水の門

体内をながれるもの。ことば。音楽。飲みもの。スピリット。

一首鑑賞(16):大西民子「踏絵踏む足の次々あらはるる」

2015年09月12日 10時04分05秒 | 一首鑑賞
踏絵踏む足の次々あらはるる夢醒めて寒しわれのあなうら
大西民子『印度の果実』


 時折、自分の信仰を試されるような瞬間がやって来て、咄嗟の判断でしたことが悔恨を残すことがある。
 私にとって「踏絵を踏む」ようだった経験は、四年前に就労していた職場の同僚のお父様が亡くなり仏式の葬儀に参列した際、葬祭場に居合わせた会衆の見守る中お焼香を拒むことができなかったことである。私はたまたま先祖伝来の風習などに拘らない家庭に育ち、自分だけクリスチャンになった後も親戚の葬儀では隣にいた親がお焼香の鉢を私は飛ばして回してくれるなど配慮してくれていたお蔭で、葛藤を味わわずに済んでいた。
 列王記下5章に、アラムの王の軍司令官ナアマンという重い皮膚病を患った人物が出てくる。イスラエルの預言者エリシャの勧めに従いヨルダン川に身を七度浸して病が癒えたナアマンは「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません 」とエリシャに告げ、ただ主君がリモンの神殿に行ってひれ伏すときの介添えで自身もひれ伏すことを赦してくださるように請う。エリシャもこれを了承した。
 現在通っている教会では厳密にお焼香を禁じてはおらず、するかしないかは各人の良心に任されているのだが、母教会で染み付いた考え方は強固でなかなか柔軟には考えられない。
 首掲の歌では、夢に踏絵を踏む足が次々現れたという。だから、夢の中の大西は踏絵を踏んだわけではなかったのかもしれない。しかし悪夢から目覚めた彼女は、自分の足裏からひんやりと血の気が引くように感じた。もしかすると日常生活の中で自分の信念を裏切るような何事かを為していたのだろうか。
 〈…神様、ごめんなさい…!!〉と心の中で叫びながらお焼香をした私。聖書には「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」(ローマの信徒への手紙14章1節 )とも、「心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです」(ヨハネの手紙 一 3章20節)ともある。そう書いてあるからと言って、何でもかんでも赦されると高を括るのは傲慢というものだろう。ただ全てを神様に委ねる――それだけが私にできることである。

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