南無煩悩大菩薩

今日是好日也

蓮池にて。

2012-09-29 | つれづれの風景。

ゆっくりとしかし確実に季節を終えた蓮の葉は自然に還元されていく。


ハスの葉は衰えたりといえども、朽ち沈むまでは通り雨の露をいまだ弾く力を残している。


これをハッスイ性というのだろう。
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その喜ぶ姿が見たかった。

2012-09-28 | 意匠芸術美術音楽
("New Shoes" by Gerald Waller)

赤十字社から贈られた真新しい靴を胸に抱き、最高に喜ぶ子供を見事に写し取っている。

靴が大好きにもかかわらず汚れ朽ち行く自分の靴をみてすごくすごく欲しかったんだろう。

これだけのグレードの喜びを手に入れたなら、もう一足欲しいとは絶対に言わないだろう。

きっと大事に大事に共に過ごすはずだ。

聞きもしないCDやなにかを、それも同じものを何十枚も買ったりする世相とは、対極にあるものである。
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自分に似た人を探して学ぶ。

2012-09-27 | 有屋無屋の遍路。

釈迦の弟子である羅漢(らかん)さんの中には、おつむの弱い愚鈍な人もいたという。

れれれのおじさんのモデルだと云う人もいるが、釈迦はその人に箒を与えひたすら掃除をさせることで悟りを開かせたようだ。

ゲーテは「すべての人間が自分の家の前を掃除すれば、世界全体が美しくなるだろう」と云ったというが、それぞれにはそれぞれの働きがあり自分の持ち分を自分なりに追求すれば自ずと道は開ける、羅漢さんたちの多様なパーソナリティにはそんなメーセージがある。

この頃は、羅漢は羅漢でも働かんという人が増えているそうでそれが気がかりだ。
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わるいけどよいもの。

2012-09-26 | 古今北東西南の切抜
(source)

ほんにあなたはこたつの柱 なくてならぬが あってじゃま

ほなこれでどないでっしゃろ。

・・

機能としてはちょいと劣るが、効果を優先して家具を選ぶのも悪くはないと思う。
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書所に道あり体もあり。

2012-09-25 | 意匠芸術美術音楽
(書/一休宗純)

諸悪莫作 衆善奉行 と書いてある。

専門的なことはわからないが、みすみす悪いことをしなはんなや、皆にとって善えことを優先しなはれ、というようなことに思える。

だれも悪いことはしたくないものだが、自分では本心から悪いとは思ってないため平気のへの字で悪さする。だから一筋縄ではいかない。

がしかし、悪さされたほうはもちろん腹が立つ。

・・ある修行僧が一休禅師のもとに参禅し、「悪い奴には腹が立ちませんか」と聞いたという。

禅師は、「悪い奴は蠅じゃ、蠅はうんこや死肉にも止まれば美しい娘にも飯にも止まる、蠅はもともと何彼となく止まるもので分別など持ち合わせてはおらん。そんなものに腹を立ててどうする」と応えた。

その僧はおもむろに立ちあがり一休の頭をゲンコツで思い切りひっぱたき、「これでも腹は立ちませんか」と聞いた。

「わしは石頭じゃよってに、おまえさんの手のほうがずっと痛いじゃろうなぁ」といって呵呵と笑ったという。
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本性を愛でる。

2012-09-24 | つれづれの風景。
彼岸花は彼岸に咲くからこそ美しさがある。

折々の花には、その折々であることが、自然の天性であり、その花の本性となっている。

花が花の本性を現した時が最も美しいように、人も人の本性を現した時がやはり美の頂点に達するのではないだろうか。

つまり、その行為が真にその人の天性より自然に出たふるまいであったとき、どんな人にでも一種の美感を抱くことがある。

天性として自然にあるものは必ずその本性を備えており、それが生においての多様な美感を産み出している。

私は造花は愛でない、なぜならそこには生々しい本性という絶対的な美を感じないからだ。
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用の用たるところ。

2012-09-21 | 意匠芸術美術音楽
(和気清麿奏神教図/佐久間文吾作)

「おそれながら申し上げたてまつります」

人物描写を通じて、言葉のみならず、状況の度合感、空気の緊緩の程度感までが伝わってくるようだ。

人のなり、ふり、いきづかい、から私たちは様々な情報を入手することはできる。

だが、その本質を捕まえかつ表現するには並大抵の洞察力では無理だ。

描ける。ということは、同時に見抜いている。ということであり、見抜く眼力なくして描き切れるものでもなかろう。

老子は、言者は知らず、知者は言わず。と云ったが、さながら芸術は知っていることをすべて言ってしまう仕掛けかも知れない。

芸術品のあれこれを見ることは、人間というものの多様性と潜在能力の深い淵の一端に触れることができる貴重な体験だと、つくづく思う。
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ダンサー

2012-09-20 | 世界の写窓から
(photo/Gypsy dancer 1956)

こんな話を聞いたことがある。

あるところに落ち着きのない少女がいた。何をさせても集中力がなくじっとしていることができず、学校でも同じで先生も手を焼く始末、心配した両親がいくつかの病院に連れて行くものの病気の所見はどこにもなかった。

あるとき新しい先生に巡り遇った。その先生は子供と両親の話を聞いた後、その子だけを残して部屋を出た。部屋にはラジオからの軽快なフラメンコのリズムが響いていた。


photo/source)

