〈神妙〉というアクセントに確かめる「院長」先生の今日の在否を
(とど)
2010年3月8日 作歌、2020年7月15日 改作。
(とど)
2010年3月8日 作歌、2020年7月15日 改作。
①はまだ良い。
これ↓は、作業所の友人に「意味不明」と思いっきり斬られてしまった。(T_T)
薄紅を 悟られまいと ギアチェンジ
(とど)
ちょっとCMっぽくない~?(ないかぁ…)
これ↓は、作業所の友人に「意味不明」と思いっきり斬られてしまった。(T_T)
薄紅を 悟られまいと ギアチェンジ
(とど)
ちょっとCMっぽくない~?(ないかぁ…)
【のんびりのほほん・年賀状メッセージコンテスト】なる公募があって、自分の賀状ネタ考えついでに、折句の川柳を考えていました。
(※「折句」とは…、五・七・五の頭の一字を、例えば「う・さ・ぎ」の音で整える。)
でも、あんまりいいのが浮かばないよー(T_T)
応募できないようなシロモノなので、ここで出してしまいます。
後ろ手に さり気なく置く ギフトかな
(とど)
うーん、お中元・お歳暮向きですね…(汗)
(※「折句」とは…、五・七・五の頭の一字を、例えば「う・さ・ぎ」の音で整える。)
でも、あんまりいいのが浮かばないよー(T_T)
応募できないようなシロモノなので、ここで出してしまいます。
後ろ手に さり気なく置く ギフトかな
(とど)
うーん、お中元・お歳暮向きですね…(汗)
利休梅 はち切れそうに 芽吹けるに
雨に打たれて つやつや光る
(とど)
(2009年2月24日下書き投稿)
雨に打たれて つやつや光る
(とど)
(2009年2月24日下書き投稿)
居間に掛けてある、イエローハットで貰ったカレンダーの4月のページです。
「親は無くても子は育つ」とも言うし、
「育ったように子は育つ」の方が言い得ているんじゃないかなぁ…。
(もう中年のとど)
*参照…「各人の責任」のエントリー
「親は無くても子は育つ」とも言うし、
「育ったように子は育つ」の方が言い得ているんじゃないかなぁ…。
(もう中年のとど)
*参照…「各人の責任」のエントリー
Dedicated to “F”さん、ないしは“K”さん、
来年の勅題は「火」だ。さしあたって色々考えていたが、思いのほか早く公表してしまうことになった。
「幼日の火花散らした筆勢はそがれて隅の親石になる」
(とど)*2015年8月15日 改訂
当然、もう使いまわしはできない。
これで、以前から考えてあった短歌もどきは、もうブログ上に発表しきってしまった。
ただし、わたしの以前のあだ名は「たぬき」だから、信用しない方がいいかもしれないし、そうじゃないかもしれないし…(以下省略)。
来年の勅題は「火」だ。さしあたって色々考えていたが、思いのほか早く公表してしまうことになった。
「幼日の火花散らした筆勢はそがれて隅の親石になる」
(とど)*2015年8月15日 改訂
当然、もう使いまわしはできない。
これで、以前から考えてあった短歌もどきは、もうブログ上に発表しきってしまった。
ただし、わたしの以前のあだ名は「たぬき」だから、信用しない方がいいかもしれないし、そうじゃないかもしれないし…(以下省略)。
元旦から鴨下信一の『忘れられた名文たち』を読んでいる。
画家や俳人らの文章、食に関する文章、レコード評・映画評など、種々の雑文が紹介されていて、なかなか面白い。
中でも舌を巻いたのは、「悪態文」の項に登場する、阿部筲人の『俳句 ― 四合目からの出発』からの引用だ。
素人がオノマトペを俳句に詠み込むと得てして紋切型に陥りやすい。その迫力なく間延びした様を、「馬面俳句」と一刀両断。その小気味好さに思わずニヤリとさせられるのだが、俳句初心者の私としてはどこか身に覚えもあるので、慌てて口元を押えた。
さて、昨日宮中で催された歌会始の今年の御題は「月」だった。簡単そうで難しい御題で、試みに一つ作ってはみたものの、凡庸どころか陳腐極まりない代物しかできなかった。
下の句の七七が付くと、私が俳句でよくやる「言い逃げ」が利かない。仕方無く今年も、入選された方々の上級短歌を眺めてお正月の余韻を惜しみつつ、せめて今後の肥やしにさせていただこう。
今回の詠進歌で一番目を引かれたのは次の一首。
弓張の月のかたぶくころほひに携帯メールはひそやかに来ぬ
下弦の月が傾いていき白々と明け始める頃、うっすらした意識の中で気付く着信音…。衣擦れのようにゆるりと歩調を合わせる速度感が絶妙な歌。
一晩中あなたを想っていたよ…と、頃合いでさり気なく伝えている相手の気持ちも憎い。
こんな光景のバックには、カサンドラ・ウィルソンの『New Moon Daughter』がしっくり来そうだ。深夜に収まりの良いジャズは数あれど、明け方に耳に優しい向きはほんの一握り。このアルバムはそんな中の一つだ。
“New Moon”は要するに新月だから、意味合い的には上の歌から少々外れる。でも、これから満ちてくる(はずの)私の詠歌・詠句生活を後押しするBGMだし…とうそぶくのだから、我ながら始末に終えない。
