南無煩悩大菩薩

今日是好日也

感知の鈍敏について。

2011-03-31 | つれづれの風景。

「犬が吠えなかったことが奇妙なのだ。」

シャーロック・ホームズににそう言わせた、アーサー・コナン・ドイルは、推意の基本をこう語っている、

「変わっているところが決まって手がかりになる。」


推理、推測、予測の類において、その精度の高低は、変化を見逃さない着眼力・感知力の鈍敏に左右される。

事件事故においても、初動においてそれを見逃すと、取り返しの効かないような失態を演じる事になるようだ。

人生に起こる物事は、ほとんど常に「想定」の外側でおこる。それを理解せず前例や憶測に囚われてはなるまい。

頭が良く賢い人たちは、「どんなときにどうすればよいか」はとてもよく知っているだろうが、問題は「今がどんなときか」を感知する力にあるように思う。
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結ばれている。

2011-03-30 | つれづれの風景。

どのような結ばれ方をしていても、結べたものは解くことは可能です。

ひも解くとは、結ばれ方とそのいとを読み取る事です。

漢の高祖の時、ある賢人のいわく、政(まつりごと)において、理(ことわり)と人心を解するとは、縄の結ばれるを解くがごとし、急にすべからず、よくよく結び目を見てとくべし。と。

釣り糸でも、毛糸でも、電線でもなんでも、いわんや仕事でも人間関係でも、うまく解かなければ、絡まって使い物にならなくなることがあります。
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菜の花だけ。

2011-03-29 | つれづれの風景。

男と女の結婚生活は、幸福なものであるための条件が一つでも欠けてしまえば、その他の条件が全てそろっていたとしても、幸福なものにはならない。-アンナ・カレーニナの原則-


つまりは、分母を小さくする事がコツだということではなかろうか。

あれやこれやの欲しいものと、こうでああでのなければならないということが多ければ多いほど、欠ける条件の発生確率は高くなる。

男と女に限らずとも、そのように覚えるが、トルストイの着想はどうだったのだろうか。


あれもこれもないけれど、これだけであたしゃ幸せ。

年のせいか、そんなことをよく思わされることの多いこの頃です。
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共感するということ。

2011-03-28 | つれづれの風景。

「共感覚」は、自動的に生じる一種の感覚の連合である。
こうした感覚を持つ人は、2千人に少なくても一人の割合でいる。
共感覚を持つ人は、例えば「母音に色がついて」聞こえる。
1871年にランボーが書いた「母音」と言う詩は、「A(ア)は黒、E(ウ)は白、I(イ)は赤・・」で始まるが、彼らにこれがそのまま当てはまる。
この現象は、女性では男性の6倍の頻度で見られ、遺伝的に受け継がれ、その現れ方も様々である。
人によっては、文字や数字、あるいは単語によって色が喚起され、音楽によって色が喚起される場合もあれば、触覚や味覚によって色が呼び起こされる人もいる。
また、視覚や聴覚の刺激が触覚の感覚を引き起こす場合や、ニオイが身体の感覚運動を引き起こす場合もある。-ジャック・ニニオ-


江戸末期・明治以降の新興宗教の教祖や占い師等に女性が圧倒的に多いのはなぜかと思っていたのですが、何かから別の何かを感じたり見えたりするという、こういった人間性の原初的な共感覚、つまり2千人に一人の特異さと、それが男性の6倍の頻度で現れるという女性性からきているようにも思えます。

芸術家や宗教家のみならず、常人とは違う感性を持つ人たちは少なからずそういう人並みではない共感覚をもっていそうですが、
人と違うということは、勘違いせず上手く使わなければ違う意味で「えらいことになる」可能性も含んでいそうです。
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悟性について。

2011-03-26 | つれづれの風景。

大胆な考え方をするけれど、同時に自分自身の考えにも非常に批判的な人々がいる。
自分の考えが正しいことを示そうとするとき、彼らはまず、ひょっとして自分は間違っているのではないかと考えることから始める。
彼らは大胆な考えを持ち、その大胆な自分の考えを否定できないか真剣に考え始めるのである。-カール・ポパー-