その子は、誰もいなくなると踊り始めた。目を見張るようなそのリズム感とステップを確かめると、その先生は両親にこう告げた。

「彼女は病気でもなんでもなく、生まれながらの ダンサー なのですよ。」

・・長じて人々の魂を揺さぶるような名ダンサーになったことは云うまでもない。
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降りることのできない関係。

2012-09-19 | 意匠芸術美術音楽
(source/Rodney Smith)

勝負事なら、片方が降りることで勝者と敗者になる。

しかし、どちらも勝つことはなく、降りれば共倒れ、止むに止まれない、降りるに降りられない、協力するしかないようなことがある。


(source/Gilbert Garcin)

この世界のいたるところに、こんなシュールな関係が潜んでいる。

しかし、私たちはそれに気付きにくく見過ごしやすく不感症的でさえある。
そして、自分から降りていながら、こんな風になったのは相手のせいだと憤慨していたりする。


のっぴきならないバランスの上であることを忘れ、共働歩み寄りが大事な時に、破壊行為にでるものは、人にしても国家にしても、まだまだ幼いといわざるを得ない。
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花に喜色有り。

2012-09-18 | 意匠芸術美術音楽
(和歌懐紙/花有喜色)

さくじつ、ひまにまかせてぱらぱらと本をめくっていて「花有喜色」に手が止まった。

ひとしきり、花の様子や色や種を想ったものの漠としていた。

字も判読できないため解説を紐解くと、

「なへて世の春にはあれと九重や花も千とせの色そひさしき」

とあった。

それでも漠とした感は抜けなかったが、最初の私が抱いた印象がそれにとって変わったような気もした。

つまり私は今の季節の花を想っていたようである。

そして大きな間違いに気づいた。

喜色を感じる花とはどのような「もの」であろう、と考える前に、花に喜色を感じるようになる「こと」が先決だと。
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彼岸のころ

2012-09-15 | つれづれの風景。

はや来週には彼岸の入りとなる。

古くからの伝によれば、
「従来惜貧なるも布施に変じ、毀禁持戒に変じ、羨怒忍辱に変じ、懈怠精進に変じ、動乱禅定に変じ、愚痴智慧に変ず。これを六波羅蜜と云いて菩薩の行を能持し、成就したる名なり。波羅蜜は梵語にて到彼岸と訳す。」のだという。

体調を崩しやすいのも季節の変わり目の温度変化にあるというが、彼岸の時候は、そういう意味でも変じることで、逝きやすい時でもある。

自戒、自重して、愚痴を智慧に変えてみたり、抱え込んだものを解放してみる良い機会だと思う。
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縄のはなし。

2012-09-14 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
(source)

道を歩いていると縄が落ちていました。

シッタルダ師は弟子たちにそれを拾ってまだ使えるか確認するように言いました。

「この縄は魚を縛っていたもので、とても臭くてとうてい使えません」と弟子は答えまた捨ててしまいました。

道を歩いていると今度は紙が落ちていました。

シッタルダ師は再度同じことを弟子に言いました。

「この紙はお香を包んでいたもので、とても高貴なよい香りがついています」とだいじに胸にしまいました。

シッタルダ師はその後、弟子たちにこう云いました。

「縄も紙もそれまでの交わりを残していたということです。ふたたび役に立つものになるか、使い道のないことになるかの二つに分かれたのです。人の交わりも同じで、まわりにいる人や付き合う人の影響は体にしみこんでしまいます。どんな人たちと交わっているのか、拾われてもまたすぐに捨てられてしまうことにならないよう、よくよく考えてみなければいけないことです」
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相手への気遣い。

2012-09-13 | 世界の写窓から
(source/L.A.TIMES)

どうせ気をつかうのならここまでやる。

四つ子君たち、初めての先生やクラスメートにわかりやすいようにとの親心からこうなった。

いじらしくも素直に受け入れているようだ。

かっての少子政策の中国で4人兄弟というのが珍しいせいかも知れないが、こういう環境の処にいじめは起きないようにもおもえる。

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八雲立つ

2012-09-12 | つれづれの風景。

八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を-古事記-



大空(たいくう)に観る 吉兆瑞兆の雲行末は 寿限無寿限無のおもむきあり

八雲立つ 元気の出る語感である。
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人は間違い、そして忘れる。

2012-09-11 | 世界の写窓から
source)

黒い白鳥(ブラックスワン)とは、まずありえない事象のことであり、次の三つの特徴を持つ。予測できないこと、非常に強い衝撃を与えること、そして、いったん起ってしまうと、いかにもそれらしい説明がでっちあげられ、実際よりも偶然には見えなくなったり、あらかじめわかっていたように思えたりすることだ。-ナシーム・ニコラス・タレブ「ブラック・スワン」-

先の大震災と放射能汚染のその後の消息も、その系統上で語れるかもしれない。

誰もが信じて疑わなかった白鳥は白いもの。それを覆す黒い白鳥はオーストラリアにいた。


またタレブ氏は著書のなかでこんなことも云っている、

「ものごとは、予測できる領域の外側で展開する。」

「大事に育てていかないといけない自分の財産は、心に深く根ざした自分の知性への不信感だと私は感じている。」

「運がいい愚か者は自分がそういうものであるとは少しも考えない。」

・・・・。

ちなみに、「黒い白鳥」は「黒鳥」と今では呼ばれているようで(そのまんまやないか)、そうなっては発見時のインパクトは伝わらず、それが当たり前の「ノリ」になってしまっている。

なるほど、「○○は忘れたころにやってくる」の本質はそこにあったのだ。
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