来年の勅題は「火」だそうだ。今から考えなきゃ。
画家や俳人らの文章、食に関する文章、レコード評・映画評など、種々の雑文が紹介されていて、なかなか面白い。
中でも舌を巻いたのは、「悪態文」の項に登場する、阿部筲人の『俳句 ― 四合目からの出発』からの引用だ。
素人がオノマトペを俳句に詠み込むと得てして紋切型に陥りやすい。その迫力なく間延びした様を、「馬面俳句」と一刀両断。その小気味好さに思わずニヤリとさせられるのだが、俳句初心者の私としてはどこか身に覚えもあるので、慌てて口元を押えた。
さて、昨日宮中で催された歌会始の今年の御題は「月」だった。簡単そうで難しい御題で、試みに一つ作ってはみたものの、凡庸どころか陳腐極まりない代物しかできなかった。
下の句の七七が付くと、私が俳句でよくやる「言い逃げ」が利かない。仕方無く今年も、入選された方々の上級短歌を眺めてお正月の余韻を惜しみつつ、せめて今後の肥やしにさせていただこう。
今回の詠進歌で一番目を引かれたのは次の一首。
弓張の月のかたぶくころほひに携帯メールはひそやかに来ぬ
下弦の月が傾いていき白々と明け始める頃、うっすらした意識の中で気付く着信音…。衣擦れのようにゆるりと歩調を合わせる速度感が絶妙な歌。
一晩中あなたを想っていたよ…と、頃合いでさり気なく伝えている相手の気持ちも憎い。
こんな光景のバックには、カサンドラ・ウィルソンの『New Moon Daughter』がしっくり来そうだ。深夜に収まりの良いジャズは数あれど、明け方に耳に優しい向きはほんの一握り。このアルバムはそんな中の一つだ。
“New Moon”は要するに新月だから、意味合い的には上の歌から少々外れる。でも、これから満ちてくる(はずの)私の詠歌・詠句生活を後押しするBGMだし…とうそぶくのだから、我ながら始末に終えない。
来年の勅題は「火」だそうだ。今から考えなきゃ。
私は今、古書&中古CDの某ショップに勤めている。この職に就いてからは毎年元日早々仕事で、今年もご多分に漏れなかった。今年は三が日続けて出勤なので、お正月気分を味わえるのは少し先になる。
私は持病の薬をもらうために月に一度のペースで通院しているが、その病院の外来待合に昨年の春先、本棚が据えられた。診察を待つ患者さんに少しでも快適に過ごしてもらおうという計らいだ。本棚の設置に当たって、気さくな女性のドクターは私に意見を求めてくれた。
病気の方でもあまり重く感じないような、パラパラとめくって拾い読みもできるような気軽な本がいいのではないか、と私は答えた。先生は「雑誌なんかもあるといいかもしれないわね」と言い、私にも「何か寄付してもいいような本があったら持ってきてね」とおっしゃった。
一ヵ月後私は、私物だった『私もサラリーマンだった!』(峯岸桂子)と、改めて勤め先で安く買った高木ブーの『第5の男』を携えて、病院へ向かった。先生はページをめくると、「面白そう。読みやすいわね」と喜んでくださった。
それから私は、病院に寄付する本を選ぶのを密かに楽しみにするようになった。買取をしていると、面白そうだなと食指が動く本にめぐり会う。自分では時間と興味の兼ね合いで結局は読まずじまいになりそうな本でも、購買意欲をそそられるものも少なくない。今までは、財布の紐を堅く締めて我慢するか、買って部屋の片隅に積んだままになるのがオチだったが、新たに第三の選択肢ができたわけである。
3ヶ月に二回程度の割り合いで本を買い、病院に持参した。『神様におねがい』(大橋歩)、『ドリームズ~夢への道のり』(J-WAVE・編)、『おいしい人間』(高峰秀子)、『生活はアート』(パトリス・ジュリアン)、『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』(村上春樹)、……棚が少しずつ充実していくのを見て、独りほくそ笑んだ。
初めの3ヶ月ほどは、寄付した際に置かれた位置から本が動いた形跡さえ見られなかったが、その後借り出されて返ってきた本、いまだ持ち出しのままになっている本など、反応が目に見える形で現れてきているのが嬉しい。
今では他の患者さんの気持ちを考えて本を選ぶまでに回復した私も、5年前の今はこの病院に再入院を余儀なくされていた。建物こそ建て替えをする前の古ぼけた病棟ではあったが、振り返ってみると、レクリエーション等なかなかに工夫が凝らされていた。俳句を詠んだり、元旦にはお茶を点てて頂いたりといった活動は、奇しくも今の私につながっているようである。
入院中、一度 書道の先生をお迎えして習字の時間もあった。先生が一人一人の顔を見て、それぞれ別々のお手本を選んでくださり、各自そのお題目を見よう見まねで書く。先生は鼻唄を歌いながら一人一人にお手本を配られていた。
私に渡されたお手本は「仕事始め」。ひと月前、やっとの思いで復帰した職場を一週間で退去せざるをえなくなっていた私としては、いささか決まりが悪いお題ではあったが、無心になって筆を運んだ。
