っている様子を見て気の毒に思う憐みの情以外の何物でも無かった。
つまり我を捨てたのである。我を捨ててこそ会得が可能なのである。・・・』
ー引用/谷至道「禪の極致を洒脱に説いた澤庵和尚」より
分かり切っていることが並び立っているということは、分かり切っているというその己の心持に疑いを問うという禅味のことではあるまいか。
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3歩のところを5歩行くとどうなる? 当然行くことは出来ない、となる。
小学一年生に「3から5ひくといくつになる」と聞いてみると「ゼロになる」と答える。
が、中学生は代数という約束事を知っているのでー2と答える。
3歩しかないといえども5歩行ける、3個のリンゴをゼロになるまで5人で分ける、こういう人たちが約束事を超えた無碍な世界を生きていけるのだろうと思える。
*無碍:とどこおらせる障害がないこと。邪魔するもののないさま。
El alma de la belleza II. El arte de cerrar los ojos. José María Toro
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昔、京都に近い愛宕山に、黙想と読経に余念のない高僧があった。住んでいた小さい寺は、どの村からも遠く離れていた、そんな淋しい処では誰かの世話がなくては日常の生活にも不自由するばかりであったろうが、信心深い田舎の人々が代る代るきまって毎月米や野菜を持ってきて、この高僧の生活をささえてくれた。
この善男善女のうちに猟師が一人いた、この男はこの山へ獲物をあさりにも度々来た。ある日のこと、この猟師がお寺へ一袋の米を持って来た時、僧は云った。
『一つお前に話したい事がある。この前会ってから、ここで不思議な事がある。どうして愚僧のようなものの眼前に、こんな事が現れるのか分らない。しかし、お前の知っての通り、愚僧は年来毎日読経黙想をしているので、今度授かった事は、その行いの功徳かとも思われるが、それもたしかではない。しかし、たしかに毎晩、普賢菩薩が白象に乗ってこの寺へお見えになる。……今夜愚僧と一緒に、ここにいて御覧。その仏様を拝む事ができる』
『そんな尊い仏が拝めるとはどれほど有難いことか分りません。喜んで御一緒に拝みます』と猟師は答えた。
そこで猟師は寺にとどまった。しかし僧が勤行にいそしんでいる間に、猟師はこれから実現されようと云う奇蹟について考え出した。それからこんな事のあり得べきかどうかについて疑い出した。考えるにつれて疑は増すばかりであった。寺に小僧がいた、――そこで猟師は小僧に折を見て聞いた。
『聖人のお話では普賢菩薩は毎晩この寺へお見えになるそうだが、あなたも拝んだのですか』猟師は云った。
『はい、もう六度、私は恭しく普賢菩薩を拝みました』小僧は答えた。猟師は小僧の言を少しも疑わなかったが、この答によって疑は一層増すばかりであった。小僧は一体何を見たのであろうか、それも今に分るであろう、こう思い直して約束の出現の時を熱心に待っていた。
真夜中少し前に、僧は普賢菩薩の見えさせ給う用意の時なる事を知らせた。小さいお寺の戸はあけ放たれた。僧は顔を東の方に向けて入口に跪いた。小僧はその左に跪いた、猟師は恭しく僧のうしろに席を取った。
九月二十日の夜であった、――淋しい、暗い、それから風の烈しい夜であった、三人は長い間普賢菩薩の出現の時を待っていた。ようやくのことで東の方に、星のような一点の白い光が見えた、それからこの光は素早く近づいて来た――段々大きくなって来て、山の斜面を残らず照した。やがてその光はある姿――六本の牙のある雪白の象に乗った聖い菩薩の姿となった。そうして光り輝ける乗手をのせた象は直ぐお寺の前に着いた、月光の山のように、――不可思議にも、ものすごくも、――高く聳えてそこに立った。
その時僧と小僧は平伏して異常の熱心をもって普賢菩薩への読経を始めた。ところが不意に猟師は二人の背後に立ち上り、手に弓を取って満月の如く引きしぼり、光明の普賢菩薩に向って長い矢をひゅっと射た、すると矢は菩薩の胸に深く、羽根のところまでもつきささった。
突然、落雷のような音響とともに白い光は消えて、菩薩の姿も見えなくなった。お寺の前はただ暗い風があるだけであった。
『情けない男だ』僧は悔恨絶望の涙とともに叫んだ。『何と云うお前は極悪非道の人だ。お前は何をしたのだ、――何をしてくれたのだ』しかし猟師は僧の非難を聞いても何等後悔憤怒の色を表わさなかった。それから甚だ穏かに云った。――
