(photo/Carter's Pulitzer Prize-winning photograph, March 1993)
ケビン・カーターが訪れた、食料配給所があるアヨドという村では、飢えや伝染病で1日に10人から15人の子供たちが死んでいた。
やりきれなさから、その村から離れようとして村を出たところで、ハゲワシがうずくまった少女を狙うという場面に遭遇したのである。
現場にいたカーターの友人でありフォトジャーナリストのジョアォン・シルバの証言などによると、写真の構図は母親が食糧を手に入れようと子どもを地面に置いた短い時間にできたものであったという。カーターは写真を撮った後、ハゲワシを追い払い、少女は立ち上がり、国連の食糧配給センタ-の方へよろよろと歩きだした。
それを見た後は、すさんだ気持ちになり、木陰まで行って泣き始め、タバコをふかし、しばらく泣き続けたと手記に記している。
ケビン・カーター(英語: Kevin Carter、1960年9月13日 - 1994年7月27日)は、南アフリカ共和国の報道写真家。ピューリッツァー賞受賞後に自殺した。
(出典)
彼は、死の数年前から衝撃的な写真を撮ることと、そうした写真ばかりが喜ばれることに疑問を抱いていたようです。
撮る方にしても喜ぶ方にしても、
一種の人格障害のようなものに誰でもすぐに罹患してしまう可能性はあるといえそうです。
ケビン・カーターが訪れた、食料配給所があるアヨドという村では、飢えや伝染病で1日に10人から15人の子供たちが死んでいた。
やりきれなさから、その村から離れようとして村を出たところで、ハゲワシがうずくまった少女を狙うという場面に遭遇したのである。
現場にいたカーターの友人でありフォトジャーナリストのジョアォン・シルバの証言などによると、写真の構図は母親が食糧を手に入れようと子どもを地面に置いた短い時間にできたものであったという。カーターは写真を撮った後、ハゲワシを追い払い、少女は立ち上がり、国連の食糧配給センタ-の方へよろよろと歩きだした。
それを見た後は、すさんだ気持ちになり、木陰まで行って泣き始め、タバコをふかし、しばらく泣き続けたと手記に記している。
ケビン・カーター(英語: Kevin Carter、1960年9月13日 - 1994年7月27日)は、南アフリカ共和国の報道写真家。ピューリッツァー賞受賞後に自殺した。
(出典)
彼は、死の数年前から衝撃的な写真を撮ることと、そうした写真ばかりが喜ばれることに疑問を抱いていたようです。
撮る方にしても喜ぶ方にしても、
一種の人格障害のようなものに誰でもすぐに罹患してしまう可能性はあるといえそうです。
Zbigniew Preisner - Conversation with Father
ふと、この場合親爺ならどう生きるのだろうか、生きたのでしょうか、と。
聞いてみたい気がするときがやはりあるものです。
ふと、この場合親爺ならどう生きるのだろうか、生きたのでしょうか、と。
聞いてみたい気がするときがやはりあるものです。
Eric Clapton - Wonderful Tonight (Official Live Video)
日付は任意だけれども、なにかが、産まれた日とか、始めた日とか、遂げられた日とかそういう類の日がたぶん個人の数だけあって、その日を想う良い夜も同じ数だけあるに違いない。
日付は任意だけれども、なにかが、産まれた日とか、始めた日とか、遂げられた日とかそういう類の日がたぶん個人の数だけあって、その日を想う良い夜も同じ数だけあるに違いない。
(photo/original unknown)
自分らしく居るというのは案外難しい。
言い換えれば自己に忠実にということでもあろうが、
その、自己に忠実にという自己は、どの自己に忠実になるのだろうか。
人生で演じる様々な役割に応じて多くの自己がある。
新しい役割で経験を積めば学習し、時には自己変革を遂げることすらある。
まだ不確実で形成されてもいない将来の自己というものもあるだろう。
どうすれば忠実になれるのだろうか。
自分の気持ちと言動を一致させる。といっても考えていることや感じていることを残らずさらけ出せば、場合によっては信頼や影響力を失う。
それはそれで悩ましいことである。
自分らしく居るというのは案外難しい。
言い換えれば自己に忠実にということでもあろうが、
その、自己に忠実にという自己は、どの自己に忠実になるのだろうか。
人生で演じる様々な役割に応じて多くの自己がある。
新しい役割で経験を積めば学習し、時には自己変革を遂げることすらある。
まだ不確実で形成されてもいない将来の自己というものもあるだろう。
どうすれば忠実になれるのだろうか。
自分の気持ちと言動を一致させる。といっても考えていることや感じていることを残らずさらけ出せば、場合によっては信頼や影響力を失う。
それはそれで悩ましいことである。
(photo/source)
・・自己を知る時、
知る自己が知られるのではなくて、知られるのは知られる自己だけである。
すなわち知られるものの中には知る自己は入らないのである。
従って、知られる自己は、自己の全体ではないわけである。
・・自己を知るとは、自己の非を知ることなのである。
自己の分限は、つねに自己否定の仕方において、私たちに示される。
すなわちわたしたちは、自分が何でないのかに気づくのである。
他人に自己反省を求める場合でも、わたしたちは彼が彼自身の信じているようなものではないことを教えようとする。
自己反省は多くの場合自己の非をさとることなのである。-田中美知太郎「自己を知る」より-
・・自己を知る時、
知る自己が知られるのではなくて、知られるのは知られる自己だけである。
すなわち知られるものの中には知る自己は入らないのである。
従って、知られる自己は、自己の全体ではないわけである。
・・自己を知るとは、自己の非を知ることなのである。
自己の分限は、つねに自己否定の仕方において、私たちに示される。
すなわちわたしたちは、自分が何でないのかに気づくのである。
他人に自己反省を求める場合でも、わたしたちは彼が彼自身の信じているようなものではないことを教えようとする。
自己反省は多くの場合自己の非をさとることなのである。-田中美知太郎「自己を知る」より-