入院はちょうど一ヶ月間だった。退院後病院に診察に行くと、私の習字が銀賞を受賞していたとかで、駄菓子の大きな詰め合わせの袋を賞品としていただいた。
約一年の自宅療養、コンビニ勤めを経て、現在の仕事に就いたのは退院から2年9ヶ月の後。長い道のりだったようだが、今日の私に向かって一歩一歩前進してきていたのだということが今にして分かる。病院で「仕事始め」のテーマをもらい、今 無償とはいえ病院に仕事絡みのことで多少なりとも寄与していることは、何か不思議な因縁のようなものを感じなくもない。
私のブログをご贔屓にされていて、うすうす感じ取っている方もいらっしゃるだろうが、私が通っている病院とは『カッコーの巣の上で』に出てくる種類の病院である。この映画を観た時、端役の患者達の挙動のリアルさには驚いたものだ。
今回は、ベラ・フレック&ザ・フレックトーンズの『Three Flew over the Cuckoo's Nest』をご紹介しておく。アルバム・タイトルはほぼ間違い無くくだんの映画からの引用であろうが、技巧的で軽妙なバンジョーには一瞬「なぜ、『カッコーの巣の上で』??」と考えてしまったが、無軌道な主人公マクマーフィが病院の閉塞感に風穴を開けていく様にハタと思い当たった。このCDも腕白なすがすがしさに満ち満ちていて、魅力的である。
私は持病の薬をもらうために月に一度のペースで通院しているが、その病院の外来待合に昨年の春先、本棚が据えられた。診察を待つ患者さんに少しでも快適に過ごしてもらおうという計らいだ。本棚の設置に当たって、気さくな女性のドクターは私に意見を求めてくれた。
病気の方でもあまり重く感じないような、パラパラとめくって拾い読みもできるような気軽な本がいいのではないか、と私は答えた。先生は「雑誌なんかもあるといいかもしれないわね」と言い、私にも「何か寄付してもいいような本があったら持ってきてね」とおっしゃった。
一ヵ月後私は、私物だった『私もサラリーマンだった!』(峯岸桂子)と、改めて勤め先で安く買った高木ブーの『第5の男』を携えて、病院へ向かった。先生はページをめくると、「面白そう。読みやすいわね」と喜んでくださった。
それから私は、病院に寄付する本を選ぶのを密かに楽しみにするようになった。買取をしていると、面白そうだなと食指が動く本にめぐり会う。自分では時間と興味の兼ね合いで結局は読まずじまいになりそうな本でも、購買意欲をそそられるものも少なくない。今までは、財布の紐を堅く締めて我慢するか、買って部屋の片隅に積んだままになるのがオチだったが、新たに第三の選択肢ができたわけである。
3ヶ月に二回程度の割り合いで本を買い、病院に持参した。『神様におねがい』(大橋歩)、『ドリームズ~夢への道のり』(J-WAVE・編)、『おいしい人間』(高峰秀子)、『生活はアート』(パトリス・ジュリアン)、『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』(村上春樹)、……棚が少しずつ充実していくのを見て、独りほくそ笑んだ。
初めの3ヶ月ほどは、寄付した際に置かれた位置から本が動いた形跡さえ見られなかったが、その後借り出されて返ってきた本、いまだ持ち出しのままになっている本など、反応が目に見える形で現れてきているのが嬉しい。
今では他の患者さんの気持ちを考えて本を選ぶまでに回復した私も、5年前の今はこの病院に再入院を余儀なくされていた。建物こそ建て替えをする前の古ぼけた病棟ではあったが、振り返ってみると、レクリエーション等なかなかに工夫が凝らされていた。俳句を詠んだり、元旦にはお茶を点てて頂いたりといった活動は、奇しくも今の私につながっているようである。
入院中、一度 書道の先生をお迎えして習字の時間もあった。先生が一人一人の顔を見て、それぞれ別々のお手本を選んでくださり、各自そのお題目を見よう見まねで書く。先生は鼻唄を歌いながら一人一人にお手本を配られていた。
私に渡されたお手本は「仕事始め」。ひと月前、やっとの思いで復帰した職場を一週間で退去せざるをえなくなっていた私としては、いささか決まりが悪いお題ではあったが、無心になって筆を運んだ。
入院はちょうど一ヶ月間だった。退院後病院に診察に行くと、私の習字が銀賞を受賞していたとかで、駄菓子の大きな詰め合わせの袋を賞品としていただいた。
約一年の自宅療養、コンビニ勤めを経て、現在の仕事に就いたのは退院から2年9ヶ月の後。長い道のりだったようだが、今日の私に向かって一歩一歩前進してきていたのだということが今にして分かる。病院で「仕事始め」のテーマをもらい、今 無償とはいえ病院に仕事絡みのことで多少なりとも寄与していることは、何か不思議な因縁のようなものを感じなくもない。