『聖人様、どうか落ちついて、私の云う事を聞いて下さい。あなたは年来の修業と読経の功徳によって、普賢菩薩を拝む事ができるのだと御考えになりました。それなら仏様は私やこの小僧には見えず――聖人様にだけお見えになる筈だと考えます。私は無学な猟師で、私の職業は殺生です、――ものの生命を取る事は、仏様はお嫌いです。それでどうして普賢菩薩が拝めましょう。仏様は四方八方どこにでもおいでになる、ただ凡夫は愚痴蒙昧のために拝む事ができないと聞いております。聖人様は――浄い生活をしておられる高僧でいらせられるから――仏を拝めるようなさとりを開かれましょう、しかし生計のために生物を殺すようなものは、どうして仏様を拝む力など得られましょう。それに私もこの小僧も二人とも聖人様の御覧になったとおりのものを見ました。それで聖人様に申し上げますが、御覧になったものは普賢菩薩ではなくてあなたをだまして――事によれば、あなたを殺そうとする何か化物に相違ありません。どうか夜の明けるまで我慢して下さい。そうしたら私の云う事の間違でない証拠を御覧に入れましょう』
日出とともに猟師と僧は、その姿の立っていた処を調べて、うすい血の跡を発見した。それからその跡をたどって数百歩離れたうつろに着いた、そこで、猟師の矢に貫かれた大きな狸の死体を見た。
博学にして信心深い人であったが僧は狸に容易にだまされていた。しかし猟師は無学無信心ではあったが、強い常識を生れながらもっていた、この生れながらもっていた常識だけで直ちに危険な迷を看破し、かつそれを退治する事ができた。
ー切抜/小泉八雲「常識 COMMON SENSE」より
(picture/Lascaux painting)
「芸術はそれ自体、発展することはない。思想が変わり、それとともに表現形式が変わるだけである」
とは、パブロ・ピカソの言葉だそうだ。
変化はするが発展したわけではない。という知見、「生(き)」というものに対する含意は深い。
芸術家の芸術も酒飲みの呑み方も本人の中で完結する、多くとも一生80年やそこいらの個人のなかでは伝統ではなく自分のクリエイティビティだけが拠り所である。しかし、科学や技巧などと言うものは先人の上に塗り重ねて行けるから何万年もの時を経てそれなりの重層を為して「発展」している。
それでいえば、「酒飲み自体、発展することはない、酒が変わり、それと共に酔い方が変わるだけである」と言い換えても損酌とはおもわれない。
ラスコーの壁画を描いた人は2万年前ぐらい前の人と言われているが、その人と今の芸術家と、2万年前にもいたであろう酔っ払いと、今の酔っ払いと、
「それ自体、発展してはいない」ということでは共通しているのではなかろうか。
そう考えると、真似のないあくまでも「自分らしい」酔っぱらい方ができれば、それは「芸術的」なものと言っても差し支えないと私は酔夢するのである。
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井伏さんに「点滴」という文章がある。太宰治を追憶した文章である。それによると、太宰と井伏さんとは、水道栓から垂れる雫の割合のことで、無言の対立を意識していたようである。太宰は一分間に四十滴ぐらいの雫が垂れるのを理想としていたようで、そして井伏さんは一分間に十五滴ぐらい垂れるのを理想と見なし、いまでもそうだという。終戦前、二人が疎開していた甲府の宿屋の洗面所の水道栓から漏れる点滴の話である。
太宰は手洗いに立つたびに、その水道栓をいつも同じくらいの締めかたにして、自分の好みの割合で雫が垂れるようにし、しかも洗面器に一ぱい水をためておき、水音がよく聞かれるような仕掛けをして置く。それを井伏さんが手洗いに立って行って、自分の理想とするところのものに訂正して置く。それをまた太宰が手洗いに立ったときに改める。太宰の場合は、水道栓から漏れる雫は、「ちゃぼ、ちゃぼ、ちゃぼ……」というせわしない音を立て、井伏さんの場合は、「ちょっぽん、ちょっぽん、ちょっぽん……」というようなゆっくりした音を立てた。そして二人は互いに素知らぬ顔をしていたようである。「何という依怙地な男だろう」と井伏さんは太宰のことをいっている。この話はおもしろい。二人の生活の速度というようなものが、図らずも、この点滴の割合にあらわれているように思われる。井伏さんと太宰とでは、その理想とする点滴の緩急に、数にして二十五滴のひらきがある。そして二人は、それぞれの生活の速度の基本を、そんなところに置いていたようである。四十滴を理想としていた太宰は、井伏さんを置いてけぼりにして、駈け足でこの世からさよならしてしまった。