自分を「否定」する事は、いやぁな逡巡をあえて自分に課すことになります。

しかし「真剣」に自分のあらを探すことほど、自らを慰撫し自らで成長の実感を得られる行為もありません。

ただ、その大前提としてもっとも大事なのは、私は悲観論者ではない、私には愛すべきものがあり愛を与えられている、そして私は不幸では決して無い、という基盤に立っていることだと思えます。
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声援する。

2011-03-25 | つれづれの風景。

事実実際に、自身で見聞き体感しないかぎり、

想像力にはどうしても限界があり、またいろいろ外野は勇み足もしやすいこともありますから安易な言動は慎むべきだということもわかります。

でも、とおもうこともあります。
なにもできないくせに思わずつい、立ち上がってしまうときもあります。


僕の友人に今、災害に心を砕きながら、自らは病魔と闘っている人がいます。
毎週休み無く投与を受けているそうです。
その友人は僕にこう語りかけてくれました。

「癌になると、病気になれません。元気に12週通わなきゃ。」


その友人は気丈で洒落っ気もありますから、こういわれるかもしれません。

せいえん より、せんえん がいい、と。
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遠慮する。

2011-03-24 | つれづれの風景。

夜話に云わく、今、世出世間(せしゅつせけん)の人、
多分は善事をなしてはかまえて人に知られんと思ひ、
悪事を作(な)しては人に知られじと思ふ。
依(よつ)て内外不相応のこと出来(いできた)る。
あいかまえて内外相応し、錯(あや)まりを悔ひ、
実徳をかくして外相(げそう)をかざらず、好事をば他人に譲り悪事をば己にむかふる志気(しいき)あるべきなり。
-(正法眼蔵随聞記より「道元語録」)-


とかく世に出てくる人というのは、
あれをしたこれをしたこうするああすると、よいことをならべてはいい気にナっておるが、わるいとおもうことをしたりするときには慎重に人にわからないよう気を配る。
だから心のもやもやが晴れないのさ。
気を配るなら配るで、配れないなら配れないで、どっちもわからんようにしたらどないや。
どっちかというと悪いのは自分で被り、良いとおもわれるものは他人に譲るほうがずっと、心穏やかに過ごせるのじゃないかい。
-(無山人勝手訳)-


遠慮(えんりょ)とは、遠くを慮(おもんぱか)ると書きます。
遠慮という志気(しいき)をなくさないよう努めたいものでございます。
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勧進、再び興る。

2011-03-23 | つれづれの風景。

その昔、庶民救済を結願に、荒廃した奈良の大仏の復興を目的に組織され、全国を行脚し様々な協力を求める「勧進(かんじん)」という行為に命を掛けた人々がいました。

すわっ一大事となれば、当時も今も変わることなく、時代時代の勧進があり、それに使命を持って命を掛ける人々がいます。

その昔は大仏の復興に、その今は核の慰撫に、庶民救済の為の勧進再び興るかのようです。


大過滅失、悪難退散、傷病治癒、護国芳情、天下安穏、再興勧進、心願成就。

勧進帳には祈りの数々。


命がけの人々とそれに応える人々と、あいまって再興された奈良の大仏は、天災や戦禍や飢饉に苦しんでいた当時の庶民にとっては、太いなる救済のメッセージであり、再興に向かう人々に人間の本当の強さを教えたのではないかと思うのです。




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春よ

2011-03-19 | つれづれの風景。

向春陽和らぎ、花街道の蕾が膨らんでいます。



花蜂も活動をはじめ、菜の花あいてに無心。



寒緋桜の桃色を飛び回る、ちょこちょこと鶯色のメジロが綺麗です。



沈丁花は開花を欲し,あたりにはそこはかとなくえもいわれなき薄層状の香気をたなびかせている。


天・地・人、
天は導く原理、地は従う原理、そして人は和の原理に添うと謂われることを、自問してみます。
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紡ぐ共同体。

2011-03-18 | つれづれの風景。

共同体とは、共にあることによって培われる。

摂取と排泄と我執という、剥き身の生存欲は一旦脇において、それらをスポイルして、共に生きるという意識に目覚めた成員としての成熟度が求められる。

獣と人間との違いは、この生殖的機能を果たす脳以外に「余分な」脳を持っている、つまり自分を見つめるもう一つの自分、「意識」と呼ばれる能力を持ち合わせているところにある。