私のブログをご贔屓にされていて、うすうす感じ取っている方もいらっしゃるだろうが、私が通っている病院とは『カッコーの巣の上で』に出てくる種類の病院である。この映画を観た時、端役の患者達の挙動のリアルさには驚いたものだ。
今回は、ベラ・フレック&ザ・フレックトーンズの『Three Flew over the Cuckoo's Nest』をご紹介しておく。アルバム・タイトルはほぼ間違い無くくだんの映画からの引用であろうが、技巧的で軽妙なバンジョーには一瞬「なぜ、『カッコーの巣の上で』??」と考えてしまったが、無軌道な主人公マクマーフィが病院の閉塞感に風穴を開けていく様にハタと思い当たった。このCDも腕白なすがすがしさに満ち満ちていて、魅力的である。
今年の十五夜は10月6日だということで、その晩、お茶の先生のお宅でお月見の茶会が開かれる。夜咄のお茶事は初体験なので、今から期待に胸膨らませている。
「月の雫」は、山梨ではよく知られた銘菓で、甲州ぶどう丸々一粒を白い砂糖蜜の衣で包んだものである。ほんのりとした酸味が上品な一品だが、私には少々苦い思い出がある。
お茶を習い始めて一年ほどが経ったあるお稽古の日、私は出来心で水屋にあった「月の雫」を失敬した。一粒ぐらい分かるまい…そう思ったのだが、先生にはお見通しだったようだ。次のお稽古に行くと、先生は私達には別のお菓子を用意されていたが、お茶席でご自分だけ「月の雫」を召し上がった。心なしか、硬く渋い面持ちに見えた。私は心が騒いだが、うわべは平静を装い、その日はそのまま退散した。
次のお稽古までの間に、私は持病を再燃した。急遽かかりつけの病院に行き、薬を増やしてもらった。同行した母が医師に、お茶のお稽古に行かせて良いものか尋ねた。こんな状態ではお稽古どころではない、と母は案じたのだが、私はどうしても行きたかった。この前のお稽古の時に素知らぬ顔で帰ってきてしまったことで、心が咎めていた。何としても今度こそきちんと謝罪したい、そう切に思っていたのだ。
医師は、「抹茶はカフェインが多いから不眠を助長する恐れもありますけれども」と前置きした上で、本人が行きたがっているなら行かせた方がいいでしょう、と了承してくれた。
次回お稽古に伺うと、先生は幾分穏やかな表情をされていた。私は水屋で準備を終えると、先生に声をかけた。「今日は謝りたいことがあって来たんです」。気持ちを伝えると、思わず涙が頬をつたった。
先生は「気がつかなかったわ。気にしないでいいのよ」とおっしゃった。
その後お点前のためにお茶席に入ったが、胸のつかえが取れた私は、心に柔らかな明るい陽射しが立ち込めているのを感じた。私はすっきりとした気持ちで、お点前に専念した。
それから、病状の悪化のため半年ほどお稽古はお休みした。私としては、ブランクがあったことをさほど気には留めていなかった。だが、三ヶ月前のあるお稽古の日、先生がふと「こんなに長続きするとは思わなかったわ」と漏らされたことで、あのようなことがあってすぐお稽古に来られなくなった私を、先生がかなり心配されていたのだと今更ながらに気付いた。
そう考えると今年の十五夜は、私には一つの節目になるかもしれない。明々とした月の光に照らされて、是非ゆったりとお点前を楽しんできたい。心にかかった雲を掃き清めた、あの時の澄み渡った気持ちをまた新たに覚えつつ。
★今日の心象音楽…アン・サリー『Moon Dance』
(左メニューの《Discography》から試聴できます。)
「月の雫」は、山梨ではよく知られた銘菓で、甲州ぶどう丸々一粒を白い砂糖蜜の衣で包んだものである。ほんのりとした酸味が上品な一品だが、私には少々苦い思い出がある。
お茶を習い始めて一年ほどが経ったあるお稽古の日、私は出来心で水屋にあった「月の雫」を失敬した。一粒ぐらい分かるまい…そう思ったのだが、先生にはお見通しだったようだ。次のお稽古に行くと、先生は私達には別のお菓子を用意されていたが、お茶席でご自分だけ「月の雫」を召し上がった。心なしか、硬く渋い面持ちに見えた。私は心が騒いだが、うわべは平静を装い、その日はそのまま退散した。
次のお稽古までの間に、私は持病を再燃した。急遽かかりつけの病院に行き、薬を増やしてもらった。同行した母が医師に、お茶のお稽古に行かせて良いものか尋ねた。こんな状態ではお稽古どころではない、と母は案じたのだが、私はどうしても行きたかった。この前のお稽古の時に素知らぬ顔で帰ってきてしまったことで、心が咎めていた。何としても今度こそきちんと謝罪したい、そう切に思っていたのだ。
医師は、「抹茶はカフェインが多いから不眠を助長する恐れもありますけれども」と前置きした上で、本人が行きたがっているなら行かせた方がいいでしょう、と了承してくれた。
次回お稽古に伺うと、先生は幾分穏やかな表情をされていた。私は水屋で準備を終えると、先生に声をかけた。「今日は謝りたいことがあって来たんです」。気持ちを伝えると、思わず涙が頬をつたった。
先生は「気がつかなかったわ。気にしないでいいのよ」とおっしゃった。
