富豪。井原西鶴さんは確かこういった。
「商いで大事なんは、算用、才覚、始末でんなぁ」
もちろん。富と福とは似て非なるものではあるけれども、商売を志すものにとって、富を伴う成功とは、一つの到達点であることに違いは無いだろう。
又、出所は失念してしまったが、こうもあった。
「富を得るかどうかの分岐点には3段階ありまっせ。まず、第一に言われた事しかしないお方は、まずお給金は望んだらあきまへんなぁ。言われたことに創意・工夫を施す人は、そこそこ貰えますわなぁ。ほんまもんの富を手に入れるお方はな、自分の頭で目利きし、手腕を発揮して、望まれる以上のええもんを産み出せるお方です。」
・・・。
利子。という言葉がある。
要するに、お金が子供を生むという考え方。
借りたり、調達したりしたお金を、自分の才覚・算用・始末において子供を産ませる事が、商売の基本。
お金に子供を産ませ、親と子を返して尚残る部分が、自分の取り分。
自分の才覚・算用・始末で産み出した富となる。
この子供を生ませることが出来なければ、商売人としては恥ずかしい。
人間の世界とちがって、子供が出来ないような交尾は、現金、あ。いや、厳禁なのである。
気持ちよくもなんともなく、自慰よりもまだ始末が悪い。
人も同じ。利の子を産ませる商いには、人の子、つまり、お給金や組織の向上を産み落とさなければいけない。
お金も人も借りているのである。
利の子に多産を求められる事に手を出すなら、それなりの己でなければなるまい。
自分の算用・才覚・始末で、何も産まなくなれば、食用か肥料にでもなるしか無いだろうなぁ。
小生は用務員であるから、心に刻まぬわけにはいかない。
・・・。
福福しい人がたまにいらっしゃる。
富の価値を知っているお方。
騙すでもなく、卑屈でもなく、過剰でもなく、自分の才覚・算用・始末の価値を理解していらっしゃる方達のように受け取れる。
小生はこういう方達と接するたびに、福を得る。
富の大小ではない福の得方を、指南されているような気分になる。
・・・。
雨が降ったら傘さしまっしゃろ。
当たり前のことを当たり前にしとるだけですわ。
晴れた日に貸して、雨の日に取り上げるようなことしたらあきまへんでぇ。
・・・。
これが、なかなかもって。難しい。
富と福との関係。違いがとてもよく判りました。
有難うございました。
子供が幼くわたくしも若くありましたころ、富と
福はとても近いもので、ほとんど一体だとさえ
思い、物欲にばかり精出しておりました。
以来、気がついてみましたら富は勿論のこと
今まで手中にあったと信じておりましたものは
跡形もなく、消えておりました。
失うものは何もなくなりました。
自分の健康さえも。
かろうじて、福を感じます感性だけは持ち続け
たいと、日々努力しておりますが・・。
・・福も何だかよその道を通り過ぎていく気が
します。
不幸な卑屈女の戯言です
色覚を突然失った画家の話を読みました。
苦悩の末、色を追い求めるのをやめ、グレーの世界で秀作を生み出して行きます。その境遇故に、人には真似のできない極みへと到達する話です。
人の可能性の無限の話でございます。