無言の対立に、そんな仕方で結末をつけたというわけだろうか。この文章にあらわれている限りでは、井伏さんは単に二人の好みの水音のことを話しているだけで、思うに二人の生き方がこうであるなどとはいっていないのである。たとえ井伏さんがそれを意識しているとしても、それをあらわに語らないところに、井伏文学というものがあるのだろうから。この文章を読んで私がこんなことをいうのは、これは程度の低い批評家根性がさせるようなもので、こんなことを書くのは、くだらないのだ。まして私が二人の間にわり込んで、おれの生き方を水滴の数に換算すればこのぐらいだろうなどといったとしたら、なおなお下司なことになるだろう。
この文章を読む者は、友達の死後、またその宿屋へ出かけて行って、もう誰も消しに来る者のない水道栓から漏れる水音を聞きながら、依怙地な友達のことを、いや友達の依怙地さを追憶している井伏さんの心の温度を感じとればいいのだ。この文章には次のような数行もある。
或るとき私が『君は、独活が好きだろう。独活そのものには、格別の味はないが、主観で味をつけて食べるから』と云うと『さては日ごろから、僕のことをそう思ってたんだな』と彼は笑いにまぎらした。
ー切抜/小山清「井伏鱒二によせて」より
自然音 - 水琴窟の音 -(Short Ver.)
(photo/Bakumatsu taiyoden)
「まだ口をきくべき時でないのに口をきく、これは軽はずみというものだ。口をきくべき時に口をきかない、これは隠すというものだ。顔色を見、気持を察することなしに口をきく、これは向う見ずというものだ」
と、孔子さんは言ったらしい。
粋な口をきこうとするには、適時適切に適宜を図るには、未だ人生、短すぎるようだ。
Billie Holiday - Speak Low (1956) [Digitally Remastered]
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その昔、迷い込んできた羊を自分の羊と共に育てていた親父がいた。息子はそれを権力者に明かしたことで正直者として報奨を得たが、親父は罪に問われた。
そのことをどう思うかと問われた賢者はこういった。「子は親の、親は子の、不利になることは出来るだけ口を噤みたくなるのが、人の本当の処の正直というものではないかと思います」
大岡さんか板倉さんかの裁きにこんなのがあった。子どもの親を主張する母親がどっちも譲らないときに、そのおさなごの両腕を互いに引っ張らせた。勝った方が本当の親で負けた方は嘘をついたかどで厳罰に処すといって。そのうち痛がる子が泣き叫びはじめると片方が涙ながらにその手を放す。裁きはこうであった、「痛がる子に耐えきれず放したその方こそ本の親御であろう」と。
人を悲しませる本当もあれば、人を喜ばせる嘘もある。
正直と嘘と粋か野暮かの関係は深い。
武満徹 《微風》 / Toru Takemitsu 《Breeze》
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そう言えば、昔聞いたことを、今ふと思い出した。
人から聞いた話では――こんな数学があるんだそうだが、俺が中学で習った数学とはまるでちがう。なんでもこれは今ではちっとも珍しくない数学だそうだから、珍しそうに言ってはおかしいが、中学は出た俺だからその説明ぐらいは俺にだってできる。
たとえばここにABとA'B'の二つの直線がある。ABは短く、A'B'は長い。ABは小さく、A'B'は大きい。ABはA'B'の一部とも見られる。ABはA'B'の部分とも言える。だが、はたしてそのABはA'B'よりも小さいかということなのだ。見た眼には、たしかに小さいが。
AA'とBB'との交点をOとする。このOからOM'という直線をひくとABとはMでまじわる。ここでM'をもしA'B'上の左右に動かすと、かならずそれに対応してMも動く。M'がA'よりB'のほうへ動くと、Mも同様にAよりBへ動く。
AB上のすべての点とA'B'上のすべての点をここで考えてみる。A'B'のすべての点をOと結びつけると、かならずその点に対応する点がAB上にも存在する。そうなると、A'B'上の点と、AB上の点とは同等であり、ABとA'B'とは同等なのだ。ABはA'B'より小さいとは言えないのだ。
実はこれは無限という概念と結びついたもので、これでもって今まで漠然としていた無限という概念がはっきりしたと言う。
―切抜/高見順「いやな感じ」より
LEONARD COHEN - Waiting For The Miracle