その後お点前のためにお茶席に入ったが、胸のつかえが取れた私は、心に柔らかな明るい陽射しが立ち込めているのを感じた。私はすっきりとした気持ちで、お点前に専念した。
それから、病状の悪化のため半年ほどお稽古はお休みした。私としては、ブランクがあったことをさほど気には留めていなかった。だが、三ヶ月前のあるお稽古の日、先生がふと「こんなに長続きするとは思わなかったわ」と漏らされたことで、あのようなことがあってすぐお稽古に来られなくなった私を、先生がかなり心配されていたのだと今更ながらに気付いた。
そう考えると今年の十五夜は、私には一つの節目になるかもしれない。明々とした月の光に照らされて、是非ゆったりとお点前を楽しんできたい。心にかかった雲を掃き清めた、あの時の澄み渡った気持ちをまた新たに覚えつつ。
★今日の心象音楽…アン・サリー『Moon Dance』
(左メニューの《Discography》から試聴できます。)
源氏物語をコミック化した『あさきゆめみし』(大和和紀)と言えば、私の年代の女性にはかつて夢中になった方も多いのではなかろうか。私もご多分に漏れず中学時代友達から借りてハマり、特に空蝉と玉鬘(たまかずら)を気に入っていた。
方違えの夜運命のいたずらで源氏と一夜の契りを交わした空蝉は、その後の文を頑なに拒み続け、源氏の再訪にも薄衣を脱ぎ滑らして残すことで意志を通す。
旧約聖書の創世記にも、この空蝉を連想させるシーンがある。兄弟達の策謀によりエジプトの侍従長に売られたイスラエルの息子ヨセフは、その妻に言い寄られたところを服を残して逃げおおせるが、逆にヨセフが彼女をかどわかそうとしたと言いがかりを付けられ、監獄に入れられてしまう。
時に私達は、自分に落ち度が無いのに事態が悪い方へ悪い方へと向かうことを経験する。そのように追い詰められたら、普通だったら天を恨みたくなるだろう。5年半前の発病は私にとってまさに青天の霹靂であった。訳も分からぬままに山梨の病院に入院し、退院後もしばらくは摂食障害に悩まされ、字を書こうにも手の震えが止まらなかった。「何でこんな目に遭うのか…。」頼みの綱の聖書を読むのも辛い月日が続き、塞いだ気分をようやく脱したと思った時には既に数年が経っていた。
いつ頃だっただろうか、そんな悶々とした日をやり過ごしていたある時、詩編105編が目に留まった。
主はこの地に飢饉を呼び
パンの備えをことごとく絶やされたが
あらかじめひとりの人を遣わしておかれた。
奴隷として売られたヨセフ。
主は、人々が彼を卑しめて足枷をはめ
首に鉄の枷をはめることを許された
主の仰せが彼を火で練り清め
御言葉が実現するときまで。
王は人を遣わして彼を解き放った。
諸国を支配する王が彼を自由の身にし
彼を王宮の頭に取り立て
財産をすべて管理させた。 (詩編105編16-21節より)
これを読んで、すぐに私のわだかまりが霧消したかと言えば、そうではない。相変わらず、日々ちょっとしたことでつまずき、神様に内心不平を並べている自分がいた。
今でも、神様がどのような計画をお持ちで私をこのような状況下に置いているのかは、私には分からない。ただ少しだけ変わったのは、時折この聖句を思い出して、神様は何か意味があって私が東京を追われるのを容認されたのだということを覚えるようになったことである。
見えない神様の計画を信じるのは、時として何とも心許なく感じられるものだ。せめてものよすがとして、ボブ・ディランの「Day of the Locusts」を聴いて自分を勇気付けることにしたい。(注:locustは蝉のこと。) この曲が入っている『New Morning』は有名盤の合間にひっそりとある一枚だけれど、のびのびとした雰囲気、私は結構好きだなぁ。
方違えの夜運命のいたずらで源氏と一夜の契りを交わした空蝉は、その後の文を頑なに拒み続け、源氏の再訪にも薄衣を脱ぎ滑らして残すことで意志を通す。
旧約聖書の創世記にも、この空蝉を連想させるシーンがある。兄弟達の策謀によりエジプトの侍従長に売られたイスラエルの息子ヨセフは、その妻に言い寄られたところを服を残して逃げおおせるが、逆にヨセフが彼女をかどわかそうとしたと言いがかりを付けられ、監獄に入れられてしまう。
時に私達は、自分に落ち度が無いのに事態が悪い方へ悪い方へと向かうことを経験する。そのように追い詰められたら、普通だったら天を恨みたくなるだろう。5年半前の発病は私にとってまさに青天の霹靂であった。訳も分からぬままに山梨の病院に入院し、退院後もしばらくは摂食障害に悩まされ、字を書こうにも手の震えが止まらなかった。「何でこんな目に遭うのか…。」頼みの綱の聖書を読むのも辛い月日が続き、塞いだ気分をようやく脱したと思った時には既に数年が経っていた。
いつ頃だっただろうか、そんな悶々とした日をやり過ごしていたある時、詩編105編が目に留まった。
主はこの地に飢饉を呼び
パンの備えをことごとく絶やされたが
あらかじめひとりの人を遣わしておかれた。
