がんじびぜしんに。
眼耳鼻舌身意。ろっこんしょうじょう。六根清浄。
我々の周りにはある世界が出来ている。
一人ひとりその住みなすところ、それぞれにユニバースが生じている。
どのような世界観を持って生活するのかは、この六根の、選択・認識・受容に基を為す。
受容れざるべきや。付合わざるべきや。容赦し得るべきや。頼まざるべきや。・・・べきや否や・・・。
その六根の受容体の完成度によって、世界観は変わる。
なるほど。面白い。とは、新たな光が差し込み、面(おもて)が白くなることに語源があるようだが、六根清浄により、新たな光明を感じ、世界観が変わり、鬱屈した精神が、ピチピチと生気を取り戻すことはよくあることだ。
要するに。どうも、それは「綺麗なのか汚いことなのか」ということであるようにもおもう。
許す許さない。従う反発する。好む好まない。受容れる排除する・・・。
悩みどころで、物事を決する時には誰でも悩む。
己の眼耳鼻舌身意の、赴くところにその世界観が成り立つ。
そうやって人は、個人的世界観による、ユニバースを形成している。
いやいやながらも仕方なく・・。うんぬんというのは、多分自分に対するいい訳だろう。
本質はもっといやなことがあるから、今を受容した世界を形作り住み為している。
それが世界観であり、個人の単一世界、ユニバースなのだ。
論語を読み、聖書に膝まづき、神仏に語りかけ、詩経に学ぶのは、宇宙の論理を知り、六根を清浄せしめる行為だといえる。
古人を尊び、君子に習い、聖人を慕う。
それは、他でもない。自分自身の世界観とそれに根ざした統御性を得たいが為である。
自らの命を過ごすにおいて、観えているのは自分自身の世界観だけなのだ。社会観、仕事観、人間観、生活観、死生観、と言い換えてもいい。
どのような世界観を持って命を燃やすのか。
六根清浄。六根清浄。六根清浄。
願わくば、面が白くなる如き、わが身でありますよう。
天地神明に誓わなくてもかまわない。己自身に誓おう。
オネスティー。
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