ゴットハンド。
見えざる神の手。と言う言葉が経済学にはたびたび登場する。
この地球上の全人口の内、最も豊かな5分の1が80%の資源を所有し、最も貧しい5分の1は、0.5%の資源しか所有できていない。らしい。
ブラジルにおいては、5%の人間が80%の資源を所有している。等とも言われる。
果たして「神の手」なるものは、いかがなるものか。
市場経済と銘打つのであれば、そこにある大事なものとは、均等に機会が与えられているかどうかが重要だろう。
日本国内の動向においても、所得格差云々は、笛吹けど踊りもせぬプリマドンナがぎょうさんたむろしているような状況にも思える。
誤解を恐れずに言えば、
そこには、果たして統計上の数字が、均等な機会の結果であるのか、むしろ与える者&施される者と言う構図の欺瞞ではないのか。という単純な疑問が払拭されていないからだといえまいか。
発展途上の国々や一部の過大格差社会に見られる、充分学習はおろか、絶対的学習レベルにおいてさえも、貧困のスパイラルに落ち込み抜け出せない多数の人間のいる国々と、動機・意欲の云々は別にしても、識字率、就学率、進学率、求人率、どれをとっても世界の最高水準にあるわが国の事情とは決定的に違う。
「健康で文化的な最低限の生活を有する為」の教育と援助は間違いなく受け取る権利があるが、それ以外は、市場経済をもし標榜するのであれば、「神の手」を無為にいじくりまわしてはなるまい。
もし、努力によって手に入れられた資源を、自分や自分の類系、意図する目的に使うことに制約が課せられたならば、何の為の努力だと言うのだろう。
統制経済は「人間を平等に貧乏にした」自由経済は「人間を不平等に金持ちにした」とはよく言われることである。
我々は、みえざる「神の手」である、ある種類の「分配の法則」下で生きている。
つまり、その法則を見破ったものが、「資源を得る」という一種の配分を手にする。そして新たでより整合性のあるルールを導き出すだろう。
そのために、努力をしている。
遊びでもゲームでもそうだが、約束された「均等なる分配」であれば面白くもなんともない。誰が努力をするのだ。そんなもん。
「均等なる機会」があり、「厳正なるルール」が会って初めて、すこぶる面白いゲームが出来る。
見合わないゲームに気付けば、自分に合った違うゲームをきっと選びだし取り組むだろう。
それこそが、適時適切、融通無碍、人材の多様化と、人生の納得を得るための、努力機会の発見だ。
先般、ノーベル平和賞を受賞された、バングラデシュはグラミン銀行の創設者、ムハマド・ユヌス氏。
私は、真の経済人を見たような気がした。
かの国の、分配の法則に、痛烈な一撃を与えた。快挙だと思う由縁であります。
経済人の枠さえも超越していると思う。
負のスパイラルに、差し伸べられた、神の手である。
私は思う。
機会の均等を一度経験したものは、分配を均等化しよとする権力との優秀なソルジャーになり得る。
何もしないで食おうとする人間を衰退させ、努力し前向きに生きながらも、機会に恵まれない人間を引き上げる。
分配の法則も世につれ人につれ。
もしかしたらドラッカーさんが予見した、NPO型自由社会の到来はすでに始っているのかもしれまへん。
嗚呼、なんと無邪気であどけない童子等よ!
蓮の葉の下で、花の下で、大人社会のことは
何も考えず、思い切り興ずるが良い!
苦悩を感じるときは、もう目の前だから。