奴隷として売られたヨセフ。
主は、人々が彼を卑しめて足枷をはめ
首に鉄の枷をはめることを許された
主の仰せが彼を火で練り清め
御言葉が実現するときまで。
王は人を遣わして彼を解き放った。
諸国を支配する王が彼を自由の身にし
彼を王宮の頭に取り立て
財産をすべて管理させた。 (詩編105編16-21節より)
これを読んで、すぐに私のわだかまりが霧消したかと言えば、そうではない。相変わらず、日々ちょっとしたことでつまずき、神様に内心不平を並べている自分がいた。
今でも、神様がどのような計画をお持ちで私をこのような状況下に置いているのかは、私には分からない。ただ少しだけ変わったのは、時折この聖句を思い出して、神様は何か意味があって私が東京を追われるのを容認されたのだということを覚えるようになったことである。
見えない神様の計画を信じるのは、時として何とも心許なく感じられるものだ。せめてものよすがとして、ボブ・ディランの「Day of the Locusts」を聴いて自分を勇気付けることにしたい。(注:locustは蝉のこと。) この曲が入っている『New Morning』は有名盤の合間にひっそりとある一枚だけれど、のびのびとした雰囲気、私は結構好きだなぁ。
もうすぐ七夕。星が美しい季節がやってきた。
約2000年前、キリストが生まれたとき天にひときわ輝く星が現れたそうで、これを目撃した羊飼いや占星術の学者達が生まれたばかりのイエスを訪れてその誕生を祝ったと聖書にある。
旧約・新約を通じて聖書では占いを厳しく戒めているが、今回は敢えて禁を犯して、占星術とイエスの生誕について少々私見を述べさせていただきたい。
12月25日は実際にイエスが生まれた日でなく、古代ローマの冬至の祭りがキリスト教に引用されたものだというのは、大方のクリスチャンも認める通説である。イエスの真の誕生日については10月の頭だったとか9月15日であるとか諸説が飛び交っている。以前図書館で借りた本で、大学の先輩にあたる鏡リュウジ氏が、イエスは双子座生まれだったのではというユニークな説を披露していたのを見かけたこともある。
その真偽に関して私はどちらでも良いと思っている。むしろ私が気になるのは、12月25日がキリスト誕生の日として結び付けられ定着した背景である。
旧約時代ユダヤ教世界では、人間の罪は動物のいけにえを捧げることで清められるという律法が遵守されていた。レビ記の16章には雄山羊にイスラエル人の全ての罪責を負わせて荒れ野に追いやる儀式が規定されている。世に言う「スケープゴート」の由来となった箇所である。この儀式を踏み台に、「山羊=悪魔に魂を売り渡したもの」という図式がイスラエル人の意識に次第に刷り込まれていく。その後、羊が神に従う純真な人々(または御子イエスそのもの)、また山羊が神に背いた穢れた人々(または悪魔そのもの)のシンボルとして、聖書の中にたびたび登場するようになる。
ところで当の12月25日だが、西洋占星術では山羊座にあたる。山羊座の支配星は土星、守護神は、かのサタンなのである(ローマ神話)。クリスチャンにはこれを聞いて眉をひそめる方もいるかもしれない。
占星術で、土星は「制限」を意味する。神の子イエスが肉となって地上に生まれたということは、自体、全能の神が人間の限界の中に生きることを強いられたということに他ならない。イエスは、この世の神サタンの影響下に置かれながら、十字架上で全人類の罪を贖ういけにえとして自ら命を捧げた。汚名を着せられ人々の罪を担う姿は、全き聖なる「子羊」と呼ぶより、苦渋の中もがき生きた「山羊」の名を冠するにふさわしい。
七夕を前に、そんなイエスに思いを馳せ、音楽を選んだ。ケイト・ラズビーの『Underneath the Stars』である。アリソン・クラウスにも似た小鳥のさえずりのような歌声とアコーディオンを軸にした柔らかなカントリー・サウンドは、あくまでも耳に優しい。
約2000年前、キリストが生まれたとき天にひときわ輝く星が現れたそうで、これを目撃した羊飼いや占星術の学者達が生まれたばかりのイエスを訪れてその誕生を祝ったと聖書にある。
旧約・新約を通じて聖書では占いを厳しく戒めているが、今回は敢えて禁を犯して、占星術とイエスの生誕について少々私見を述べさせていただきたい。
12月25日は実際にイエスが生まれた日でなく、古代ローマの冬至の祭りがキリスト教に引用されたものだというのは、大方のクリスチャンも認める通説である。イエスの真の誕生日については10月の頭だったとか9月15日であるとか諸説が飛び交っている。以前図書館で借りた本で、大学の先輩にあたる鏡リュウジ氏が、イエスは双子座生まれだったのではというユニークな説を披露していたのを見かけたこともある。
その真偽に関して私はどちらでも良いと思っている。むしろ私が気になるのは、12月25日がキリスト誕生の日として結び付けられ定着した背景である。