しかしまたぞろ、剥き出しの自分を恥じない、意識の欠落したおつむの不完全な、火事場泥棒たちが出てきている。

ノータリンそれ自体の悪意識だけではない、無知の連鎖により、本来振り向けられるはずのエネルギーが、その消火に向かい、二重三重の損失と停滞を共同体に与えている。

祖先の世間では、十で禽獣、二十で発狂、三十で失敗、四十で山師、五十で罪人、といって人間の本性を見つめ、自らを戒めつつ自然に立ち向かい、共同体としての、再生と維持と相互恵沢に努めた。



わたしは、あなたがたと、共にある。

その事の意味が、問われている。
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花御供。

2011-03-16 | つれづれの風景。

春の東雲(しののめ)のふるえる薄明に、咲きつ散りつ花。

原始時代の人は、その恋人に初めて花を手折(たお)りささげると、それによって獣性を脱したといわれます。彼はこうして粗野な自然の必要を超越して人間らしくなった。

喜びにも悲しみにも、花はわれらの不断の友であります。
共に呑み、共に喰らい、花を持って祝い、花を持って送る。

「わがために花は手折らじされどただ三世の諸仏の前にささげん」-光明皇后御詠-



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挽歌。

2011-03-15 | つれづれの風景。

幡が動いている。

否。

風が動いている。

否。

幡も風も動かない、私がそれを認めないかぎり。

太陽が動いている。

否。

地球が動いている。

否。

太陽も地球も動かない、逝ってしまった人たちにとっては。


-無山人-
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転載。

2011-03-14 | つれづれの風景。

自然が強大な力で襲いかかる時、世界は連帯しなければなりません。
この度、破壊的な地震と津波に襲われた日本の政府と国民の皆様に、
深い同情と心よりの連帯の念を表します。

このような大きな悲劇を受け、思い出されることがあります。
それは、過去に世界各国で同様の惨事が起き、
日本がWFPと共に緊急対応をした際のことです。
緊急対応にかけつけた日本の支援隊の勇敢で献身的な姿勢、
そして人命を救い被害を食い止めるために日本政府がとった断固たる処置の数々に、
私たちWFPの職員すべてが感銘を受けました。

私たちは、日本から、困難に立ち向かう回復力というものを学び、
そのような精神を持つ日本に対し、敬服の念を覚えています。
日本は、世界で悲劇が起きWFPが出動した際、
最も多くの支援を差し伸べてきてくれた国の一つです。
そして今日、WFPは日本と共にあります。

WFPは、日本の役に立てることであれば、どのような支援でも
行う用意があります。

あらためて、今回の地震で被災された多くの日本の皆さまに、
心よりお見舞い申し上げます。

WFP事務局長 ジョゼット・シーラン

-ジョゼット・シーランWFP 国連世界食糧計画事務局長 声明文
[日本で発生した地震について] 2011年3月11日


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昨日の事。

2011-03-12 | つれづれの風景。

2011年3月11日は、永遠に記録される日となった。

凄まじい。

誰の身にも起こりうる悲運であります。

国連をはじめ、世界3十数カ国が間髪いれずに、如何なる要請にも応えると、全面的支援を表明してくれています。

マグニチュード8.8(*後日9.0に訂正)の震撼は、政党間、国家間、民族間、宗教間の垣根を越えて、人類というものの連帯と絆の彷徨を紡ぎ直す紐帯のようでもあります。

何故 のない、難を逃れる術は無きものに対し、彼処ではなく、たまたま此処であったというだけで、ただただ吾身の今日を迎えるを、あり難き事千万、以て瞑すべし。


昨日は夢想だにしなかった、昨日の事。
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今日のこと。

2011-03-11 | つれづれの風景。

今朝船場で
健康診断を受けた後、いい天気なので、「丼池ストリート」を歩いて帰ってきていたとき、

「 ドンブリばちゃ ういたういた ステテコ しゃんしゃん 」

急にあのフレーズとリズムが、体内を駆け巡ったのであります。

なんなのでしょう。

仕方ないので、ねぎまみれ丼を買って、今早弁を済ませたところです。

おわり。



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