旧約時代ユダヤ教世界では、人間の罪は動物のいけにえを捧げることで清められるという律法が遵守されていた。レビ記の16章には雄山羊にイスラエル人の全ての罪責を負わせて荒れ野に追いやる儀式が規定されている。世に言う「スケープゴート」の由来となった箇所である。この儀式を踏み台に、「山羊=悪魔に魂を売り渡したもの」という図式がイスラエル人の意識に次第に刷り込まれていく。その後、羊が神に従う純真な人々(または御子イエスそのもの)、また山羊が神に背いた穢れた人々(または悪魔そのもの)のシンボルとして、聖書の中にたびたび登場するようになる。
ところで当の12月25日だが、西洋占星術では山羊座にあたる。山羊座の支配星は土星、守護神は、かのサタンなのである(ローマ神話)。クリスチャンにはこれを聞いて眉をひそめる方もいるかもしれない。
占星術で、土星は「制限」を意味する。神の子イエスが肉となって地上に生まれたということは、自体、全能の神が人間の限界の中に生きることを強いられたということに他ならない。イエスは、この世の神サタンの影響下に置かれながら、十字架上で全人類の罪を贖ういけにえとして自ら命を捧げた。汚名を着せられ人々の罪を担う姿は、全き聖なる「子羊」と呼ぶより、苦渋の中もがき生きた「山羊」の名を冠するにふさわしい。
七夕を前に、そんなイエスに思いを馳せ、音楽を選んだ。ケイト・ラズビーの『Underneath the Stars』である。アリソン・クラウスにも似た小鳥のさえずりのような歌声とアコーディオンを軸にした柔らかなカントリー・サウンドは、あくまでも耳に優しい。
桜が満開を迎えたと思ったら途端、寒さがぶり返し、昨日に至ってはこちらでは雪までちらつきました。
このブログでも時折チラリと触れてきましたが、私は5年前にとある病気を発症して休職、一足早く山梨に移り住んでいた親元に身を寄せて、約一年半後に辞職を余儀なくされるという経緯を踏んで今の生活を送るようになっています。
長かった休職期間中には、健康保険証の更新もありました。返却したものと入れ替わりで送られてきた保険証には、いつも傷病手当金の手続きをして下さっていた総務のベテランの方でなく、私より後に入社した女子社員の筆跡による一筆箋が添えられていました。そこには「花冷えなどもありますからお体にはお気をつけて」の一文が。
その子は総務に異動になる前、地方のBGM業者からの注文を取りまとめる部署に所属していました。私は制作、彼女は営業という立場の違いから、かつて激しく口論になったこともあった間でした。じんわりと心が温まりました。
お茶を始めてふた月ばかりの頃だった私は、「花冷えという素敵な季語を教えてくれてありがとう。柄にもなくお茶など習い始めたので、お稽古の際に使わせてもらいますね」と手紙をしたため、こちらで買い求めた絵葉書と一緒に送りました。
その子とはそれっきり。でもここ二日程の冷え込みで、ふと彼女のことを思い出しました。
琴の師範の免状を持っているという彼女のことを考えながら、しばらくぶりにCDラックから引っ張り出してきたのが、『すべての人の心に花を』。あまりにも有名な喜納昌吉やおおたか静流によるものだけでなく、香坂みゆきや河内家菊水丸のヴァージョンなど、この一曲だけを10トラック収めた一枚です。
私のお気に入りは、デティ・クルニアと“サンディー&ザ・サンセッツ”のサンディーによるヴァージョン。特にデティ・クルニアは、久々に聴いたらもう懐かしくて。昔ラジオで彼女の歌声を聴いて夢中になりながら、結局CDは買わずじまいになっていましたが、入手可能なCDが無いかどうか今からでもあたってみます。
このブログでも時折チラリと触れてきましたが、私は5年前にとある病気を発症して休職、一足早く山梨に移り住んでいた親元に身を寄せて、約一年半後に辞職を余儀なくされるという経緯を踏んで今の生活を送るようになっています。
長かった休職期間中には、健康保険証の更新もありました。返却したものと入れ替わりで送られてきた保険証には、いつも傷病手当金の手続きをして下さっていた総務のベテランの方でなく、私より後に入社した女子社員の筆跡による一筆箋が添えられていました。そこには「花冷えなどもありますからお体にはお気をつけて」の一文が。
その子は総務に異動になる前、地方のBGM業者からの注文を取りまとめる部署に所属していました。私は制作、彼女は営業という立場の違いから、かつて激しく口論になったこともあった間でした。じんわりと心が温まりました。
お茶を始めてふた月ばかりの頃だった私は、「花冷えという素敵な季語を教えてくれてありがとう。柄にもなくお茶など習い始めたので、お稽古の際に使わせてもらいますね」と手紙をしたため、こちらで買い求めた絵葉書と一緒に送りました。
その子とはそれっきり。でもここ二日程の冷え込みで、ふと彼女のことを思い出しました。
琴の師範の免状を持っているという彼女のことを考えながら、しばらくぶりにCDラックから引っ張り出してきたのが、『すべての人の心に花を』。あまりにも有名な喜納昌吉やおおたか静流によるものだけでなく、香坂みゆきや河内家菊水丸のヴァージョンなど、この一曲だけを10トラック収めた一枚です。
私のお気に入りは、デティ・クルニアと“サンディー&ザ・サンセッツ”のサンディーによるヴァージョン。特にデティ・クルニアは、久々に聴いたらもう懐かしくて。昔ラジオで彼女の歌声を聴いて夢中になりながら、結局CDは買わずじまいになっていましたが、入手可能なCDが無いかどうか今からでもあたってみます。
このところ雨がちだし、平地にある我が家の周りではおいそれと耳にするわけではないが、山間ではそろそろ「初音(はつね)」が聴かれる頃ではないだろうか。
普通「初音」と言えば、今年初めて聴くうぐいすの鳴き声のことである。お抹茶をいただいた後にお道具を拝見して、亭主の口から「初音」の銘が告げられるのはちょうど今時分だろう。
ただ季節の景色を写し取った銘ならば、お茶を含んで満足した気分にほのぼのとした情緒を添えるくらいだが、「初音」という言葉は発せられた瞬間、しんとしていた茶室に凛とした韻律を生じさせる。使い尽くされ至極ありふれた銘のようでありながら、手垢にまみれてしまうことなく、毎年茶室に新鮮な風を送り込んでくれる不思議な力を内に秘めている。
だがこの銘の本当の面白さは、茶花や他の道具の銘との取り合わせで異なる季節感を演出できることではないか。
「梅に鶯」の花札の例を待つまでもなく、今は蝋梅を茶花として活けたり、「窓の梅」を茶杓の銘に選んだりして、うぐいすの鳴き声の余韻に耳を澄まそうとする時季である。しかし、藤や卯の花が茶室や道具を彩るようになると、季節は初夏、声の主はほととぎすである。
取り合わせの妙を楽しみながら季節を感じ取る趣向は、繊細な日本文化ならではかもしれないが、同時に極めて音楽的なセンスだと私は思う。
その好例として真っ先に頭に浮かぶのは、荒井由実の「生まれた街で」である。
いつものあいさつなら どうぞしないで
言葉にしたくないよ 今朝の天気は
街角に立ち止まり
風を見送ったとき
季節が わかったよ
歌詞の中には、天候も季節も限定する言葉は見受けられない。けれど、曲のそこかしこから、爽やかな空気が満ち満ちている様が、匂い立つばかりに伝わってくる。
おそらく季節の変わり目だろう。しかし、冬から春、春から夏、夏から秋、秋から冬、どの季節をとってもしっくりくるから驚きである。
聴く人が、その日見た風景、肌に受けた風、陽射しの色合いによって、歌われている情景が幾重にも様変わりする。
これがライヴ演奏なら尚更、楽器編成、アレンジ、ソロ・パートのフレージング等によって、聴くたびに全く違う臨場感をもって、多様な季節の表情を見せてくれるのだろう。
人生においてそのような名曲に一つでも多く出逢えたとしたら、こんな嬉しいことはない。
普通「初音」と言えば、今年初めて聴くうぐいすの鳴き声のことである。お抹茶をいただいた後にお道具を拝見して、亭主の口から「初音」の銘が告げられるのはちょうど今時分だろう。
ただ季節の景色を写し取った銘ならば、お茶を含んで満足した気分にほのぼのとした情緒を添えるくらいだが、「初音」という言葉は発せられた瞬間、しんとしていた茶室に凛とした韻律を生じさせる。使い尽くされ至極ありふれた銘のようでありながら、手垢にまみれてしまうことなく、毎年茶室に新鮮な風を送り込んでくれる不思議な力を内に秘めている。
だがこの銘の本当の面白さは、茶花や他の道具の銘との取り合わせで異なる季節感を演出できることではないか。
「梅に鶯」の花札の例を待つまでもなく、今は蝋梅を茶花として活けたり、「窓の梅」を茶杓の銘に選んだりして、うぐいすの鳴き声の余韻に耳を澄まそうとする時季である。しかし、藤や卯の花が茶室や道具を彩るようになると、季節は初夏、声の主はほととぎすである。
取り合わせの妙を楽しみながら季節を感じ取る趣向は、繊細な日本文化ならではかもしれないが、同時に極めて音楽的なセンスだと私は思う。
その好例として真っ先に頭に浮かぶのは、荒井由実の「生まれた街で」である。
いつものあいさつなら どうぞしないで
言葉にしたくないよ 今朝の天気は
街角に立ち止まり
風を見送ったとき
季節が わかったよ
歌詞の中には、天候も季節も限定する言葉は見受けられない。けれど、曲のそこかしこから、爽やかな空気が満ち満ちている様が、匂い立つばかりに伝わってくる。
おそらく季節の変わり目だろう。しかし、冬から春、春から夏、夏から秋、秋から冬、どの季節をとってもしっくりくるから驚きである。
聴く人が、その日見た風景、肌に受けた風、陽射しの色合いによって、歌われている情景が幾重にも様変わりする。
これがライヴ演奏なら尚更、楽器編成、アレンジ、ソロ・パートのフレージング等によって、聴くたびに全く違う臨場感をもって、多様な季節の表情を見せてくれるのだろう。
人生においてそのような名曲に一つでも多く出逢えたとしたら、こんな嬉しいことはない。